表紙過去ログ
【2009年08月(2)】
◇「第27回 人間というまとまり/コンプレックス」◇
(第1回〜第26回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
前回は、人間には二つの心が生じることがある、といったことを書きました。
この二つの心は相反する思いだったりするわけですが、それをどう捉えればいいのでしょうか?
一方を「本当」とする限り、他方は「ニセモノ」になってしまいます。確かに、自我にとっては一方が本当であり、他方を――自分とは別の――ニセモノとしたくなるでしょう。そんなことは思っていないと、言いたくなる。
しかし、人間総体を考えた場合、それらは切り離せるものなのでしょうか? 自我と無意識は切り離せるものでしょうか? 意識と肉体はどうでしょう? 仮に切り離せたとして、それを人間だといえるのでしょうか? それで生きていけるのでしょうか?
☆
仮に、強固な自我が、人間の邪だったり怠惰だったりする部分を廃除しようとしたとします。まるで聖人であるかのように生きようとしたとします。その行いや志向そのものは悪いとは思いませんが、はたして問題は生じないものでしょうか?
人間であるなら、当然、何らかの欲はあるでしょう。サボりたいと思うこともあれば、浪費したり、時には羽目を外したいと思うかもしれません。実際、多くの人が程度の差こそはあれ、そうしています。
で、聖人であろうとした人が、聖人であるために、これらの心を排除することは、何を意味するでしょうか?
それらの心に打ち勝ったとして、その心は消えてしまうのでしょうか? 死んでしまうのでしょうか?
☆
聖人の視点で見る時、世の中の人は欲に負けている、と映るかもしれません。が、別の視点で見れば、世の中の人は欲と付き合っている、と言えるかもしれません。
この「付き合っている」というのがミソで、付き合っているのだから、自我と欲とは関係を持っていることになるのでしょう。どんな関係かは、人によるにしても。
しかし、極端に聖人のように生きようとした場合、関係は薄くなるかもしれません。あるいは、関係がなくなるかもしれない。
関係がないというのは、ある意味では、自由だということ。分離し、関係がなくなるということは、他方が自由になることを意味するのかもしれません。
つまり、欲だの何だのは、自律性を持つことになる。
自分の一部を完全に切り離した時、それは意識的な統制を離れ、見えない部分で自由度を持つかもしれないのです。もう、関係ないからと。
☆
一応ここで断っておくと、何も欲に溺れるのがいいと言っているのではありません。一般には、人間はある程度欲を自制しながら、時と場合を選んで、発散します。
だから、欲のまま突っ走るのを推奨するわけではありません。
ここで問題にしているのは、欲との付き合い方。欲に溺れて暴走するのも困るし、欲を抑圧しすぎて他の問題を生じさせるのも、カタチは違えど、困りものです。自我が欲に支配されたり、欲と同化するのも困るし、逆に、欲を分離させたがために、欲が自由に活動するのも困る、そういうことです。
それと、聖人の生き方というのも、それを否定するわけではありません。ただ、聖人になることを目指しているわけでもないのに、聖人の生き方を強いている場合はどうかということ。この辺も、考えどころでしょう。
☆
例えば、「○○が欲しい」という欲があるとしましょう。そういうのは、ストレートに口に出す人もいれば、感じても抑え込もうとする人もいるでしょう。それはともかく、その欲と付き合いがある限りにおいては、それを感じることができる。どう処理するかは別にしても、関係がある。自分のものだという自覚もあるでしょう。
しかし、関係が切れてしまったら、どうでしょうか。「○○が欲しい」という心は、自由に、自律性を持って、何かを成し遂げようとするかもしれません。
「それはわたしとは別です」「関係ありません」、そう切り離したがために、それは自我とは別の存在として、活動しだすかもしれません。それはもう自我には関係のないことであって、それ故に、それは勝手に行動するのです。あたかも、「あら、そう。なら、勝手にやらせてもらいます」というかのように。(あえて人格を持たせたような表現をすれば、ですが。こういう表現とは別に、機能として考えることも、可能かもしれません)
