表紙過去ログ
2007年11月:「範囲、領分 ―― 宗教、科学、心理学」
2007年10月:「ゆとり」
2007年09月:「人間、思うところ」
【2007年11月】
◇「範囲、領分 ―― 宗教、科学、心理学」◇
例えば、
宗教には宗教の範囲が、
科学には科学の範囲が、
それぞれに、あるのだと思います。
言い換えると、
宗教には宗教の領分が、
科学には科学の領分が、
あるということですね。
◇
ある時代、 宗教のチカラが、絶大だったと思われます。
ということは、宗教の力が及ぶ範囲が、非常に広くなったということです。
で、ここでひとつの見方が出来ます。
本来、宗教には宗教の範囲や領分があって、そこに収まっている限り、素晴らしいチカラを発揮できるのですが、
なまじ広がりすぎてしまうと、宗教の範囲でないところにまで、チカラが及んでしまい(本来の範囲を逸脱してしまい)、
結果、うまい具合に効果が出なかったり、それを隠そうとして、こじつけに走ったり、実際の範囲以上に広がったものを頑なに守ろうとしたり、そうやって、信用を失ってしまうのかもしれません。
☆
例えば、治療、それも外科的な治療に対して、宗教のチカラが働くのかというと、私はそれに対して懐疑的です。
確かに、「奇跡」のようなことも起きるのかもしれません。
しかし、それは検証不可能で、因果関係を説明できるものではなく、つまり、それはあくまで稀な例であって、多くは<そうはならない>のです。必ずそうなる、と言えるものではありません。
(但し、検証不可能な以上、それはまったく無い、とも言えないのですが…)
(また、そういう意味では、私は信じているともいえるのです。稀な例、奇跡として…)
で、あくまで例えですが、
宗教の力が増大し、外科的な病気でも――それも、いつ、どこで、誰にでも――治療可能というように謳われはじめると、もちろん、実際にそうはならないわけですから、自身で信用を傷つけることになるんですね。
☆
このように、平たく言えば、「宗教には、宗教のチカラが有効に働く、そんな範囲、領分がある」ということです。
本来の範囲や領域で、宗教が活躍する限り、 宗教は力を発揮し、それを目の当たりにした人々にも大いに信用されるのですが、 その範囲を逸脱してしまった途端に、宗教はチカラを失い、結果、信用をも失ってしまう。
逸脱する範囲が大きければ大きいほど、失う信用も大きくなるんでしょう。
そしてまた、科学にも同じことが言えるのかもしれません。
◇
科学にも、同じことが言えましょう。
科学が、本来の領域で活躍する限り、 科学のチカラは効果的に働き、それを目の当たりにした人々から、信用され、重宝がられます。
しかし、科学があまりにその範囲を広げすぎ、本来の範囲や領分から逸脱した途端、科学はそのチカラを失い、それを見た人々からの信用も失うでしょう。
科学にも、宗教と同じく、そのチカラが効果的に働く範囲、領分というものがあるのです。
☆
例えば、人の死に際し、科学的に説明しても、はたして人は納得するのだろうか、ということがあります。
人の死を科学的に説明することは可能です。
これこれこういうために亡くなられました、そう(死亡診断書のように)言うことは可能でしょう。
が、しかし、
人の心を中心に考えた場合、それが何になるんだろう、ということにもなるのです。
確かに、科学的な説明を聞いて納得する人もいると思います。しかし、同時に、それでは納得できない人も、多くいるのです。
科学は、科学的な説明をするという点において、十分にチカラを発揮するんでしょうけども、
人を如何に納得させるか、人の心のもやもやを如何に取り除くか、そういう点においては――そういう範囲に飛び込んだ途端――チカラを失うのかもしれません。
これは人にもよりますが、そういう時は、前述の宗教的な説明の方が、しっくりくることもあります。
あるいは、自分の納得する『何か』を、人は見つけなければならないのかもしれません。
☆
当たり前のことですが、 科学にも出来ることと出来ないことがあり、説明可能なこともあれば、説明不可能なこともあります。
そういう、範囲があるんでしょう。
科学が万能だと言ってしまうことは、もはや科学的ではありません。
科学には、「今」解明できていることもあり、同時に、「今は」解明できていない領域もあるのです。
それを、すべて分かる(説明がつく)と言ってしまうのは、 当たり前ですが、非科学的です。
