【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、「表紙の過去ログ 08年03月〜5月分」を紹介をしています。
「座り続ける人」「悲しみについて…」「はじめから決まっていること」

表紙過去ログ

    2008年05月:「はじめから決まっていること」
    2008年04月:「悲しみについて…」
    2008年03月:「座り続ける人」
【2008年05月】


◇「はじめから決まっていること」◇


マクロスF(フロンティア)第5話「スター・デイト」より…



アルト:
「呆れるよな。どうしてあんなに ―― いや、なんで人は歌ったり、飛ぼうとしたり、はては宇宙にまで出てこようとしてるのかってね…」

シェリル:
「そうせずにはいられなかったからに決まってるじゃない」

アルト:
「そうか ―― 飛ばずにはいられない、か…」




人間のすること、あるいは人生というものはおかしなもので、終わってみるとはじめから決まっていたかのように思えることもしばしば…。何の因果か、○○するように運ばれてしまう。それは低次なものもあれば、そうでないものもある。前者は行動パターンのようなもので、いつも○○してしまう。それで悲しいことが生じても、いつも○○してしまう。

後者は、もっと時間のかかるもの。○○し、○○し続けて、やっとカタチになってゆくもの。

時に不安になり、時に投げ出したくなり、実際投げ出したりして、誰かに邪魔されたり、馬鹿げたことだと嘲笑されたり ―― それでも、○○するようになってしまう。それをせずにはおれない。

内側にある目に見えないものに突き動かされたり、あるいは、そういうのも関係無しに、ただ不思議なことにいつの間にかまたそれをやってたりする。

まるで大きな流れの中にいるようで、いつの間にか、どこかに向かっていたりする。

それを運命と呼ぶ人もいる。それを業と呼ぶ人もいる。

まるであらかじめ決まっていたかのように、そうなってしまう。そう収まる。逆に、逆らえば逆らうほど苦しかったり、もやもやを抱えてしまう。何かに痛めつけられることだってある。

でも、その過程では、そういうことは分からない。終わってから感じるだけ。



「はじめから決まっている」となると、元型的だ。

我々の奥底にある、はじめから決まっている型。

でも、それが現れる先は、今の時代を生きる、我々そのもの、その生き方。

はじめから決まっているものが、その瞬間その瞬間で、その個人にそったカタチで表現される。

内側から溢れ出るエネルギー。

(さて、内側にある目に見えないものを、どう表現するか…)



エネルギーが行き先を失うと、どうなるか?

大きなエネルギーが行き先を失うと、どうなるか?

でも、人間って、頑なだからな…





さて、解脱とは何か…

煩悩も、煩悩を固定化しすぎるとそれが囚われになって、煩悩を封じ込めること自体が、煩悩になりかねない…



まあ、なんにせよ、それをする人はそれをするようになっているんでしょう。

検証不可能なんだけど…







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【2008年04月】


◇「悲しみについて…」◇


人間、悲しくなるのはつらい。
切なくて、やるせなくて、いたたまれなくて、もう、言葉を越えた感情に身が苛まれる。堪らなくなる。

しかし、それでこその人間で、そういう感情がなくなったらお仕舞いだともいえる。悲しみは避けたいのだけれども、悲しみを感じないようになったら、そもそも人間といえるかどうか…。悲しみを感じない危うさというのもある…

あるいは、悲しみを避けようとすることで、悲しみを呼び込むこともあるだろうか…



悲しみは時が癒してくれる。
どんな大きな悲しみも、どんな深い悲しみも、ある程度は ―― それは「ある程度は」だけれども ―― 時が、癒してくれる。

パックリ開いた傷が閉じるように、少しずつ、時には傷跡が残ったりもするが、それでもある程度は癒してくれる。



それは忘れることでもある。

悲しみは忘れることで薄まる。
人間は、その詳細をいつまでもおぼえているわけにはいかないので、必然、忘れることになる。すべてをおぼえるには容量が足りないし、すべてを認識できるほど人間は強くもない。構造上も、便宜性からも、忘れるようになっている。

深い悲しみは、いつまでもおぼえていたりするけれど、それでも忘れる部分はあったりする。それが悲しみを少しだけ癒してくれる。


一時、すべてを忘れて眠るということが、どれだけありがたいことか…


でも、その少し忘れるということさえ、悲しみを包含する…



人間は、忘れることで癒されもするが、忘れることで繰り返しもする。

傷がすっかり癒えた頃、同じ傷口を開くようなことをしてしまう。

傷がいつまでも開いたままなら、血を流し続けたままなら、まあ、気をつけるのかもしれない。

でも、それじゃあ、死んでしまう。

血を流して、死んでしまう。
痛さのあまり、死んでしまう。
悲しみのあまり、死んでしまう。

そうならないように、時間を使って、傷は癒され、
だけど、そのおかげで、大事なことを忘れて、また同じようなことをしてしまう。
繰り返してしまう。



仮の深い悲しみを経験することで避けられる、そんな現実の悲しみもあるだろう。

猛烈に、魂が軋むほど、まるで死に掛けるような悲しみを経験して、それでこそ変われることもあるんでしょう。
(まあ、それだって、時間が必要なんですが…)