そういうものが自我の意識外から、統合性や主体性を脅かし、何らかの影響を与えてくる。自由にならない行動や態度、コントロールできない感情となって、苦しめる。意識にないものが、意識外から、ちょっかいを出してくるのです。
自我の主張は、「そんなもの、欲しくありません」「欲しいと思ったことも、ありません」。それとは別に、自律性を持った存在が、「欲しいです」と主張するかどうかは別にしても、得体の知らない感情として、自我を突っついてくる。
☆
この勝手に何かをし出す別の心ですが、心というだけあって、体の外に出るわけにはいきません。つまり、同じ体の中にあるわけです。同じところで生きている。ひとりの人間の心は肉体に定着しているわけだから、勝手に外に出ることはできません。心や意識、気持ちといったものに対する世界は、ひとりの人間の体、あるいは、体と心、肉体と内面の総体となりましょう。
で、極端な場合、同じ体の中に、別の人格が存在するかのようになってしまう。そこまで極端にはいかないにしても、場合場合によって、瞬間にはそうなってしまう。よく分からない感情が出てきたり、いつものように動けなくなったり、得体の知れない緊張が特定の場面で高まったり、どうもうまくいかなくなってしまう。
もっと一般的にも、「しんどいな〜」という気持ちと「やらねばな〜」という気持ちが同居したり、「やめたいな〜」という気持ちと「続けなきゃな〜」という気持ちが同居したりする。
こういった現象、同じ体の中に二つの心が存在すること。これをいったい、どう捉えればいいのでしょうか?
☆
同じ体の中に二つの心、とか言うと、如何にも二重人格的に思うかもしれませんが、嫌いなものを好きになってきたり、したい気持ちとしたくない気持ちが葛藤したり、そういうことはありますよね。で、そんな瞬間には、ある意味では、二つの心が存在するわけで、必ずしも異常とはいえないのではないかと思います。
「すべき」と「したくない」が葛藤したり、「続ける」と「やめる」が葛藤したり、相反する感情が葛藤したり、個人的な気持ちと体裁が葛藤したり、そういうことは(ある程度)誰だってあるわけでしょ。
そういうのを、気のおける仲間同士で世間話として話すことはあると思います。わりと軽めのものから、重めのものまで、あるでしょう。「朝、起きられへんかったわ」とか、「クラブ、どうしようか思うねん」とか。
ちょっと脱線すると、ここでその判断の整合性をどうこういうよりは、二つの心が生じたことを話すことに、意味があるのかもしれませんね。話す相手を間違えるとややこしいですが、大丈夫な場所で、大丈夫な相手に、あったことを話すというのは、意味あることなのかもしれません。
感情は流すにかぎる、ということを考えると、誰かに話すというのは、意味がありそうです。物事の判断やその整合性とはまた別の話として。
☆
で、話を戻すと、人間の中に二つの心が生じることがあるにしても、通常、その二つは関係しており、一方が主になるにしても、もう一方もたまに顔を出したりする。つながったものとして存在し、生きている。完全には分離してはいない。
しかし、何らかの事情によって一方が完全に締め出される時、両者の間に関係がなくなり、分離される。二つの心といいながら、前はつながっていたものが、完全に切り離される。別のものとなる。しかし、心が生きられる世界はひとりの人間という枠に限られているので、主となる意識されている心と共に、それとは別の心が自由に生きることになる。
常々「わたし」であると感じられる心と共に、「もうひとりのわたし」とでもいうべき心が、ひっそりと活動を始める。
ということは、自我がもう一方を締め出すことによって、この奇妙な布置が出来上がるともいえるでしょうか。関係を絶つことによって、かえってコントロールできないものを生み出してしまうことになると。
☆
考え方や生き方があまりに一面的になった場合、今まで生きてこなかった半面や、今まで手つかずだった半面が、勝手に、自由度を持って、活動しだす。自我とのつながりがなくなった心が、別のものとして生きようとする。
こういった存在により、時に人間は悩まされるんですね。
では、何故このような悩ましい存在が生まれるようなシステムが、我々に備わっているのでしょう?