そして、仮に多くが説明できるにせよ、それが役立つ場合もあれば、それほど役には立たない場合もあるのです。
こと、人の心に及ぼす影響という点においては、そうだと思います。
◇
そして、心理学というものを考えた場合、これまた複雑になるようです。
心理学のパイオニアたちは、人の心を扱う心理学というものを、何とか学問にしよう――つまり、科学として扱おう――と努力されたのだと思います。
しかし、目に見えず、数値も測定できない、そんな人の心を扱う以上、そのすべてを科学の枠組みの中に押し込むのは無理があるし、仮にそれが可能だとしても、その枠内に収まったものが、はたして人の心を救い得るのか、大いに疑問です。
しかし、また同時に、心理学が学問や科学の枠組みから遠く離れてしまうと、それはもはや心理学ではなくなり、宗教のようになったり、あるいは、ニセ科学のようになってしまうかもしれません。
まあ、それでも効果があればいいのですが、効果はありません、合理的な説明もできませんでは、それこそ救いがないですもんね。
(もっとも、何事も、インスタントにはいきませんが…*1)
ですから、こと範囲といういう意味おいて、心理学は難しさを有しているのだと思います。
(どちらの範囲にも籍を置き、同時に、どちらの範囲からも、はみ出すのです)
そして、ひとつのキーワード、ひとつの仕事として、
如何に、その目に見えないものを、合理的に説明するか、
本来共有し得ない個人的なものを、如何に共有できるようにするか、
そういうのが挙げられるようです。
こういうのは、なかなか難しいことですけども、ある意味では、進むべき道があるということも、意味します。
そして、そう思えば、ワクワクする気持ちも禁じえません。
*1)
というのは、手っ取り早く分かろう、手っ取り早く効果を得ようとし、それが無理だと分かった途端、役に立たないというのは、早計だということです。
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◇「範囲、領分 ―― 宗教、科学、心理学」◇
例えば、
宗教には宗教の範囲が、
科学には科学の範囲が、
それぞれに、あるのだと思います。
言い換えると、
宗教には宗教の領分が、
科学には科学の領分が、
あるということですね。
◇
ある時代、 宗教のチカラが、絶大だったと思われます。
ということは、宗教の力が及ぶ範囲が、非常に広くなったということです。
で、ここでひとつの見方が出来ます。
本来、宗教には宗教の範囲や領分があって、そこに収まっている限り、素晴らしいチカラを発揮できるのですが、
なまじ広がりすぎてしまうと、宗教の範囲でないところにまで、チカラが及んでしまい(本来の範囲を逸脱してしまい)、
結果、うまい具合に効果が出なかったり、それを隠そうとして、こじつけに走ったり、実際の範囲以上に広がったものを頑なに守ろうとしたり、そうやって、信用を失ってしまうのかもしれません。
☆
例えば、治療、それも外科的な治療に対して、宗教のチカラが働くのかというと、私はそれに対して懐疑的です。
確かに、「奇跡」のようなことも起きるのかもしれません。
しかし、それは検証不可能で、因果関係を説明できるものではなく、つまり、それはあくまで稀な例であって、多くは<そうはならない>のです。必ずそうなる、と言えるものではありません。
(但し、検証不可能な以上、それはまったく無い、とも言えないのですが…)
(また、そういう意味では、私は信じているともいえるのです。稀な例、奇跡として…)
で、あくまで例えですが、
宗教の力が増大し、外科的な病気でも――それも、いつ、どこで、誰にでも――治療可能というように謳われはじめると、もちろん、実際にそうはならないわけですから、自身で信用を傷つけることになるんですね。
☆
このように、平たく言えば、「宗教には、宗教のチカラが有効に働く、そんな範囲、領分がある」ということです。
本来の範囲や領域で、宗教が活躍する限り、 宗教は力を発揮し、それを目の当たりにした人々にも大いに信用されるのですが、 その範囲を逸脱してしまった途端に、宗教はチカラを失い、結果、信用をも失ってしまう。
逸脱する範囲が大きければ大きいほど、失う信用も大きくなるんでしょう。
そしてまた、科学にも同じことが言えるのかもしれません。
◇
科学にも、同じことが言えましょう。
