表紙過去ログ
【2010年02月】
◇「第33回 死と再生/コンプレックス」◇
(第1回〜第32回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
問題を起こす人の役割は、実は、今までの布置を壊すことなのかもしれません。
しかし、権威者はそれを嫌がり、囲い込もうとします。また、他の構成者も、それに協力する。場を壊すことを悪とみなし、そうしようとする人を、問題ある人とします。
いや、意識的にそうするわけではないのかもしれません。ただ、結果的に、そうなってしまうようです。また、世間も、どちらかと言えば、それをよしとする。
権威者による囲みこみは認められ、それに協力する――あるいは、苦慮する――構成者には同情が寄せられ、それを打ち破ろうとする人は、悪者とされたりする。
こういう布置は、カタチを変え、いたるところにありそうですね。
☆
こういうのはだいたい、無意識的に行なわれるようです。
権威者には囲い込もうという意志はなく、また、問題提起の人にしても、打ち破ろうとする意識はそれほどでもないのでしょう。協力する人だって、○○しようという意識があるのかどうか。
無意識にはカタチがありません。でも、態度や行動、言葉にはカタチがある。
無意識につながったそれらは、カタチを持って、表に出てくる。
何だかんだいって、人は無意識に動かされているのです。
☆
そういうことがあるので、問題は不可解な行動として現れることが多い。
「なぜ、そんなことをしたのか?」、本人にも、周囲にも、よく分からない。
理由らしい理由をとってつけることはできるかもしれませんが、それでしっくりくることは少ないと思われます。
これは無意識の作用であり、意識的な道理を越えているのです。
☆
ガッチリと硬化した布置を壊そうとする、問題提起の人。
創造性を包含した破壊者で、トリックスターの働きが期待される。
布置を壊し、各人の確立と、自立、確立された人々の共生が期待される。
☆
先に述べたように、必要がなければ安定した布置を壊そうとは思わない。
問題がなければ、維持される。
生き方を改めるには、それなりの理由や必要性がいるのです。
現に、何らかの問題が生じても、人はなかなか生き方を変えようとはしないわけですから。
☆
はじめはもたもたした症状が出ることが多いようです。
上で書いたように、囲い込もうとする力と、打ち破ろうとする力が、無意識下で拮抗します。意識することはなくても、態度や行動に、それが現れる。
だんだんと現れるのだから、表に出る状態としては、もたもたということになる。
そして、それが頂点に達する時、事件が起こる。
時満ちた時、例えば、誰かが本当のことを言ったりする。
うすうす気づいてはいた、でも、誰も言えなかった、言わなかった。そういうものを、誰かが痛みを感じながらも、口にするのです。
☆
そこに破壊が生じます。
権威者が打ちのめされたり、言う方も痛みに耐えかねたり。ともかく、布置や関係が壊れてくる。他の構成者だって、居ても立ってもいられなくなるでしょう。
これは大きな痛みや、深い悲しみを伴なうことです。苦しいし、悩ましい。
まるで死を経験するかのような出来事かもしれません。
でも、そこからこそ、再生が始まるのです。
(それを無視することも可能でしょう。でもそれでは、本当の死が訪れてしまうかもしれません)
☆
その場にある人は、何らかの死を経験する。死に匹敵するような、哀しいことを経験する。
誰もがつらい思いをし、喪に服す。
繰り返しになりますが、そこからこそ、再生が生じます。
☆
そもそも、その場にあることは、善悪では語れないのです。
善い部分もあれば、そうでない部分もある。それぞれ不満もあるでしょう。
