【ユングの言葉】
『神に対する態度』/「図説ユング」(林道義 著)より
ユングは12歳の時、神についてこう考えている。
「世界は美しく、教会も美しい。そして神様がこれらすべてをお造りになり、青空のはるかかなたで黄金の玉座に腰掛けてらっしゃる」
しかし、こう考えるうち彼は以前見た巨大な男性性器の夢を思い出し、なにか「罪の中で最も恐ろしい罪」を犯すように思えた。 彼は三日三晩苦しんだのち罪について考えるようになる。そして最初の原罪を犯したアダムとイブに行き着いた。 ユングは神は自分の思うとおりに二人を造ったはずだと考えた。神は二人を罪を犯さないように造ることもできたはずである。しかし罪を犯すように造ったということは、二人が罪を犯すことが神の意思だったのだと考えた。つまり私(ユング)が罪を犯すなら、それは神の意思なのだ、と。
そう考えると彼の気持ちは楽になった。しかし、では神が彼に何を望んでいるかは分からなかった。
ユングは散々考えたあげく、最後には「神は私に勇気を示すことを望んでおられるのだ」と結論した。彼は勇気を奮い起こして、考えの浮かぶままに任せた。浮かんできた考えはこうであった。
「目の前に美しい聖堂がある。その上に青い空がある。神はこの世のはるか高いところに、黄金の玉座に座っている。玉座の下から、途方もなく多くの糞便が新しい青い教会の屋根の上に落ちてきて、それを粉砕し、教会の壁をバラバラにした」
『神について…@』/「ヨブへの答え」より
「――神は、この世のあらゆる悪の責任を人間になすりつけ、自分に対しては一切の罪を免除した。
全能神におけるこの自己認識の欠如を埋めるものは、人間の意識において他ならない。
だからこそ、神は人間の姿となって地上に現れねばならなかったのだ」
『神について…A』/「ユング自伝」より
「――それが神への奉仕、すなわち人間が神に対してなしうる奉仕の意味である。
暗闇から光があらわれるかもしれず、造物主はその被造物を意識し、人間は自分自身を意識できるかもしれない」
『神について…B』/「図説ユング」(林道義 著)より
「世界を創造するのは神ではなく、この私であり、私の意識化という創造行為によって初めて、
世界は客観的に存在するものとなるのである」
『ユングの晩年』
ユングは『ヨブ記』において神が横暴なのは、女性性を欠いていたための無知によるものと捉え、「マリア被昇天」によって女性的な智恵が復活する端緒を見出したのである。
この本の中には、「神が神自身の無意識に苦しむ」とか「神と人間の関係が変化するにつれて神自身も変化する」「イエスの出現は神の意識化を意味する」「イエスは人間の代わりに罪を背負うために地上に来たのではなく、人間の苦しみを神自身が味わうために来たのだ」「マリア被昇天は神の中に女性性が受け入れられたことを意味する」など、きわめて独創的な発想が現れている。一貫して基礎になっているのは、ユダヤ−キリスト教の全歴史を貫く神と人間のドラマが、意識と無意識の間の葛藤と和解を表しており、対立とその結合の表現だという見方である。
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【シュピーゲルマンの言葉】
J.M.シュピーゲルマン「騎士の物語」より
『冒頭』
神の子にして悪魔であるあの蛇がいまも混乱を起こし、分裂を生じさせているのだ。そして神はまだ彼と統合しえないでいるのだ。だからこそ、人間は自分のなかで自身を統合し、それのみでなく、同様に神が自身のなかに統合を得ることを助けなければならない。おそらく、古代の人々が言ったように、終末の日には神は再び一つになるであろう。そして人間もまた一つになるであろう。
『天使の言葉』
「お前が頭では理解したことを、血と肉で経験できるためには、その苦しみと力を通り抜ける以外にはなかったからだ。しかし、今やお前の苦しみは終わりに近づいた。そしてお前の成長の第二段階が始ろうとしているのだ」
『第二の冒険』
魔女。女神。神の妻と神の母はすべてひとつであった。これは何を意味するのであろうか。それは、苦悩と歓喜はひとつのものであることであった。また、神と人がともにそれらを耐えているということであった。栄光と堕落、同情と冷淡、悲しみ、喜び、愛と罪、これらすべて、そしてそれ以上のものが、神と人とに属している。そして、それらは神の右腕たる女神によってもたらされるのだ。人は天国と地獄の人間的なレベルでの衝突をすべて耐え忍ぶことを求められている。そして、おまけに神的なレベルでの衝突も耐えなければならないのだ。
しかし、と私はさらに考えを進めた。ここにいる女神は、言葉もなく、人間によっても、神によっても拒否されている。あるいは、神はただ彼女を忘却しただけなのだろうか。私は海の中を思い出した。そして、彼は海の底に自らを追いやったのであるから、彼の妻は地中に追放されたのだと気づいた。彼らはこうして別れ別れになっているのだ。神はここでも起き上がれなくなっているのだ。
私に課せられた任務に変化はなかった。バラバラになっている私自身の断片を拾い集めること、そして、神が同じことをするのを助けること。何が変わったのか。私の感情はより深くなった。また反対物の矛盾相克から逃げ出さずに、それに耐えられるようになった。最もよいことは、天使が私のなかに棲み処を見つけたように思えることだった。この神の御使いが私のところにとどまることを望んでもよいものであろうか?
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【所感】
神はその完全性ゆえに、不完全を抱える。
完全なものに変化はなく、したがって、発展がない。
また、自然には善悪、光と闇、静と動、二面性が存在する。
善なるものだけで世界は完成されず、光だけでも、世の中は成立しない。
神という善なるもの、光り輝くもの、聖なるものが存在する時、それと同時に、悪なるもの、闇なるもの、汚れたものが同時に存在せねばならない。
こうした神の不完全性を補完するために、人間は存在するのかもしれません。
人間はその未完成さにより、過ちを犯し、傷つき傷つけられ、悩み、苦しみますが、その未完成さゆえに、神にもない、発展の可能性を有している。
神は自身から邪悪なものを切り離したが、人間はそうしたくてもできない。
故に苦しみもしますが、統合の機会も有している。
我々は、善でもなく悪でもない、その両方を包含したものになれる可能性を有している。
ユング派の人たちは、そこに、神の救済をも見出しているのかもしれません。
そしてそれが、人間自身への救済にもなる…
その他の名言集
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