科学が、本来の領域で活躍する限り、 科学のチカラは効果的に働き、それを目の当たりにした人々から、信用され、重宝がられます。
しかし、科学があまりにその範囲を広げすぎ、本来の範囲や領分から逸脱した途端、科学はそのチカラを失い、それを見た人々からの信用も失うでしょう。
科学にも、宗教と同じく、そのチカラが効果的に働く範囲、領分というものがあるのです。
☆
例えば、人の死に際し、科学的に説明しても、はたして人は納得するのだろうか、ということがあります。
人の死を科学的に説明することは可能です。
これこれこういうために亡くなられました、そう(死亡診断書のように)言うことは可能でしょう。
が、しかし、
人の心を中心に考えた場合、それが何になるんだろう、ということにもなるのです。
確かに、科学的な説明を聞いて納得する人もいると思います。しかし、同時に、それでは納得できない人も、多くいるのです。
科学は、科学的な説明をするという点において、十分にチカラを発揮するんでしょうけども、
人を如何に納得させるか、人の心のもやもやを如何に取り除くか、そういう点においては――そういう範囲に飛び込んだ途端――チカラを失うのかもしれません。
これは人にもよりますが、そういう時は、前述の宗教的な説明の方が、しっくりくることもあります。
あるいは、自分の納得する『何か』を、人は見つけなければならないのかもしれません。
☆
当たり前のことですが、 科学にも出来ることと出来ないことがあり、説明可能なこともあれば、説明不可能なこともあります。
そういう、範囲があるんでしょう。
科学が万能だと言ってしまうことは、もはや科学的ではありません。
科学には、「今」解明できていることもあり、同時に、「今は」解明できていない領域もあるのです。
それを、すべて分かる(説明がつく)と言ってしまうのは、 当たり前ですが、非科学的です。
そして、仮に多くが説明できるにせよ、それが役立つ場合もあれば、それほど役には立たない場合もあるのです。
こと、人の心に及ぼす影響という点においては、そうだと思います。
◇
そして、心理学というものを考えた場合、これまた複雑になるようです。
心理学のパイオニアたちは、人の心を扱う心理学というものを、何とか学問にしよう――つまり、科学として扱おう――と努力されたのだと思います。
しかし、目に見えず、数値も測定できない、そんな人の心を扱う以上、そのすべてを科学の枠組みの中に押し込むのは無理があるし、仮にそれが可能だとしても、その枠内に収まったものが、はたして人の心を救い得るのか、大いに疑問です。
しかし、また同時に、心理学が学問や科学の枠組みから遠く離れてしまうと、それはもはや心理学ではなくなり、宗教のようになったり、あるいは、ニセ科学のようになってしまうかもしれません。
まあ、それでも効果があればいいのですが、効果はありません、合理的な説明もできませんでは、それこそ救いがないですもんね。
(もっとも、何事も、インスタントにはいきませんが…*1)
ですから、こと範囲といういう意味おいて、心理学は難しさを有しているのだと思います。
(どちらの範囲にも籍を置き、同時に、どちらの範囲からも、はみ出すのです)
そして、ひとつのキーワード、ひとつの仕事として、
如何に、その目に見えないものを、合理的に説明するか、
本来共有し得ない個人的なものを、如何に共有できるようにするか、
そういうのが挙げられるようです。
こういうのは、なかなか難しいことですけども、ある意味では、進むべき道があるということも、意味します。
そして、そう思えば、ワクワクする気持ちも禁じえません。
*1)
というのは、手っ取り早く分かろう、手っ取り早く効果を得ようとし、それが無理だと分かった途端、役に立たないというのは、早計だということです。
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【2007年10月】
◇「ゆとり」◇
ゆとり、ゆとり…
我々は<ゆとり>を求めて頑張ったりしますが、
その<ゆとり>って、いったい何なのか、イマイチ分かってないのかもしれませんん。
◇
例えば、「ゆとり教育」。
今現在、ゆとり教育の負の面が取り上げられ、問題化しているように思います。
学力の低下、
薄くなる教科書、
授業数の減少、
余った時間を塾などで受験勉強に当てれば、同じではないか、という意見、
なかなか問題が多いようです。
で、はて?