その辺のことは、次回の「補う他者」、次々回の「コンプレックスを持つ意味」で触れたいと思います…
(続きは「補う他者/コンプレックス」に…)
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◇「第27回 人間というまとまり/コンプレックス」◇
(第1回〜第26回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
前回は、人間には二つの心が生じることがある、といったことを書きました。
この二つの心は相反する思いだったりするわけですが、それをどう捉えればいいのでしょうか?
一方を「本当」とする限り、他方は「ニセモノ」になってしまいます。確かに、自我にとっては一方が本当であり、他方を――自分とは別の――ニセモノとしたくなるでしょう。そんなことは思っていないと、言いたくなる。
しかし、人間総体を考えた場合、それらは切り離せるものなのでしょうか? 自我と無意識は切り離せるものでしょうか? 意識と肉体はどうでしょう? 仮に切り離せたとして、それを人間だといえるのでしょうか? それで生きていけるのでしょうか?
☆
仮に、強固な自我が、人間の邪だったり怠惰だったりする部分を廃除しようとしたとします。まるで聖人であるかのように生きようとしたとします。その行いや志向そのものは悪いとは思いませんが、はたして問題は生じないものでしょうか?
人間であるなら、当然、何らかの欲はあるでしょう。サボりたいと思うこともあれば、浪費したり、時には羽目を外したいと思うかもしれません。実際、多くの人が程度の差こそはあれ、そうしています。
で、聖人であろうとした人が、聖人であるために、これらの心を排除することは、何を意味するでしょうか?
それらの心に打ち勝ったとして、その心は消えてしまうのでしょうか? 死んでしまうのでしょうか?
☆
聖人の視点で見る時、世の中の人は欲に負けている、と映るかもしれません。が、別の視点で見れば、世の中の人は欲と付き合っている、と言えるかもしれません。
この「付き合っている」というのがミソで、付き合っているのだから、自我と欲とは関係を持っていることになるのでしょう。どんな関係かは、人によるにしても。
しかし、極端に聖人のように生きようとした場合、関係は薄くなるかもしれません。あるいは、関係がなくなるかもしれない。
関係がないというのは、ある意味では、自由だということ。分離し、関係がなくなるということは、他方が自由になることを意味するのかもしれません。
つまり、欲だの何だのは、自律性を持つことになる。
自分の一部を完全に切り離した時、それは意識的な統制を離れ、見えない部分で自由度を持つかもしれないのです。もう、関係ないからと。
☆
一応ここで断っておくと、何も欲に溺れるのがいいと言っているのではありません。一般には、人間はある程度欲を自制しながら、時と場合を選んで、発散します。
だから、欲のまま突っ走るのを推奨するわけではありません。
ここで問題にしているのは、欲との付き合い方。欲に溺れて暴走するのも困るし、欲を抑圧しすぎて他の問題を生じさせるのも、カタチは違えど、困りものです。自我が欲に支配されたり、欲と同化するのも困るし、逆に、欲を分離させたがために、欲が自由に活動するのも困る、そういうことです。
それと、聖人の生き方というのも、それを否定するわけではありません。ただ、聖人になることを目指しているわけでもないのに、聖人の生き方を強いている場合はどうかということ。この辺も、考えどころでしょう。
☆
例えば、「○○が欲しい」という欲があるとしましょう。そういうのは、ストレートに口に出す人もいれば、感じても抑え込もうとする人もいるでしょう。それはともかく、その欲と付き合いがある限りにおいては、それを感じることができる。どう処理するかは別にしても、関係がある。自分のものだという自覚もあるでしょう。
しかし、関係が切れてしまったら、どうでしょうか。「○○が欲しい」という心は、自由に、自律性を持って、何かを成し遂げようとするかもしれません。
「それはわたしとは別です」「関係ありません」、そう切り離したがために、それは自我とは別の存在として、活動しだすかもしれません。それはもう自我には関係のないことであって、それ故に、それは勝手に行動するのです。あたかも、「あら、そう。なら、勝手にやらせてもらいます」というかのように。(あえて人格を持たせたような表現をすれば、ですが。こういう表現とは別に、機能として考えることも、可能かもしれません)
