防衛機制―守護者と壁の役割―
★『抑圧』★
「抑圧」――
一般には、無理に抑えつけること。心理的には、(自我にとって)不快なものや、認めなくないもの、自我を脅かすもの等を、無意識下に追いやること。意識しないようにすること。
―― と、なるでしょうか。
意識するのがためらわれるものというのは、誰もが持つのではないでしょうか。意識するだけで苦しくなるとか、何らかの制限により意識するだけでも罪悪感を感じるとか、いろいろとあると思います。
意識するだけでも物凄く苦しい場合、意識するという行為が過負荷になりますから、保護しないと危ない。で、どうするのかというと、意識から「それ」を締め出すことになる。過負荷を誘発するような要素は、それを意識する前に、自動で無意識下に追い出す。見ることも、考えることもやめる。意識しないでよい領域に、振り分ける。
「○○については、考えることさえ罪だ」。こうなった場合、考えるという行為自体が負荷になるので、考えないようにする。それを繰り返すうちに強固な経路が構築され、○○に触れただけで、無意識下に抑圧するように、自動処理されるようになります。
こういう処理が、半ば無意識的に行われます。
心の安定のためにあるこの抑圧ですが、一時的には有効であるものの、長期的には、むしろ逆になります。
これはいわば、目の前にある物を、見たくないからといって押し入れに隠すようなもので、そのうちに押し入れはいっぱいになり、破裂するかもしれません。また、それにも、意味が出てくる。
上記のように、抑圧する理由としては、意識するだけで苦しいとか、意識するだけで罪悪感を感じてしまうとかがあります。でも、それは、「そう感じる」という意味では真実ですが、「ものの是非」という意味では、必ずしも真実ではない。
確かに苦しい、でも、それ自体が悪なのか?
確かに罪悪感を感じる、でも、それ自体は悪なのか?
それに関して、確かに(以前)苦い思いをした。でも、目の前のそれは、苦い思いをさせるものなのか?
確かに、それに関して罪を犯す場合がある。でも、必ず罪になるものなのか?
物事に、二面性や多面性がある以上、ある部分だけを以てすべてを語ることはできません。一部だけで、全部を善にしたり悪にしたりはできない。本来は。
しかし、自我が幼いうちは、その葛藤に堪えられません。あまりに苦しいので、その段階までいかない。
だから、抑圧してでも自我を守る必要がある。
それはそれで正しい行為です。しかしそれは、自我を守るという意味で、という限定がつく。
目の前のそれに対する姿勢、という意味では、また違ってきます。
人間の成長を見ても、幼子は守られねばなりません。幼少期は、保護されねば危ない。
これは自我も同じで、考えるだけで負担になり心が壊れそうになるなら、その負担を取り除かねばならない。
だから、防衛機制が働く。この場合は、抑圧する。
しかし、人間が成長するように、自我も成長します。そして、自分で判断しなければならなくなる。それもできれば、フェアな判断が望まれる。
今まで自我を守ってくれた抑圧というメカニズムは、フェアな判断を邪魔します。
自動で無意識下に追いやるので、判断前に消えてしまう。
フェアな判断とは、物事のいい面も悪い面も知ったのち、判断を下すことです。ということは、抑圧しているいい面や悪い面についても、意識化せねばならない。
自動処理を何とか止め、葛藤に堪えて、答えを出さねばならない。
自我が成長すると、そういうことが望まれてくるわけです。
さらには、「もう持ちません」(持ちこたえられません)という状況だって、出てくる。
あまりに痛ましいので、見ないように、考えないようにしてきた。でも、「それ」は、いつも目の前にある。
こうなると、無意識下に溜まったものがいっぱいになって、やがて意識を圧迫しだします。
また、そうならないと、危ない。
いつも、負荷がかかるなら、いつか取り除かないと、やっぱり危ないわけです。
だから、この「もう持ちません」という信号は、負担の根本と勝負しようという、合図になります。
そうなるまでに、自我もある程度、成長しているだろうし。
罪悪感についても、それを悪だとしてきたけど、本当に悪なのか? ということになる。
特に、衝動と関係するものは、人間活動の維持と関係していたりするので、悪として完全に排除すると、命が危なくなるかもしれない。あるいは、自らの命には関わらなくても、未来の命は生まれないかもしれない。
本能的なものは、道理を抜きにして、要求してきます。また、そうでないと、人間活動が維持できません。
腹が減った、のどが渇いた、疲れた、眠い、異性に惹かれる、これらは自然なものとして、人間に備わっています。
しかし、何かの事情で、この自然なるものに制限が加えられるかもしれません。また、社会活動というものを考えたら、その制限も悪いこととはいえない。社会で生きようとすると、どこかで我慢が必要になる。
ただ、我慢が一面的になると危ないのも事実。実際に命を落とすことだってあります。
なので、ここでも答えを出すことが望まれるようになります。
今までは保留されていましたが、自我が成長してきたら、葛藤に堪えて、悪としてきたものとそれだけではないもの、両方を受け容れたうえで、判断を下さねばならなくなる。
このように、はじめは保護してくれる役割として機能する抑圧ですが、いつかは卒業しなければならないのです。
ならないというよりも、そうなってくる。
人間の中にある自然な流れが、それを要求するでしょう。
今までは守ってきた、でも、これからは判断しなさい、と。
このような布置は、人生の中でもありますが、心の状態という意味でも、あるんですね。
さみしい思いやつらい思いをしながら、成長する段階が…
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