<ゆとり教育>って、あるいは、<ゆとり>って、何なんでしょう?
ニュースで取り上げられるような言葉を聞くと、
ゆとり教育って、「勉強する時間を少なくすること」、そんな風に聞こえます。
では、<ゆとり>とは、何もしないことなんでしょうか?
◇
<ゆとり>を辞書で引くと、
「物事に余裕があって窮屈でないこと。余裕」
と書いてあります。
(三省堂「大辞林」より )
確かに、
勉強 ―― それも基礎勉強というよりは受験勉強 ―― に忙しくて、
余裕がないのは困ります。
<窮屈>な範囲まで来ると、しんどいし、やり切れんでしょう。
その先に、何かしようとは思いませんわな。
そういう意味で、余裕が出るくらいに勉強時間を減らすのは、ある程度、理に適っているとも取れます。
しかし、しかし、
<勉強しないこと>が目標なんでしょうか?
<ゆとり教育>って、<勉強しないこと>なんでしょうか?
☆
問題は、その先なんでしょうね。
<勉強しないこと>や<勉強を制限すること>が目的ではなくて、
それはあくまで手段や過程であって、
最終的な目標は、<ゆとり>を得て、それを何に使うか? なんでしょう。
つまりは、豊かに生きましょうってことです。
それは無為に時間を浪費することではなくて、
例えば、
・好きなことを勉強する
・好きなスポーツに汗を流す
・興味あることを調べる
・興味あることを見て回る
・それらの話を聞いて回る
という風に、これらはいわば、<枠のない勉強>なんです。
ですから、<ゆとり教育>ってのは、本来、
<勉強しないこと>や<勉強を制限すること>ではなくて、
それら<枠のない勉強>や<既存の枠外にある、興味深い勉強>をすること、
それができるだけの<ゆとりある時間>を捻出すること、
なんでしょう。
◇
大人であれ、子供であれ、現代社会では、何かと時間に追われ、
余裕がなくなったり、窮屈になったりします。
だから、<余裕>や<ゆとり>を求めるのも当然でしょう。
しかし、その裏では、それを得た瞬間に<虚無>に襲われたり、時間を持て余したり、かえって心身を壊す問題も浮上してたりするわけで、
余裕がなくても困り、余裕があっても困るという、けったいな事態になっているのです。
これも、<余裕>や<ゆとり>、それを得ることを最終目標にしているからこそ出て来る、問題なのかもしれません。
(時間を貯蓄することばかりに、目が奪われている。ああ、灰色の男たち…)
ということは、我々が取り組まなければならないのは、その先、
<余裕>や<ゆとり>を得た後の<使い道>、もっというと、自分自身の<生き方>なのです。
そして、それは<個性化の過程>や<自己実現>にもつながる、
自分の奥の方にある、未知なる何かを表現すること、カタチにすること、
それらと大いに関係するような気がします。
☆
まあ、そういうのはすぐに表に出てくるものでもないので、
考えたり、悩んだり、あるいは、待ったり、
そういう、現代人が苦手にしているようなことと、少しずつ付き合っていくことになるんでしょうね。
うん、悩むことは、そんなに悪いことではないですよ。
悩むのはしんどいですけど、悩むことから逃げるから、余計にしんどいんです。
適度なトレーニングが肉体を作るように、適度に悩むことは、精神を作っていくことになるのだと、私は思います。
(といっても、トレーニングがそうであるように、あまりに重かったり激しかったりするのは逆効果だし、それには時間がかかるし、<適度>や<程度>が大事になって、何より<休むこと>が重要なんですけどね)
(<休むこと>に抵抗がある方もいるとは思いますが、それは<最終地点>ではなくて<過程>で、その先に行くために、休むんですから…)
(私からすれば、<価値ある休養>なんですよ)
☆
と、いろいろ書いてきましたが、
つまるところ、
「余裕」や「ゆとり」というのは、「時間」、それも「自由に使える時間」に関係してくるのだと思います。
そして、あくせく貯蓄した挙句に、それがどこかにいって無くなっていた、なんてことにならないように、
