防衛機制―守護者と壁の役割―
★『投影』★
投影――
一般的には、物の影を何かの上に映し出すこと。ある物事を、他に反映して映し出すこと。
心理的には、自分が持っている性質などを、他者の性質として捉え、扱うこと。
――と、なるでしょうか。
投影とは、日常会話でいうところの「自分のことは置いといて〜」とか、「棚上げして〜」や「心に棚を作って」とかいうもの。
つまり、自分も同じことをしていたり、同じ性質を持っていながら、相手のことをとやかく言うこと。
誰もがやってしまう行為です。
特に、自我が受け容れられない自身の性質というのは、投影されやすい。
それを自分のものとは認められないので、他者のものとして扱います。
その性質を自分も持っている → しかし、それを認めるわけにはいかない。
なので、その性質は、自身の中で、切り離されます。
切り離されるんだけど、それは自分の一部なので、内部に留まる。
自我からは切り離されるけど、無意識にある。
無意識にあるのだけれど、うすうす気づいているので、気になって仕方ない。
そんな時に、自分が認めたくない面を持った対象が、目の前に現れる。
すると、カッとなって、攻撃せずにはおれなくなります。
これはなぜかというと、半無意識的に、そういう癖がついているから。
普段から、「その性質を自分は持っている → しかし、それを認めるわけにはいかない」に基づいた、処理が行われているからです。
それを認めるわけにはいかないので、徹底的に、否定している。
考えることさえなしに、自動で否定している。
そして、無意識下に追いやっている。
この自動処理が現実にも適用され、目の前に現れたそれは、攻撃されます。
その際にある布置が、自分もその性質を持っているのに相手を攻撃しているとか、自分の認めたくない側面を相手に押し付けているとか、そういうもの。
そして、その奥には、自我を守るための自動処理がある。
こういうことだけを考えると、投影というのは単に困った行為のように思えますが、実はそれだけではありません。
投影することによって見えることが、あるのです。
身体の構造を見ても、我々は自分の全体像を把握できないようになっています。
目は正面についているので、自分のすべてを見ることはできない。
自分を見るには、鏡などに自分の像を映し出す必要があります。
態度や行動などに対してもそうで、人は自分を客観的に見ることができないようになっている。
他者に対しては、ある程度の全体像が見えますが、自分のことは分かりません。
で、それを分かるようにするのが、投影であるというわけ。
人に映すことによって、自分が持っている性質なり態度なりが、見えてくる。
上で書いたように、投影ははじめ、相手の非難や攻撃に留まります。
で、これだけだと不毛なのですが、その先がないわけではない。
人に話す場合、投影ばかりを続けていると相手も嫌になり、どこかに行ってしまったりしますが、話を聴くプロを前にして話していると、やがて奥にあるものが出てくる。
すぐには出てこないのだけれど、話を聴きながら待っていると、それだけではないものが出てくるわけです。
はじめは非難や攻撃だけかもしれません。しかし、それを続けているうちに、別の話も出てくる。その別の話が、実は怒りにつながっていたりして、そういうことに、話し手は、話しながら気づいてくる。話して話して話すうちに、だんだんと、心の整理がついてくるわけです。
そして、そんな中で、自分が投影していたものの中に、意外とよい面を見つけたりする。
なんだ、そんなところがあったのか。
そういう面白い部分があるのか。
そういった、「それだけではない面」が、見えるようになってきます。
このようなことを、「投影の引き戻し」と言います。
徹底して嫌っていたものの中に、今までは見てこなかったいい面を見出すようになる。
これをきっかけとして、人は今まで他者に投げかけて非難するだけだった己の影を、自分のものとして受け容れてゆくようになります。自分の人生に組み込み、統合してゆくようになる。
このような過程が人間を豊かにし、足りない部分を補い、人を全体性に近づけるのです。
なので、投影というものは、一面ではすごく困ったことであるものの、それだけではないものを含んでいるんですね…
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