そういうものが自我の意識外から、統合性や主体性を脅かし、何らかの影響を与えてくる。自由にならない行動や態度、コントロールできない感情となって、苦しめる。意識にないものが、意識外から、ちょっかいを出してくるのです。
自我の主張は、「そんなもの、欲しくありません」「欲しいと思ったことも、ありません」。それとは別に、自律性を持った存在が、「欲しいです」と主張するかどうかは別にしても、得体の知らない感情として、自我を突っついてくる。
☆
この勝手に何かをし出す別の心ですが、心というだけあって、体の外に出るわけにはいきません。つまり、同じ体の中にあるわけです。同じところで生きている。ひとりの人間の心は肉体に定着しているわけだから、勝手に外に出ることはできません。心や意識、気持ちといったものに対する世界は、ひとりの人間の体、あるいは、体と心、肉体と内面の総体となりましょう。
で、極端な場合、同じ体の中に、別の人格が存在するかのようになってしまう。そこまで極端にはいかないにしても、場合場合によって、瞬間にはそうなってしまう。よく分からない感情が出てきたり、いつものように動けなくなったり、得体の知れない緊張が特定の場面で高まったり、どうもうまくいかなくなってしまう。
もっと一般的にも、「しんどいな〜」という気持ちと「やらねばな〜」という気持ちが同居したり、「やめたいな〜」という気持ちと「続けなきゃな〜」という気持ちが同居したりする。
こういった現象、同じ体の中に二つの心が存在すること。これをいったい、どう捉えればいいのでしょうか?
☆
同じ体の中に二つの心、とか言うと、如何にも二重人格的に思うかもしれませんが、嫌いなものを好きになってきたり、したい気持ちとしたくない気持ちが葛藤したり、そういうことはありますよね。で、そんな瞬間には、ある意味では、二つの心が存在するわけで、必ずしも異常とはいえないのではないかと思います。
「すべき」と「したくない」が葛藤したり、「続ける」と「やめる」が葛藤したり、相反する感情が葛藤したり、個人的な気持ちと体裁が葛藤したり、そういうことは(ある程度)誰だってあるわけでしょ。
そういうのを、気のおける仲間同士で世間話として話すことはあると思います。わりと軽めのものから、重めのものまで、あるでしょう。「朝、起きられへんかったわ」とか、「クラブ、どうしようか思うねん」とか。
ちょっと脱線すると、ここでその判断の整合性をどうこういうよりは、二つの心が生じたことを話すことに、意味があるのかもしれませんね。話す相手を間違えるとややこしいですが、大丈夫な場所で、大丈夫な相手に、あったことを話すというのは、意味あることなのかもしれません。
感情は流すにかぎる、ということを考えると、誰かに話すというのは、意味がありそうです。物事の判断やその整合性とはまた別の話として。
☆
で、話を戻すと、人間の中に二つの心が生じることがあるにしても、通常、その二つは関係しており、一方が主になるにしても、もう一方もたまに顔を出したりする。つながったものとして存在し、生きている。完全には分離してはいない。
しかし、何らかの事情によって一方が完全に締め出される時、両者の間に関係がなくなり、分離される。二つの心といいながら、前はつながっていたものが、完全に切り離される。別のものとなる。しかし、心が生きられる世界はひとりの人間という枠に限られているので、主となる意識されている心と共に、それとは別の心が自由に生きることになる。
常々「わたし」であると感じられる心と共に、「もうひとりのわたし」とでもいうべき心が、ひっそりと活動を始める。
ということは、自我がもう一方を締め出すことによって、この奇妙な布置が出来上がるともいえるでしょうか。関係を絶つことによって、かえってコントロールできないものを生み出してしまうことになると。
☆
考え方や生き方があまりに一面的になった場合、今まで生きてこなかった半面や、今まで手つかずだった半面が、勝手に、自由度を持って、活動しだす。自我とのつながりがなくなった心が、別のものとして生きようとする。
こういった存在により、時に人間は悩まされるんですね。
では、何故このような悩ましい存在が生まれるようなシステムが、我々に備わっているのでしょう?
その辺のことは、次回の「補う他者」、次々回の「コンプレックスを持つ意味」で触れたいと思います…
(続きは「補う他者/コンプレックス」に…)
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