権威者には権威者の不満があり、従う人には従う人の不満がある。
そして、それぞれは、それを認めたくはない。誰だってそうです。
(権威者の不満は構成者の否や非であり、構成者の不満は権威者の否や非だったりします)
(否:賛成できないこと、非:あやまりや欠点、道理に合わないこと)
けれど、ずっとずっと上の視線、天の視点からすれば、その相手の持つ不満を、いつかは身につけなければならなかったりする。
全部とは言いません、けれど、幾分かは身につけないと…。そういうことになってくる。
人間誰しも、うすうす気づいていること知り、どこかで変わってゆかねばならないのです。
自分の中にも、外にも、犠牲を出さないために。
☆
問題提起の人に注目する時、それも、布置をあまり見ないで注目する時、その人はただの「問題のある人」と見られるかもしれません。
表面に現れた問題だけに注目する時、それは単なる困ったことになってしまうでしょう。
しかし、布置が見えてくると、その心情は変わってくる。そこに隠されていたものが、だんだんと見えてくる。
ある意味では、権威者は何かを放棄せねばならず、従う人は何かを引き受けなければならない。
してきた人は何かを渡し、してなかった人は受け取らねばならない。
☆
そんな痛い現実を受け止めるためには、それなりに強い自我が必要です。
いつか、その時には、「わたしは○○です」と、自分で言わなければならないのです。
それには自身にとって痛い現実も含まれ、故に時間がかかるし、もたもたもする。
だから、もたもたは必要なんですね。
また、なかなか自分では言わないし、言えないから、天のセッティングが生じて、誰かが言ったり、言わないまでも痛感することになる。
いっぺんにできないなら、何回か試してという風な、布置も生じる。
☆
それが衝突というカタチで顕現することもあります。
衝突は怖いし、危険だし、避けたいものですが、ある意味では、衝突できるようになったから衝突するのであって、天のセッティングでは、無理な衝突は生じないのかもしれません。
衝突だから、痛いし、怖いし、危険だししますが、それでも何とかなったりする。ギリギリで踏ん張れたりする。
逆に、誰かが意図的に行なうようなものは、人工的な爆発になって、時が満ちて出てきたような爆発とは異なってしまう。
☆
「○○しないとしょうがない」
そのような布置になった時は、爆発や衝突も、天のセッティングによるものなのかもしれません。
人間の視点では、単に避けたいことだったりしますが、天の視点では、そうなのかもしれない。
胃腸に問題があれば、お腹が痛くなる。虫歯になれば、歯が痛い。疲れたら眠くなったり、場合によっては倒れる。どこかに負荷がかかりすぎれば、痛む。
そういった痛みにより、人間が悟るように、人生における痛みにより、目には見え難い問題に気づき、どうにかすることが求められるのです。
☆
問題提起の人は、悪者にされたり、問題ある人とされがちです。
でも、布置が見えてくると、本当に変わらねばならないのは誰か? といことも見えてくる。
それは他人事ではないことも、分かってくる。
特定の人物だけということはなく、どちらかといえば、みんな であることが見えてくる。
ただ、それは後にならないと分からない。
ということは、哀しいかな、それまでは待たねばならない。
不理解に身を焦がしながら、待つことになる。
☆
上で、善悪では語れない、と書きました。
安定を求めるのは悪でしょうか? 安定を維持すことは悪でしょうか?
また、役割を担えるようになることは悪でしょうか? 誰かに任せてゆくのは悪でしょうか?
お腹の痛みは悪? 歯の痛みは悪? 疲れて倒れるのは悪?
では、それがないと、どうなるでしょうか?