<自分で使うこと><有効に使うこと>ってのも、考えておくべきかもしれませんね。
ゆとりは得るためにあるのではなく、使うためにあるんでしょう。
しかも、自分の方法で、ね。
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◇「ゆとり」◇
ゆとり、ゆとり…
我々は<ゆとり>を求めて頑張ったりしますが、
その<ゆとり>って、いったい何なのか、イマイチ分かってないのかもしれませんん。
◇
例えば、「ゆとり教育」。
今現在、ゆとり教育の負の面が取り上げられ、問題化しているように思います。
学力の低下、
薄くなる教科書、
授業数の減少、
余った時間を塾などで受験勉強に当てれば、同じではないか、という意見、
なかなか問題が多いようです。
で、はて?
<ゆとり教育>って、あるいは、<ゆとり>って、何なんでしょう?
ニュースで取り上げられるような言葉を聞くと、
ゆとり教育って、「勉強する時間を少なくすること」、そんな風に聞こえます。
では、<ゆとり>とは、何もしないことなんでしょうか?
◇
<ゆとり>を辞書で引くと、
「物事に余裕があって窮屈でないこと。余裕」
と書いてあります。
(三省堂「大辞林」より )
確かに、
勉強 ―― それも基礎勉強というよりは受験勉強 ―― に忙しくて、
余裕がないのは困ります。
<窮屈>な範囲まで来ると、しんどいし、やり切れんでしょう。
その先に、何かしようとは思いませんわな。
そういう意味で、余裕が出るくらいに勉強時間を減らすのは、ある程度、理に適っているとも取れます。
しかし、しかし、
<勉強しないこと>が目標なんでしょうか?
<ゆとり教育>って、<勉強しないこと>なんでしょうか?
☆
問題は、その先なんでしょうね。
<勉強しないこと>や<勉強を制限すること>が目的ではなくて、
それはあくまで手段や過程であって、
最終的な目標は、<ゆとり>を得て、それを何に使うか? なんでしょう。
つまりは、豊かに生きましょうってことです。
それは無為に時間を浪費することではなくて、
例えば、
・好きなことを勉強する
・好きなスポーツに汗を流す
・興味あることを調べる
・興味あることを見て回る
・それらの話を聞いて回る
という風に、これらはいわば、<枠のない勉強>なんです。
ですから、<ゆとり教育>ってのは、本来、
<勉強しないこと>や<勉強を制限すること>ではなくて、
それら<枠のない勉強>や<既存の枠外にある、興味深い勉強>をすること、
それができるだけの<ゆとりある時間>を捻出すること、
なんでしょう。
◇
大人であれ、子供であれ、現代社会では、何かと時間に追われ、
余裕がなくなったり、窮屈になったりします。
だから、<余裕>や<ゆとり>を求めるのも当然でしょう。
しかし、その裏では、それを得た瞬間に<虚無>に襲われたり、時間を持て余したり、かえって心身を壊す問題も浮上してたりするわけで、
余裕がなくても困り、余裕があっても困るという、けったいな事態になっているのです。
これも、<余裕>や<ゆとり>、それを得ることを最終目標にしているからこそ出て来る、問題なのかもしれません。
(時間を貯蓄することばかりに、目が奪われている。ああ、灰色の男たち…)
ということは、我々が取り組まなければならないのは、その先、
<余裕>や<ゆとり>を得た後の<使い道>、もっというと、自分自身の<生き方>なのです。
そして、それは<個性化の過程>や<自己実現>にもつながる、
自分の奥の方にある、未知なる何かを表現すること、カタチにすること、
それらと大いに関係するような気がします。
☆
まあ、そういうのはすぐに表に出てくるものでもないので、
考えたり、悩んだり、あるいは、待ったり、
そういう、現代人が苦手にしているようなことと、少しずつ付き合っていくことになるんでしょうね。
うん、悩むことは、そんなに悪いことではないですよ。
