防衛機制―守護者と壁の役割―
★『合理化』★
合理化――
一般的には、理に適ったようにすること。理屈に合っている、もっともらしいように、理由付けすること。
心理的には、理屈に合っているからと、自分のしたことを正当化すること。
例えば、欲求が満たされない時、欲求が満たされないだけでも心が乱されるのに、それを明確に意識すると、余計に堪らなくなる。
なので、そんなものははじめから欲しくなかった、それは必要のないものだと、自分を正当化する。
欲求は満たされなかった、でも、それでよかったんだと、納得しようとする。
そこに見え隠れするのは、自尊心。
それを本当は欲しかった、でも、得られなかった。
それを認めると自尊心が傷つけられるので、いや、はじめから欲しくなかったんだ、それは実は好ましくないものだったんだと、理由付けし、正当化する。
あるいは、何らかの理由で判断を誤った。
それを認めると自尊心が傷つくので、無理にでも理由を作って、結果そうなったけど間違ってはいなかったと、自分を正当化する。
そうしてまでも、自尊心を守ろうとします。
そう考えると、これまた、自我を守るために、そうしていることになります。
自分は大丈夫だと納得するために、無理やりにでも、理由付けする。
大丈夫と言えば、本当は、欲求が満たされなくても、たとえ間違っても、実は大丈夫なのです。
多少揺らいでも、わたしは大丈夫だと、思える。
が、そう思えない場合もあります。
どんな状況でもわたしは大丈夫だと思えるのは、基本的信頼という土台があるから。
ちゃんと受け容れられた経験があるからです。
それがあると、多少のことがあっても、自分を信じることができる。
が、逆に、それがないと、ちょっとのことで揺らぎます。
些細なことで、自分を疑ってしまう。
といっても、だからその人が弱いとか、そういうことではありません。
単に、そういう経験をしてきた、というだけなのでしょう。
自尊心を疑うようになる経験としては、干渉があります。
自分は気持ちよくやっているのに、横からあれこれ言われる。
いちいちやることなすこと、否定的な評価を与えられる。
そういうことが続くと、ああ、自分はダメなのかと、自分を低く見る物の見方が備わってしまう。
ちょっとしたことで自分を疑う、癖がついてしまう。
慢性的に自分を低く捉えることは、自我には堪らないことなので、何とか揺るがない高い位置に、自分を置かねばならなくなる。
それが努力という形で現れるならよさそうなもんですが、努力なしに高い位置に置こうとする場合もあるし、たとえ努力しても完璧はあり得ないので、どこかで間違いを犯す。
それが、基本的信頼という土台が脆い人は、堪えられません。
常にギリギリのところにいるので、少しでも低くなって否定されるのを恐れる。
自分を正当化しないと、やってられない。
自我を保つことができません。
なので、他の人から見れば些細なことでも、本人は、実はこれでいいんです、と理由付けし、正当化せねばならなくなる。
このように考えると、いちいち正当化する人も、どちらかといえば正当化しないではおれない人であって、いわば、ぎりぎりのところで踏ん張っている人とも、とれる。
ただ、そんなことを言うと、それこそ自尊心を傷つけるので、言えない。
ここで問題となるのは、いちいち正当化していたのでは疲れるということ。
身が持ちません。
また、あまりに正当化が優位に立つと、道理や論理が蔑にされる危険さえあります。
そうなってくると何とかしなければならなくなるのですが、それを成すのに求められるのは、理由付けでも道理でもなく、自分を認めることや、受け容れられる経験となるでしょうか。
自分は大丈夫という芯が、求められる。
そして、こういうものは、人と人の間でしか育てられないものなのかもしれません。
わたしは大丈夫、多少○○でも問題ない。
そう思えることが、大切になります。
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