防衛機制―守護者と壁の役割―
★『置き換え』★
置き換え――
一般的には、単に置き換えること。別のものを使って、目的を成そうとすること。置き換えダイエットなど。
心理的には、ある対象に向けられていた感情なり態度なりが、別の対象に向けられること。
あるいは、別の形で表現されたりすること。
何かが欲しいという場合、問題がなければ、それを意思表明したり、行動に移したりします。
しかし、それをしたり、そう思うこと自体が、問題となる場合がある。そう思える場合がある。
その場合、欲求を他の対象に向けることで、満足しようとします。
あるいは、認められない、それでいて抑えきれない、そんな感情を、本来とは別の対象に向けることで、安定を保とうとする。
例えば、誰かが憎いとする。しかしそれはタブーになっており、表明することはできないし、意識自体がそれを認めない。
そんな時に、その憎しみなり怒りは、他の対象に向けられます。憎んでもいいような対象に、向けられる。
身近な対象に対し否定的な感情を抱いており、しかし、社会的、あるいは、その他もろもろの事情で、それが承認されていない場合は、少し離れた、あるいは遠く離れた、否定的な感情をぶつけても問題とならない対象に、感情が向けられる。
かくして、その対象は、必要以上の感情をぶつけられることになる。
また、それは否定的な感情に限らず、肯定的な感情においても、言えそうです。
反動形成ではその態度が反対のものとして出ましたが、この場合は、態度はそのままで、向けられる対象が置き換えられる。
欲求を他で満たすという場合、そんなに罪だとは思えませんが、感情を他にぶつけるとなると、ちょっとややこしいですね。
それと、対象を他に置き換えても、本来の感情は解消されるとは限りませんから、一時的な安心という意味では有効でも、恒久的な意味では、ちょっと無理が出てきます。
置き換えをする根底には、ストレートに表現できない事情があったり、タブーがあったりするわけですが、それはどちらかというと、そう強く思い込んでいる、という面があるのかもしれません。
といっても、それが悪いということではなくて、そう思い込ませる布置が出来上がっているということなんでしょう。
となると、それについて突き詰めていけば、「本当にそれを表現することはダメなのか?」と、いうことになってくる。
ストレートに向けることが、本当に罪なのか?
そういうところに、行き着くかもしれません。
確かに、社会に生きていると、本当のことが言えない、という面があります。
全部が全部、本当のことを言うわけにはいかない。
また、相手を気遣って、本当のことを言えない場合もあるでしょう。
あるいは、何らかのタブーがあり、それ故にストレートな表現が禁忌になっている場合もある。
ただ、感情は正直なので、ストレートに出てきます。
ストレートに出てくる感情と、そうするわけにはいかない自我がせめぎ合い、葛藤が生じる。
その葛藤に自我が堪えられない時、力を逃がすために、この場合は、置き換えという手段が使われます。
ストレートな感情が、他に向けられる。
そこに必要なのは、赦しなのかもしれません。
そう思っても、実は問題ないのだよ、という気づき。
我々はよくタブーを作りがちですが、それが適用されるのは、実は限られた場面だけだったりします。
こういう時は、確かに問題になるかもしれない。でも、他の場合は?
あるいは、前は問題だった、でも、今は?
我々は思いがけず、過剰な制限を己に課している場合があります。
それはそうなるだけの事情があったということなので、とても責められない。
ただ、いつの日か、自分を赦してもいいのかもしれません。
もう大丈夫だよと、自分に言ってあげても、いいのかもしれない…
ページの先頭に戻る