悩むのはしんどいですけど、悩むことから逃げるから、余計にしんどいんです。
適度なトレーニングが肉体を作るように、適度に悩むことは、精神を作っていくことになるのだと、私は思います。
(といっても、トレーニングがそうであるように、あまりに重かったり激しかったりするのは逆効果だし、それには時間がかかるし、<適度>や<程度>が大事になって、何より<休むこと>が重要なんですけどね)
(<休むこと>に抵抗がある方もいるとは思いますが、それは<最終地点>ではなくて<過程>で、その先に行くために、休むんですから…)
(私からすれば、<価値ある休養>なんですよ)
☆
と、いろいろ書いてきましたが、
つまるところ、
「余裕」や「ゆとり」というのは、「時間」、それも「自由に使える時間」に関係してくるのだと思います。
そして、あくせく貯蓄した挙句に、それがどこかにいって無くなっていた、なんてことにならないように、
<自分で使うこと><有効に使うこと>ってのも、考えておくべきかもしれませんね。
ゆとりは得るためにあるのではなく、使うためにあるんでしょう。
しかも、自分の方法で、ね。
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【2007年09月】
◇「人間、思うところ」◇
時々 ―― そして、最近においては、度々 ――
ひとり一人の人間の<思うところ>というのは、そうそう大差ないのではないか、
そう思ったりするのです。
☆
というのは、つまり、
ある種の事象なり、事件なり、出来事なりを ―― まあ、コンプレックスなどの制約を受けないという前提条件はありますけども ――
それなりに、ありのまま見、
それなりに、全体を見、
それなりに、それぞれの立場から見、
そういう風に、それなりに、眺め、鑑みたならば、
この、同じ時代、同じ文化の中に生き、同じような学問を学び、同じような娯楽を楽しみ、そういった、いわば、そう大差ない人生を送っている我々人間のこと、
<思うところ>だって、そうそう大差ないのではないか、
そう思うのです。
(もちろん、生き方にしろ、思うところにしろ、その詳細は同じではないですけどもね)
☆
しかし、実際のところは、そんなことはない。
むしろ、真逆のことさえある。
というのも、
まあ、コンプレックスだの、防衛機制だの、いちいち説明するのも面倒であり、また、聞くほうも疲れるので聞きたくないような、そんなややこしいものの影響も、もちろん無視できないのではありますが、しかし、
ここに来て、その要因とやらの多くは、もっと単純なものなのではないか、そう思ったりもするのです。
と、いうのは、つまり、
テキトーに聞きかじり、
テキトーにちらりと見て、
実は、又聞きの又聞きであった、
そういった、なんというか、
<実は、よーく見てないんじゃないの>
そういったことに要因があるのではないかと、思ったりするのです。
☆
それが遠くの出来事であれ、近くの出来事であれ、
忙しさにかまけて、よく見聞きしない・できないってのは、誰だってあるでしょ。
私だってそうです。
ということは、
全体の布置なんて見ていない、
ありのままの状況なんて知らない、
実際にどうかなんて、分からない、
そういうことは、当たり前にあるのではないでしょうか。
誰だって忙しい、だから、その全部を知るなんて、不可能といえば、不可能です。
で、その結果、
それが与えられたものであれ、自分で得たものであれ、
部分のみを見聞きしたものを材料にするのですから、
本来、そうそう大差ないはずの<思うところ>にもズレが生じる。
目の前にあるものを、ある程度、じっと見聞きして、
ある程度、ありのままに、
ある程度、全体を、
ある程度、それぞれの立場で、
そうやって見聞きすれば、そうそうズレるはずもないものも、
ああ忙しい、忙しいと、そう思うかどうかは別にして、
忙しさにかまけてろくに見ないもんだから、さあタイヘン。
おぞましいことが起こってしまう。
ね?
