表紙過去ログ
2007年08月:「言葉の向こうにあるもの」
2007年07月:「私たちの中の、幼い子…」
2007年06月:「僕らなりの悪…」
【2007年08月】
◇「言葉の向こうにあるもの」◇
NHKの『知るを楽しむ』、その中の「日本語のカタチとココロ」というシリーズの中で、
金田一秀穂さんが、以下のようなことを話されてました――
・言葉にならないものは、世の中にいっぱいある。
・「気持ち」を言葉で表すのは難しい。
・「感じ」を伝えるのは難しい。
・(それだけに)自分の言いたいことをちゃんと言えた! そういう言葉を見つけるのはとても難しい。
我々人間は、「言葉」を使って、コミュニケーションをとったり、何らかの意識や知識、感情まで共有するんですが、
それぞれの中にある、「気持ち」や「感じ」というものは、どうにも言語化しづらいですよね。
もちろん、ある程度は言語化できて、それによって共有も出来るんですが、
どうもうまく言えないといった、「もどかしさ」を持つものだと思います。
☆
これは、ある程度、我々意識できている、「気持ち」や「感じ」のことですが、
人間には、なかなか意識できない、もっと深いところにある「気持ち」や「感じ」というものもあります。
で、そういうのは、人に伝える云々(うんぬん)の前に、自分でもよく分からなかったり、気づいてなかったりします。
それは意識できないという意味で、「無意識」と定義できますが、ユングはその深い層に共通の「型」があると考え、「元型」という概念を構築しました。
「影」とか「アニマ」「アニムス」、「自己」などがそうです。
で、これらの本来意識できないものが、
――我々が「気持ち」や「感じ」を言語化して何とか人に伝えようとするように――
自我に対し、何とか伝えようとするんですね。
「元型」そのものは意識で捉えられないし、そういう意味で、我々は元型「そのもの」を見たり把握したりは出来ないんですが、
――我々が「気持ち」や「感じ」を言葉に置き換えるように――
「元型」は、我々が意識に捉えられない「そのもの」を、
我々が意識で捉えられるような、既知の何ものかの姿を借りて表現し、
我々に伝えようとするんです。
(いわば、イメージで伝えようとするんですね)
しかも、
――我々が言葉を使ってそうするように――
出来るだけ「ぴったりとした」「もう、それしかない」というようなものを使って、表現しようとするんですね。
一番「しっくりくるもの」を使うんです。
これをユングは「象徴」と呼びました。
但し、ユングの言う「象徴」は単なる代替の呼称や記号ではなく、その奥に多くのものを含むもので、「説明しきれない」、「理性の把握を超えるもの」を含むものを言います。
(出発点の「そのもの」が、そういう性質のものですからね)
☆
話を戻しますが、このテレビシリーズの最後で、金田一先生は、以下のようなことをおっしゃいました――
・人間には、それでも伝えられないことがある。
・言葉の向こうに大事なものがあったりする。
・だから、人間は、それでも必死に何かを伝えようとする。
・そして、言葉を越えて何かが伝わった時、何ともいえない感動が訪れる。
これは「人間 対 人間」の関係において言っていることだと思うんですが、
実は、ひとりの人間の中の、「自我 対 無意識」に対しても、言えることなのだと思います。
つまり、
・人間には、意識で捉えられないものがある。
・自我の向こう(=無意識)に、大事なものがあったりする。
・だから、無意識は、必死で何かを伝えようとする。
(象徴表現を使ったりして、ですね。夢なんかもそうです)
そして、意識・無意識の境界を越えて、何かが伝わった時、
我々は大いに感動するのだと思います。
「人間 対 人間」の関係よろしく、
言葉の向こうにある、根源的な何かが伝わった時、
我々は理屈を越えて、深く胸(=心)に刻まれるような、
そんな体験をするんでしょう。
ページトップへ↑
◇「言葉の向こうにあるもの」◇
NHKの『知るを楽しむ』、その中の「日本語のカタチとココロ」というシリーズの中で、
金田一秀穂さんが、以下のようなことを話されてました――
・言葉にならないものは、世の中にいっぱいある。
・「気持ち」を言葉で表すのは難しい。
・「感じ」を伝えるのは難しい。
・(それだけに)自分の言いたいことをちゃんと言えた! そういう言葉を見つけるのはとても難しい。
