表紙過去ログ
【2009年10月】
◇「第29回 コンプレックスを持つ意味/コンプレックス」◇
(第1回〜第28回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
河合隼雄先生は著書「コンプレックス」の中で、ユングの以下のような言葉を紹介してくれています――
一気に読むと分かりづらいかもしれないので、分けていきましょうか。
☆
まず、「コンプレックスは広義においての一種の劣等性を示す」。
もともとコンプレックスと劣等感は混同されやすいですが、「意識化されない何か」とか「意識化が困難なもの」というのは、何らかの劣等性が関わっているのかもしれません。普通のものより劣っていたり、あるはずのものが無かったり、そういうこともあるでしょう。また、主体性を脅かされたり、行動や態度に障害が出たりするわけですから、部分的には、劣等性を示すかもしれません。実際は別にして、そう思いやすい。
ただ、ユングは、「コンプレックスをもつことは必ずしも劣等性を意味するものでない」と主張します。
確かに、困りはするだろう。しかし、それだけではない。そう言うのです。
☆
「コンプレックスをもつことは、何か両立しがたい、同化されていない、葛藤をおこすものが存在していることを意味しているだけである」
例えば、前に書いた二つの心。「〜しなければならない」という心と「もう〜したくない」という心。あるいは、「実際は〜である」ということと、「そうは思いたくない」という心。「今までしてきたこと」と「今はまだ手つかずのもの」。
人間の心には、両立しがたい思いや心があって、それが同化されることなく、渦巻き、葛藤を引き起こす。
そんな状態が、コンプレックスを持っている状態だと言うのです。
もっとも、それは意識化が困難なことなので、なかなか気づけませんが。そして、気づいたら気づいたで、なかなか重く、たいへんです。
☆
「多分それは障害であろう」
それは主体性を脅かし、思ってもみない態度を引き出したり、行動を困難にしたりします。ありえない失敗を起こすことだって、あるかもしれない。訳も分からぬまま、特定の状況でうまくいかないことが生じる。葛藤の中で、身を焼かれるような思いをするかもしれません。
特定の相手や特定のカテゴリに対し、緊張する。学校に行けない。会社に行けない。○○ができない。言葉が出ない。カッとなる。体がかたまる。いろんな障害となって、現れるかもしれません。
☆
「しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり、そして、多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちであろう」
コンプレックスを持つことで、いろんな障害が出ます。それは苦しいし、悩ましい。しかし、ユングはコンプレックスを持つ意味は、それだけではないというのです。
「しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり」
必要が知恵を引き出します。必要が努力を引き出します。
人間、問題がなければ特に変わろうともしないし、特別な努力も必要ありません。それは安定した状態であり、そこにじっとしておればよい。(タイプにもよるんですけどね)
しかし、人間は完璧ではありません。どこかに足りないものや具合の悪い部分を持つことになる。あるいは関係の中で、完璧でないところや機能不全、ストレスの一極集中化みたいなことが出てくる。
こういうのを突き破るきっかけになるのが、コンプレックスであることもある。
コンプレックスに伴なう障害により、考えざるを得なくなる。向かい合わざるを得なくなる。
今まで我慢してきたこと。内々に持っていた、二つの心。今まで抑え付けてきたこと。うすうす気づいてはいたが意識化はしなかったこと。
そういうものに、コンプレックスをきっかけとして、取り組むのです。
「多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちであろう」というのは、こういうわけなんですね。
☆
とはいえ、コンプレックスを持つこと、それによる障害を持つことは、悩ましいし、苦しいです。
だから、そんなことには気づきたくない、そう思うかもしれません。
しかし、何が悪いことか、何が決定的に悲しいことかは、分からないものですよ。
今までいろんなところで書いてきましたが、一面的になりすぎること、一方向のみに進むことは、かなりバランスの悪いことです。一方のみが肥大化し、もう一方が痩せ細る。一方は洗練されますが、もう一方は未分化なまま放置されます。
人間総体として、片側が大きくなり、反対側が小さくなる。これではバランスが悪いですよね。何かの拍子に、ひっくり返りそうです。
それが個人であれ、何らかの集団であれ、それでは本当の破滅が来てしまう。放置された一方から不具合が生じたり、そこを弱点として、よからぬ事態が起こるかもしれない。あるいは逆に、時代や環境が変わることで、「今まで」では対処できないような状況が、いきなり来るかもしれない。
あるいは、「そのまま」になることで、ストレスは溜まり続けるかもしれない。一方に押し付けてきたツケが、やがて来るかもしれません。
本当に最悪なのは何なのか、我々は忘れがちです。
それは、そのままでいることなのか? 苦しい思いをしながらも、その先に進むことなのか? それはよく考えてみないと分かりません。
こういうのは、目先のことや表面上のことだけを見ていると分かりませんが、広く全体の布置が見えるようになれば、だんだんと分かってくることだと思えます。
時間が、やがて分からせてくれる。
別の目が加わることで。
☆
さて、こういうことを踏まえて、今一度、ユングの言葉を読んでみましょう。
そこには可能性があるわけですね。
先があるから、先が期待できるから、こんな苦しいことも生じると…
(続きは「権威者と依存する人」に…)
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◇「第29回 コンプレックスを持つ意味/コンプレックス」◇
(第1回〜第28回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
河合隼雄先生は著書「コンプレックス」の中で、ユングの以下のような言葉を紹介してくれています――