善悪を超えたところに、ある種の作用が働くのかもしれません。
我々人間は、いろんなことに縛られたり、囚われられたりして、いつも悪者を探してしまいます。
だから、見えるものも見えなくなる。
だいたい、検証が大嫌いで、知らず知らず、「きっと△△に違いない」で突き進んでしまう。
そんな時に、善悪を超えたところで何かが働き出し、
苦しみや悲しみを経験しながらも、
人間はどこかに導かれるのかもしれません。
肩をつかまれて、こっちを向けと、引っ張られるのです。
自分の内部に、自分の奥底に…
☆
コンプレックスに関することは、痛いし、苦しいし、悩ましい。
でも、「それだけではない」と私は思うのです。
闇のような状況にこそ、光があると思う。
人間の心には、体と同じような作用がある。
ひとりの人間には、自然や宇宙と同じような作用がある。
そう思います。
だから…
(ひとまず終了…)
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◇「第33回 死と再生/コンプレックス」◇
(第1回〜第32回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
問題を起こす人の役割は、実は、今までの布置を壊すことなのかもしれません。
しかし、権威者はそれを嫌がり、囲い込もうとします。また、他の構成者も、それに協力する。場を壊すことを悪とみなし、そうしようとする人を、問題ある人とします。
いや、意識的にそうするわけではないのかもしれません。ただ、結果的に、そうなってしまうようです。また、世間も、どちらかと言えば、それをよしとする。
権威者による囲みこみは認められ、それに協力する――あるいは、苦慮する――構成者には同情が寄せられ、それを打ち破ろうとする人は、悪者とされたりする。
こういう布置は、カタチを変え、いたるところにありそうですね。
☆
こういうのはだいたい、無意識的に行なわれるようです。
権威者には囲い込もうという意志はなく、また、問題提起の人にしても、打ち破ろうとする意識はそれほどでもないのでしょう。協力する人だって、○○しようという意識があるのかどうか。
無意識にはカタチがありません。でも、態度や行動、言葉にはカタチがある。
無意識につながったそれらは、カタチを持って、表に出てくる。
何だかんだいって、人は無意識に動かされているのです。
☆
そういうことがあるので、問題は不可解な行動として現れることが多い。
「なぜ、そんなことをしたのか?」、本人にも、周囲にも、よく分からない。
理由らしい理由をとってつけることはできるかもしれませんが、それでしっくりくることは少ないと思われます。
これは無意識の作用であり、意識的な道理を越えているのです。
☆
ガッチリと硬化した布置を壊そうとする、問題提起の人。
創造性を包含した破壊者で、トリックスターの働きが期待される。
布置を壊し、各人の確立と、自立、確立された人々の共生が期待される。
☆
先に述べたように、必要がなければ安定した布置を壊そうとは思わない。
問題がなければ、維持される。
生き方を改めるには、それなりの理由や必要性がいるのです。
現に、何らかの問題が生じても、人はなかなか生き方を変えようとはしないわけですから。
☆
はじめはもたもたした症状が出ることが多いようです。
上で書いたように、囲い込もうとする力と、打ち破ろうとする力が、無意識下で拮抗します。意識することはなくても、態度や行動に、それが現れる。
だんだんと現れるのだから、表に出る状態としては、もたもたということになる。
そして、それが頂点に達する時、事件が起こる。
時満ちた時、例えば、誰かが本当のことを言ったりする。
うすうす気づいてはいた、でも、誰も言えなかった、言わなかった。そういうものを、誰かが痛みを感じながらも、口にするのです。
☆
そこに破壊が生じます。
権威者が打ちのめされたり、言う方も痛みに耐えかねたり。ともかく、布置や関係が壊れてくる。他の構成者だって、居ても立ってもいられなくなるでしょう。
これは大きな痛みや、深い悲しみを伴なうことです。苦しいし、悩ましい。
まるで死を経験するかのような出来事かもしれません。
でも、そこからこそ、再生が始まるのです。
(それを無視することも可能でしょう。でもそれでは、本当の死が訪れてしまうかもしれません)
☆
その場にある人は、何らかの死を経験する。死に匹敵するような、哀しいことを経験する。
誰もがつらい思いをし、喪に服す。
繰り返しになりますが、そこからこそ、再生が生じます。
☆
そもそも、その場にあることは、善悪では語れないのです。
善い部分もあれば、そうでない部分もある。それぞれ不満もあるでしょう。