我々人間は、「言葉」を使って、コミュニケーションをとったり、何らかの意識や知識、感情まで共有するんですが、
それぞれの中にある、「気持ち」や「感じ」というものは、どうにも言語化しづらいですよね。
もちろん、ある程度は言語化できて、それによって共有も出来るんですが、
どうもうまく言えないといった、「もどかしさ」を持つものだと思います。
☆
これは、ある程度、我々意識できている、「気持ち」や「感じ」のことですが、
人間には、なかなか意識できない、もっと深いところにある「気持ち」や「感じ」というものもあります。
で、そういうのは、人に伝える云々(うんぬん)の前に、自分でもよく分からなかったり、気づいてなかったりします。
それは意識できないという意味で、「無意識」と定義できますが、ユングはその深い層に共通の「型」があると考え、「元型」という概念を構築しました。
「影」とか「アニマ」「アニムス」、「自己」などがそうです。
で、これらの本来意識できないものが、
――我々が「気持ち」や「感じ」を言語化して何とか人に伝えようとするように――
自我に対し、何とか伝えようとするんですね。
「元型」そのものは意識で捉えられないし、そういう意味で、我々は元型「そのもの」を見たり把握したりは出来ないんですが、
――我々が「気持ち」や「感じ」を言葉に置き換えるように――
「元型」は、我々が意識に捉えられない「そのもの」を、
我々が意識で捉えられるような、既知の何ものかの姿を借りて表現し、
我々に伝えようとするんです。
(いわば、イメージで伝えようとするんですね)
しかも、
――我々が言葉を使ってそうするように――
出来るだけ「ぴったりとした」「もう、それしかない」というようなものを使って、表現しようとするんですね。
一番「しっくりくるもの」を使うんです。
これをユングは「象徴」と呼びました。
但し、ユングの言う「象徴」は単なる代替の呼称や記号ではなく、その奥に多くのものを含むもので、「説明しきれない」、「理性の把握を超えるもの」を含むものを言います。
(出発点の「そのもの」が、そういう性質のものですからね)
☆
話を戻しますが、このテレビシリーズの最後で、金田一先生は、以下のようなことをおっしゃいました――
・人間には、それでも伝えられないことがある。
・言葉の向こうに大事なものがあったりする。
・だから、人間は、それでも必死に何かを伝えようとする。
・そして、言葉を越えて何かが伝わった時、何ともいえない感動が訪れる。
これは「人間 対 人間」の関係において言っていることだと思うんですが、
実は、ひとりの人間の中の、「自我 対 無意識」に対しても、言えることなのだと思います。
つまり、
・人間には、意識で捉えられないものがある。
・自我の向こう(=無意識)に、大事なものがあったりする。
・だから、無意識は、必死で何かを伝えようとする。
(象徴表現を使ったりして、ですね。夢なんかもそうです)
そして、意識・無意識の境界を越えて、何かが伝わった時、
我々は大いに感動するのだと思います。
「人間 対 人間」の関係よろしく、
言葉の向こうにある、根源的な何かが伝わった時、
我々は理屈を越えて、深く胸(=心)に刻まれるような、
そんな体験をするんでしょう。
ページトップへ↑
【2007年07月】
◇「私たちの中の、幼い子…」◇
時に、夢の中に、幼い子供が現れる場合もあるかと思います。
それは、あの日の、同級生かもしれません。
テレビなんかで見る、タレントさんかもしれません。
兄弟かもしれない。
親戚かもしれない。
知っている子かもしれないし、直接的には知らない子かもしれない。
ともかく、そういう子供が夢に現れた時、
―― ここはシンプルに考えて ――
そういう部分が、自分の心の中に、存在しているのかもしれません。
生きているのかもしれません。
☆
それは、ガキ大将といった、やんちゃな面かもしれない。
優等生といった、いい子の面かもしれない。
おっとりした面。
乱暴な面。
おしとやかな面。
男性的な面。
女性的な面。
攻撃的な面。
やさしい面。
硬い面。
柔らかい面。
いろんな面があろうかと思いますが、ともかく、その、夢の中に現れた子供を表現するにピッタリな面、
その子を説明しようとすると、自然と出てくる面、
もう、それしかないような面、
そういう面が、しかも、子供の姿のままに、
我々の心の中に、生きているのかもしれません。
☆
