防衛機制―守護者と壁の役割―
★『同一視』★
「同一視」――
一般には、対象と自分を同じだとみなし、扱うこと。 心理的には、対象と自分を無意識のうちに(意識できないままに)混同し、同一とみなし、扱うこと。また、そうすることで心の安定を図ろうとするもの。
―― そういえるでしょうか。
ここで問題となる負担は、二つ。
一つは、相手のしていること――場合によっては、相手の存在自体――が、堪らない。意識するだけで、いたたまれなくなるような場合。
もう一つは、相手のようになりたいが、実際にはなれない場合。相手は望ましいものを持っている、しかし、自分は持っていない。それを意識するのが苦痛な場合。
一つ目の場合、もう、見るだけで堪らないわけです。なので、見ない方法がいる。
その見ない方法が、その相手と同一化することであり、相手と同じになることで、相手を見ないようにします。
相手を見るということは、相手と対すること。相対することです。
けれど、相手と同じ位置に立てば、相手を見ないですみます。対面しないので、直接には、見ないですむ。
これによって、一応の心の安定は得られます。
堪らないものを見ないという点において。
二つ目だと、例えば、あこがれの対象と自分を同一化する。
自分とは違う状況にある人と、自分は同じだとして、扱う。
本当は、それはない。けれど、あるように思って生きる。
それにより、心の安定を得ようとします。
このように、同一視するにも、理由があります。
それも、どちらかといえば、悲しい理由。
だから、責められない。
責められないのだけれど、他の防衛機制と同じく、長期的には困ったことになってくる。
何も状況は変わっていないという、より痛い現実が、待っているのです。
現実を見ないようにするおかげで、心の安定が得られる。
しかし、見ないようにしたおかげで、時だけが過ぎる。
そんな悲しいことが、起きる。
しかし、時は、別のものも、運んでくれます。
時のおかげで、その猶予で、自我は成長するのです。
前よりは、幾分か、強くなる。
前は、防衛機制、この場合は同一視が、心を守ってくれた。
しかし、強くなった心は、防衛機制なしに、現実を見ようとします。
それは、一度ではうまくいかないかもしれない。
一進一退を繰り返すかもしれない。
でも、そうしながら、だんだんと意識化していきます。
外的な状況においても、追いつめられるかもしれません。
前は、それでよかった。でも、もうそろそろ考えないといけない。
いつか、正面切って、勝負しないといけない。
そういう状況に、追い込まれる。
でもこれも、勝負の時が来た、ということかもしれません。
確かに、今までは保留されてきた。でも、今この時、向かい合う。
そういう状態になったと。そこまで成長したと。
人はみな、ある程度は、同一視・同一化するものだと思います。
誰かに憧れたり、模範として、その人のようになろうとする。
でも、やがて、それを卒業し、自分になろうとします。
なので、同一視との対決は、自分になろうとする「通過儀礼」なのかもしれません。
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