権威者には権威者の不満があり、従う人には従う人の不満がある。
そして、それぞれは、それを認めたくはない。誰だってそうです。
(権威者の不満は構成者の否や非であり、構成者の不満は権威者の否や非だったりします)
(否:賛成できないこと、非:あやまりや欠点、道理に合わないこと)
けれど、ずっとずっと上の視線、天の視点からすれば、その相手の持つ不満を、いつかは身につけなければならなかったりする。
全部とは言いません、けれど、幾分かは身につけないと…。そういうことになってくる。
人間誰しも、うすうす気づいていること知り、どこかで変わってゆかねばならないのです。
自分の中にも、外にも、犠牲を出さないために。
☆
問題提起の人に注目する時、それも、布置をあまり見ないで注目する時、その人はただの「問題のある人」と見られるかもしれません。
表面に現れた問題だけに注目する時、それは単なる困ったことになってしまうでしょう。
しかし、布置が見えてくると、その心情は変わってくる。そこに隠されていたものが、だんだんと見えてくる。
ある意味では、権威者は何かを放棄せねばならず、従う人は何かを引き受けなければならない。
してきた人は何かを渡し、してなかった人は受け取らねばならない。
☆
そんな痛い現実を受け止めるためには、それなりに強い自我が必要です。
いつか、その時には、「わたしは○○です」と、自分で言わなければならないのです。
それには自身にとって痛い現実も含まれ、故に時間がかかるし、もたもたもする。
だから、もたもたは必要なんですね。
また、なかなか自分では言わないし、言えないから、天のセッティングが生じて、誰かが言ったり、言わないまでも痛感することになる。
いっぺんにできないなら、何回か試してという風な、布置も生じる。
☆
それが衝突というカタチで顕現することもあります。
衝突は怖いし、危険だし、避けたいものですが、ある意味では、衝突できるようになったから衝突するのであって、天のセッティングでは、無理な衝突は生じないのかもしれません。
衝突だから、痛いし、怖いし、危険だししますが、それでも何とかなったりする。ギリギリで踏ん張れたりする。
逆に、誰かが意図的に行なうようなものは、人工的な爆発になって、時が満ちて出てきたような爆発とは異なってしまう。
☆
「○○しないとしょうがない」
そのような布置になった時は、爆発や衝突も、天のセッティングによるものなのかもしれません。
人間の視点では、単に避けたいことだったりしますが、天の視点では、そうなのかもしれない。
胃腸に問題があれば、お腹が痛くなる。虫歯になれば、歯が痛い。疲れたら眠くなったり、場合によっては倒れる。どこかに負荷がかかりすぎれば、痛む。
そういった痛みにより、人間が悟るように、人生における痛みにより、目には見え難い問題に気づき、どうにかすることが求められるのです。
☆
問題提起の人は、悪者にされたり、問題ある人とされがちです。
でも、布置が見えてくると、本当に変わらねばならないのは誰か? といことも見えてくる。
それは他人事ではないことも、分かってくる。
特定の人物だけということはなく、どちらかといえば、みんな であることが見えてくる。
ただ、それは後にならないと分からない。
ということは、哀しいかな、それまでは待たねばならない。
不理解に身を焦がしながら、待つことになる。
☆
上で、善悪では語れない、と書きました。
安定を求めるのは悪でしょうか? 安定を維持すことは悪でしょうか?
また、役割を担えるようになることは悪でしょうか? 誰かに任せてゆくのは悪でしょうか?
お腹の痛みは悪? 歯の痛みは悪? 疲れて倒れるのは悪?
では、それがないと、どうなるでしょうか?
善悪を超えたところに、ある種の作用が働くのかもしれません。
我々人間は、いろんなことに縛られたり、囚われられたりして、いつも悪者を探してしまいます。
だから、見えるものも見えなくなる。
だいたい、検証が大嫌いで、知らず知らず、「きっと△△に違いない」で突き進んでしまう。
そんな時に、善悪を超えたところで何かが働き出し、
苦しみや悲しみを経験しながらも、
人間はどこかに導かれるのかもしれません。
肩をつかまれて、こっちを向けと、引っ張られるのです。
自分の内部に、自分の奥底に…
☆
コンプレックスに関することは、痛いし、苦しいし、悩ましい。
でも、「それだけではない」と私は思うのです。
闇のような状況にこそ、光があると思う。
人間の心には、体と同じような作用がある。
ひとりの人間には、自然や宇宙と同じような作用がある。
そう思います。
だから…
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