違います?
◇
ところで、
ある程度、ありのままに見、
ある程度、全体を見、
ある程度、それぞれの立場で見、
そうしても、<思うところ>ってやつに、ズレが生じる場合があります。
しかし、そういうものこそ、
個性とか、性格・タイプとか、価値観の差といわれるものなのであります。
で、こういう類の<差>というのは、実はありがたいものだったりします。
普段はだいたい迷惑なんですが、ここぞという時には、役に立ったりするんです。
集団においては、全滅を防いでくれたりして、
個人においては、方向修正に一役買ってくれたりするんですね。
☆
例えば、何かしらの集団が揃って危ない方向に歩もうとしている時、
警笛を鳴らしてくれたりする。
みんなが<見逃しているもの>を奇妙にも見ているので、
それに気づいたりする。
あるいは、仮にその集団の多くが死に絶えたとしても、その<差>を有するものは生き残ったりする。
これにより、全滅が避けられるんですね。
また、個人においても、
<今までの価値観>ではにっちもさっちもいかなくなるような時に、
普段は困った存在である、そんな、
<コントロールできぬもの><自我とは何かと対立するもの>
それらが助けてくれるのです。
つまり、<見逃しているもの>を、教えてくれるんですね。
<足りないもの><欠けているもの>に、気づかせてくれたりするのです。
(もっとも、両者においても、<聞く耳>っていうやつは必要ですけどね)
◇
そういうわけで、我々の中には、
人間総体として共有するような、そうそう大差ない<思うところ>というものと、
同じようでありながら明確に差がある<それとは違うもの>、
この、両方を持つのです。
また、高次の視点におきましては、これらは必須のものなのです。
欠かせないものだったりします。
☆
しかしですね、
時間泥棒に<時間>を盗まれて、忙しい忙しいと言っているうちは、
目の前のものをそのまま受け取れないので、
そうそう大差ない<思うところ>というのにもズレが生じるし、
自身の少し奥にあるものに目がいかないので、
<いつもとは違うもの>に出会うこともないのです。
ところで、
アニメ「モノノ怪」によりますと、
あの、伝説の生き物、鵺(ぬえ)の画というものは、
サルの部分を見た者は、鵺はサルだと言い、
トラの部分を見た者は、鵺はトラだと言う、
あの画が語っているのは、その姿ではなく、見る場所によって姿が違うということを言うておる、
のだそうです。
さて、我々は、何を見ているのでしょうか…
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◇「人間、思うところ」◇
時々 ―― そして、最近においては、度々 ――
ひとり一人の人間の<思うところ>というのは、そうそう大差ないのではないか、
そう思ったりするのです。
☆
というのは、つまり、
ある種の事象なり、事件なり、出来事なりを ―― まあ、コンプレックスなどの制約を受けないという前提条件はありますけども ――
それなりに、ありのまま見、
それなりに、全体を見、
それなりに、それぞれの立場から見、
そういう風に、それなりに、眺め、鑑みたならば、
この、同じ時代、同じ文化の中に生き、同じような学問を学び、同じような娯楽を楽しみ、そういった、いわば、そう大差ない人生を送っている我々人間のこと、
<思うところ>だって、そうそう大差ないのではないか、
そう思うのです。
(もちろん、生き方にしろ、思うところにしろ、その詳細は同じではないですけどもね)
☆
しかし、実際のところは、そんなことはない。
むしろ、真逆のことさえある。
というのも、
まあ、コンプレックスだの、防衛機制だの、いちいち説明するのも面倒であり、また、聞くほうも疲れるので聞きたくないような、そんなややこしいものの影響も、もちろん無視できないのではありますが、しかし、
ここに来て、その要因とやらの多くは、もっと単純なものなのではないか、そう思ったりもするのです。