でも、我々はそれほど強くない。

悲しみから逃げ惑い、傷だらけになって、それでもまた繰り返す。
癒されては傷つき、傷ついては癒され、
忘れていく。


忘れないのはつらい。とても耐えられない。
だから、現代人は、どうにかして忘れようとする。
人に頼り、芸術に頼り、趣味に頼り、学問に頼り、娯楽に頼り、どうにかして忘れようとする。

しかし、「本当に大事なこと」からは逃げ切れるのだろうか?
そう言うのは大仰だとしても、
「自分のしたこと/いつも自分がしていること」から逃げられるのだろうか?



我々は、「悩まない」ことを求めて止まない。
どうにかして、「悩み」から逃げ出し、離れ、忘れようとする。

そして、それが悩みを次から次へと生産したりもする。


我々は他人のことをどうこうできないし、またすべきではないのだけれど、自分のことはある程度できる。人間とは、そういう風に作られている。

遠くの誰かをどうこうすることはできないけれど、近くの、手に届く範囲の誰かはどうこうできる。

その究極に近い誰かは、自分自身だ。



我々は忘れることで癒され、忘れることで繰り返してしまう…

さて、それを知るとき、どうするか…







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【2008年03月】


◇「座り続ける人」◇


この間、金曜ロードショーで「耳をすませば」が放送されました。
この作品は何度も観てますが、観る度に思うことがあって、いいですね。

その瞬間、その瞬間で、以前とは違った思いが出て来たりする。
それだけいい作品なんでしょう。
(いい作品は、噛み応えがあります)



ご存知の通り、天沢聖司は、ヴァイオリン職人になることを夢みて、旅立ちます。劇中、父親に反対されていることも語られたりしますが、実際は ―― といっても、まあ、アニメなんですけど ―― もっとたくさんの反対なり、不安要素もあったでしょう。

でも、彼はそれを押し切り、旅立っていきました。


主人公、月島雫も、天沢聖司に触発されて、物語を書こうとします。
しかし、成績が落ちたり、生活が不規則になったりで、姉の猛反対を受け、作業の継続が危ぶまれました。

でも、彼女は父親の理解もあって、やり遂げたんですね。
いろんな不安の中、ともかく、書き上げました。



ある本の中で、河合隼雄さんは、
「釈迦だから座りきれた」
というようなことをおっしゃっています。

釈迦が菩提樹の下で禅定に入ったとき、魔が働きかけてきて、いろいろ邪魔してくるんですね。
そこに座り続けることがいかに危険かと説いたり、釈迦の父親である王が牢獄につながれたとか、一族が城から全部追い出されたとか、そういうことを言って、釈迦が座るのを邪魔するわけです。

ここで、魔の説くことが単なる嘘なら、話は分かりやすいのですが、魔の言うことがもし本当だとしたら、話は違ってきます。
また、それが嘘だとしても、釈迦自身が本当のことだと思っていたら、あるいは、その真偽さえ関係ないと思っていたら、そう思うと、話は違ってくるように思います。



さて、我々も、人生において、天沢聖司や月島雫がそうしたように、何らかのことをやり遂げようとする瞬間(期間)があるかもしれません。

座り続けようとする時が、あるかもしれません。

その時に、周囲の者から、その危険性やリスクを説かれたり、身内が心配していることや、身内が危険な状態になっていることを、報告されるかもしれません。

これを釈迦の話と結びつけて、魔とする気はさらさら無いのですが、何を言いたいのかというと、簡単に善悪には分けられないということです。


「耳をすませば」の話にしても、両親や姉は、善意から心配しました。
姉は、妹のことを思い、続けることを止めさせようとしました。

それを悪だとは、とても言えんでしょう。
しかしまた、それを善だとも、言えんのではないかと思うのです。

雫が物語を書き上げたのは、そこに座り続けたからであって、それを中心に据える時、それを邪魔しようとする行為は、ある意味では、魔なんでしょう。

でも、実際は、魔でもなんでもなく、肉親の愛情なんですね。

しかし、その肉親の愛情も、時には、魔に近しいものになり得るということです。

(まあ、ある立場からすれば、座り続けさせようという働きが、魔に思えるんでしょうけども)



座り続けることで必ずいいことが訪れるとは言えず、
座り続けることで不都合なことも、いろいろと生じるのですが、

まあ、河合先生がおっしゃったように、

釈迦だから座りきれたんだろうし、
月島雫や天沢聖司だから、座り続けられたんでしょう。

実際、座り続けるのは、難儀ですよ。


何が善いことか悪いことかは、実のところ、よう分からない。

ただ、座り続ける人だけが、座り続けるんでしょう。









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