「コンプレックスは広義においての一種の劣等性を示す。――このことに対して私は、コンプレックスをもつことは必ずしも劣等性を意味するものでないとただちにつけ加えることによって、限定を加えなければならない。コンプレックスをもつことは、何か両立しがたい、同化されていない、葛藤をおこすものが存在していることを意味しているだけである。――多分それは障害であろう。しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり、そして、多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちであろう。」
一気に読むと分かりづらいかもしれないので、分けていきましょうか。
☆
まず、「コンプレックスは広義においての一種の劣等性を示す」。
もともとコンプレックスと劣等感は混同されやすいですが、「意識化されない何か」とか「意識化が困難なもの」というのは、何らかの劣等性が関わっているのかもしれません。普通のものより劣っていたり、あるはずのものが無かったり、そういうこともあるでしょう。また、主体性を脅かされたり、行動や態度に障害が出たりするわけですから、部分的には、劣等性を示すかもしれません。実際は別にして、そう思いやすい。
ただ、ユングは、「コンプレックスをもつことは必ずしも劣等性を意味するものでない」と主張します。
確かに、困りはするだろう。しかし、それだけではない。そう言うのです。
☆
「コンプレックスをもつことは、何か両立しがたい、同化されていない、葛藤をおこすものが存在していることを意味しているだけである」
例えば、前に書いた二つの心。「〜しなければならない」という心と「もう〜したくない」という心。あるいは、「実際は〜である」ということと、「そうは思いたくない」という心。「今までしてきたこと」と「今はまだ手つかずのもの」。
人間の心には、両立しがたい思いや心があって、それが同化されることなく、渦巻き、葛藤を引き起こす。
そんな状態が、コンプレックスを持っている状態だと言うのです。
もっとも、それは意識化が困難なことなので、なかなか気づけませんが。そして、気づいたら気づいたで、なかなか重く、たいへんです。
☆
「多分それは障害であろう」
それは主体性を脅かし、思ってもみない態度を引き出したり、行動を困難にしたりします。ありえない失敗を起こすことだって、あるかもしれない。訳も分からぬまま、特定の状況でうまくいかないことが生じる。葛藤の中で、身を焼かれるような思いをするかもしれません。
特定の相手や特定のカテゴリに対し、緊張する。学校に行けない。会社に行けない。○○ができない。言葉が出ない。カッとなる。体がかたまる。いろんな障害となって、現れるかもしれません。
☆
「しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり、そして、多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちであろう」
コンプレックスを持つことで、いろんな障害が出ます。それは苦しいし、悩ましい。しかし、ユングはコンプレックスを持つ意味は、それだけではないというのです。
「しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり」
必要が知恵を引き出します。必要が努力を引き出します。
人間、問題がなければ特に変わろうともしないし、特別な努力も必要ありません。それは安定した状態であり、そこにじっとしておればよい。(タイプにもよるんですけどね)
しかし、人間は完璧ではありません。どこかに足りないものや具合の悪い部分を持つことになる。あるいは関係の中で、完璧でないところや機能不全、ストレスの一極集中化みたいなことが出てくる。
こういうのを突き破るきっかけになるのが、コンプレックスであることもある。
コンプレックスに伴なう障害により、考えざるを得なくなる。向かい合わざるを得なくなる。
今まで我慢してきたこと。内々に持っていた、二つの心。今まで抑え付けてきたこと。うすうす気づいてはいたが意識化はしなかったこと。
そういうものに、コンプレックスをきっかけとして、取り組むのです。
「多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちであろう」というのは、こういうわけなんですね。
☆
とはいえ、コンプレックスを持つこと、それによる障害を持つことは、悩ましいし、苦しいです。
だから、そんなことには気づきたくない、そう思うかもしれません。
しかし、何が悪いことか、何が決定的に悲しいことかは、分からないものですよ。
今までいろんなところで書いてきましたが、一面的になりすぎること、一方向のみに進むことは、かなりバランスの悪いことです。一方のみが肥大化し、もう一方が痩せ細る。一方は洗練されますが、もう一方は未分化なまま放置されます。
人間総体として、片側が大きくなり、反対側が小さくなる。これではバランスが悪いですよね。何かの拍子に、ひっくり返りそうです。
それが個人であれ、何らかの集団であれ、それでは本当の破滅が来てしまう。放置された一方から不具合が生じたり、そこを弱点として、よからぬ事態が起こるかもしれない。あるいは逆に、時代や環境が変わることで、「今まで」では対処できないような状況が、いきなり来るかもしれない。
あるいは、「そのまま」になることで、ストレスは溜まり続けるかもしれない。一方に押し付けてきたツケが、やがて来るかもしれません。
本当に最悪なのは何なのか、我々は忘れがちです。
それは、そのままでいることなのか? 苦しい思いをしながらも、その先に進むことなのか? それはよく考えてみないと分かりません。
こういうのは、目先のことや表面上のことだけを見ていると分かりませんが、広く全体の布置が見えるようになれば、だんだんと分かってくることだと思えます。
時間が、やがて分からせてくれる。
別の目が加わることで。
☆
さて、こういうことを踏まえて、今一度、ユングの言葉を読んでみましょう。
「コンプレックスは広義においての一種の劣等性を示す。――このことに対して私は、コンプレックスをもつことは必ずしも劣等性を意味するものでないとただちにつけ加えることによって、限定を加えなければならない。コンプレックスをもつことは、何か両立しがたい、同化されていない、葛藤をおこすものが存在していることを意味しているだけである。――多分それは障害であろう。しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり、そして、多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちであろう。」
そこには可能性があるわけですね。
先があるから、先が期待できるから、こんな苦しいことも生じると…
(続きは「権威者と依存する人」に…)
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