と、いうのは、つまり、
テキトーに聞きかじり、
テキトーにちらりと見て、
実は、又聞きの又聞きであった、
そういった、なんというか、
<実は、よーく見てないんじゃないの>
そういったことに要因があるのではないかと、思ったりするのです。
☆
それが遠くの出来事であれ、近くの出来事であれ、
忙しさにかまけて、よく見聞きしない・できないってのは、誰だってあるでしょ。
私だってそうです。
ということは、
全体の布置なんて見ていない、
ありのままの状況なんて知らない、
実際にどうかなんて、分からない、
そういうことは、当たり前にあるのではないでしょうか。
誰だって忙しい、だから、その全部を知るなんて、不可能といえば、不可能です。
で、その結果、
それが与えられたものであれ、自分で得たものであれ、
部分のみを見聞きしたものを材料にするのですから、
本来、そうそう大差ないはずの<思うところ>にもズレが生じる。
目の前にあるものを、ある程度、じっと見聞きして、
ある程度、ありのままに、
ある程度、全体を、
ある程度、それぞれの立場で、
そうやって見聞きすれば、そうそうズレるはずもないものも、
ああ忙しい、忙しいと、そう思うかどうかは別にして、
忙しさにかまけてろくに見ないもんだから、さあタイヘン。
おぞましいことが起こってしまう。
ね?
違います?
◇
ところで、
ある程度、ありのままに見、
ある程度、全体を見、
ある程度、それぞれの立場で見、
そうしても、<思うところ>ってやつに、ズレが生じる場合があります。
しかし、そういうものこそ、
個性とか、性格・タイプとか、価値観の差といわれるものなのであります。
で、こういう類の<差>というのは、実はありがたいものだったりします。
普段はだいたい迷惑なんですが、ここぞという時には、役に立ったりするんです。
集団においては、全滅を防いでくれたりして、
個人においては、方向修正に一役買ってくれたりするんですね。
☆
例えば、何かしらの集団が揃って危ない方向に歩もうとしている時、
警笛を鳴らしてくれたりする。
みんなが<見逃しているもの>を奇妙にも見ているので、
それに気づいたりする。
あるいは、仮にその集団の多くが死に絶えたとしても、その<差>を有するものは生き残ったりする。
これにより、全滅が避けられるんですね。
また、個人においても、
<今までの価値観>ではにっちもさっちもいかなくなるような時に、
普段は困った存在である、そんな、
<コントロールできぬもの><自我とは何かと対立するもの>
それらが助けてくれるのです。
つまり、<見逃しているもの>を、教えてくれるんですね。
<足りないもの><欠けているもの>に、気づかせてくれたりするのです。
(もっとも、両者においても、<聞く耳>っていうやつは必要ですけどね)
◇
そういうわけで、我々の中には、
人間総体として共有するような、そうそう大差ない<思うところ>というものと、
同じようでありながら明確に差がある<それとは違うもの>、
この、両方を持つのです。
また、高次の視点におきましては、これらは必須のものなのです。
欠かせないものだったりします。
☆
しかしですね、
時間泥棒に<時間>を盗まれて、忙しい忙しいと言っているうちは、
目の前のものをそのまま受け取れないので、
そうそう大差ない<思うところ>というのにもズレが生じるし、
自身の少し奥にあるものに目がいかないので、
<いつもとは違うもの>に出会うこともないのです。
ところで、
アニメ「モノノ怪」によりますと、
あの、伝説の生き物、鵺(ぬえ)の画というものは、
サルの部分を見た者は、鵺はサルだと言い、
トラの部分を見た者は、鵺はトラだと言う、
あの画が語っているのは、その姿ではなく、見る場所によって姿が違うということを言うておる、
のだそうです。
さて、我々は、何を見ているのでしょうか…
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