防衛機制―守護者と壁の役割―
★『反動形成』★
「反動形成」――
簡単に言うと、反対のことをすること。
心理的には、抑圧したものと反対の態度や行動をとること。抑えているものと反対の面が強調されて、表に出てくる。
――となるでしょうか。
相手を好きな場合、そう思うことに問題がなければいいのですが、それを打ち消そうとする場合がある。こんな時に、自我は好きだという気持ちを抑圧しようとする。そして、表面的には、むしろ嫌いであるかのような態度をとったりする。あるいは、過度の無関心を装う。
内面的な好きだという気持ちを打ち消すために、外面的にはその反対を出し、打ち消そうとします。
これは相手が憎い場合も同じで、相手を憎むだけの経験をしたけれど、憎むわけにはいかない、憎むことはいけないことだという強い制限がある時、内面を打ち消す反作用として、逆の態度が強調されます。
この場合は、表面的にはむしろ好意的だったり、愛情を以って接したりする。
ここには、「本心」と「そう思ってはならないという制限」の、葛藤があります。
「気持ち」と「自我の囚われ」の、せめぎあいがある。
「好きだ」とか「嫌い」「憎い」というのは感情であって、勝手に出てくるものです。されたこと、体験したことに対し、心の奥から出てくるもの。
それは基本的には「ただ受け取るもの」なのですが、何らかの事情で、自我がそれをよしとしない場合がある。
好きになってはいけないとか、好きだと思うのは恥ずかしいとか、嫌ってはならない、憎んではならないと、制限を課してしまう。
なので、そんな気持ちは抑圧されます。
抑圧するのですが、それだけでは足りないので、もっと打ち消さねばならない。
放っておくと気持ちはどんどん膨らむので、それを抑えるために、もっともっと打ち消さねばならない。
その手段として、違う違うと思い込むだけではなく、態度や行動として、その反対の面を強化して出します。
それによって、気持ちを打ち消そうとする。
ただ、これ、客観的に見れば、好きなのはそんなにいけないことか? とか、憎むのはそんなに悪いのか? となってきます。
特に、嫌うとか憎むとか、そういうのは世間では否定的に扱われますが、心がそういう反応をするということは、それだけの体験をした、ということなのでしょう。
抑圧し、それに触れないようにしている限り、その辺のことは分かりませんが、その気持ちについて深く考えたり、誰かに向かってそのことを話していると、自分がどういう布置に置かれ、結果、そういう感情が出てきたのか、だんだんと分かってくる。
そうなると、確かに憎むのはいけないことかもしれないけれど、そうなるだけの経験をしたなぁとか、気持ちに変化が生じます。一遍には無理でも、だんだんと呑み込めるようになってくる。
我々はよく、感情を否定しようとしたり、抑えつけようとしたりしますが、感情というのは勝手に向こうから出てくるものなので、基本的にはコントロールできません。
表面に出てこないようにという意味では、ある程度コントロールできますが、表面に出てこないようにしても、内面には出てきている。
また、表面に出さないようにしたら、内面に溜まるようになっています。
自我がもし、感情の爆発というものを恐れるならば、表面に出さないようにするという行為は、一時的な措置としては有効ですが、長期的な視点に立つと、むしろ逆になります。
感情を溜め込むという行為が何を生むか、それは想像に難しくありません。
社会で生きる我々は、感情のすべてを素直に表面に出すわけにはいきません。また、それぞれ、感情を抑えるだけの事情を持っていたりもするでしょう。
しかし、感情というのは表に出さない限り消えない性質を持つようなので、出しても大丈夫な場所で出すことを覚えないと、どこかで爆発しかねません。
感情を打ち消すという行為は、将来の爆発を育てるという側面も持つのです。
抑圧や反動形成が長く続くと、上記の理由から、堪らなくなってきます。
持たなくなってくる。持ちこたえられなくなってくる。
その苦しみに、自我はやられてしまうのですが、この場合は、やられてしまった方がいいともいえる。
なぜなら、目詰まりを起こしているのは自我の制限によるものなので、自我を緩め、流してやった方がいいことになります。
ただ、どこで流すかというのが、問題になる。
なので、できれば、流しても大丈夫な場所、流すことが赦される場所で、することが望まれたりします。
(自我が制限するだけあって、どこででも出すと、確かに危ない)
それと、目詰まりを起こしていたものが流れはじめる時、最初は、濃いものが出ることがあります。
排水溝なんかがそうであるように、感情もまた、びっくりするようなものが出てくるかもしれません。
それに触れると、相手も本人もびっくりしてしまうわけですが、上に書いたような経緯を鑑みると、「今まで抑えつけていたのだから、そうなるかもしれないなぁ」ということも、いえます。
そして、そういうこともありながら続けていると、流れはだんだんと落ち着いてきて、そこそこのものになってゆく。
このようにして、今までは抑えつけよう、打ち消そうとしていたものが、自分の中に組み込まれてゆきます。
そうなると、もう打ち消す必要もないし、今までなかったものが補われて、実は人間的にも豊かになるというわけ。
こういうことは簡単ではありませんが、あふれるものを出すことを覚えるというのは、誰にも必要なこと、学ぶべき点なのかもしれません…
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