それは未だ成長しておらず、いわば、置き去りにされた側面。
自我が成長していく中で、どうしても排除されねばならなかった面。
自我が成長する中で、一緒に成長・開発されることが赦されなかった、半面。
半身であり、兄弟。
双子の片割れ。
そういう面が、未だ子供のままで、我々の中に、ひっそりと生きているのかもしれませんね。
☆
そう考えると、なんとも切なくなりますが、
ひとりの人間として成長してきた時、
もっというと、ある程度完成してきた時、
そういう時は、これから、今まで顧みなかった、そういう、自分自身の子供の部分、未だ開発されないままの幼い部分を、ゆっくり育てるのも、大切な仕事なのかもしれませんね。
ページトップへ↑
◇「私たちの中の、幼い子…」◇
時に、夢の中に、幼い子供が現れる場合もあるかと思います。
それは、あの日の、同級生かもしれません。
テレビなんかで見る、タレントさんかもしれません。
兄弟かもしれない。
親戚かもしれない。
知っている子かもしれないし、直接的には知らない子かもしれない。
ともかく、そういう子供が夢に現れた時、
―― ここはシンプルに考えて ――
そういう部分が、自分の心の中に、存在しているのかもしれません。
生きているのかもしれません。
☆
それは、ガキ大将といった、やんちゃな面かもしれない。
優等生といった、いい子の面かもしれない。
おっとりした面。
乱暴な面。
おしとやかな面。
男性的な面。
女性的な面。
攻撃的な面。
やさしい面。
硬い面。
柔らかい面。
いろんな面があろうかと思いますが、ともかく、その、夢の中に現れた子供を表現するにピッタリな面、
その子を説明しようとすると、自然と出てくる面、
もう、それしかないような面、
そういう面が、しかも、子供の姿のままに、
我々の心の中に、生きているのかもしれません。
☆
それは未だ成長しておらず、いわば、置き去りにされた側面。
自我が成長していく中で、どうしても排除されねばならなかった面。
自我が成長する中で、一緒に成長・開発されることが赦されなかった、半面。
半身であり、兄弟。
双子の片割れ。
そういう面が、未だ子供のままで、我々の中に、ひっそりと生きているのかもしれませんね。
☆
そう考えると、なんとも切なくなりますが、
ひとりの人間として成長してきた時、
もっというと、ある程度完成してきた時、
そういう時は、これから、今まで顧みなかった、そういう、自分自身の子供の部分、未だ開発されないままの幼い部分を、ゆっくり育てるのも、大切な仕事なのかもしれませんね。
ページトップへ↑
【2007年06月】
◇「僕らなりの悪…」◇
日記の方で書いたように、ある歌の聴き間違いから、「僕らなりの悪」というものについて、考えました。
◇
僕らなりの悪、
「悪」っていうと、もう、どうしようもないイメージで、
そんなものは内には持ちたくないし、外からも関わられたくない類のものだと思います。
「悪」を集約したものに「悪魔」という存在があると思うのですが、
やっぱり、そんなものは内には持ちたくないし、外からも関わられたくないですよね。
何とか避けよう、切り離そうとするもの、それが悪だと思います。
(あ、でも、最近は、アクセサリーやら、何かしらの名前やら(チーム名とか)で、そういうものが使われるんだから、そうでもないんだろうか? う〜ん…)
☆
そんな、どうしようもない悪、自分からは――内からも、外からも――切り離したいと思う、悪ですが、
それが本質的に悪といえるのかどうか、となると、ビミョーですよね。
簡単に善だ悪だと、分けていいものか、悩んでしまいます。
対立する要素や、まるきり異なった立ち位置があるとすると、
大体、片方にとって、反対のもう片方は悪だったりするし、
(自らを正当化しようとすればするほど、相手は悪にならざるを得なかったりするし)
それが本当に安定しているのかは別にして、
何かしら安定を保っている――そう思える、そう信じられている――状態を打破するものは、どうしても、悪と捉えられてしまう面があります。
「変わる」ということに、「今までを壊す」という要素が含まれる以上、
「変化を呼ぶもの」には、どうしても「破壊者」の一面が付きまとい、
結果、どうしても「悪」の要素がついてまわるのだと思います。
そう考えると、悪にも悪なりの役割があるのではないか? とか、
簡単に断罪していいものか? そういう疑問もわいてきます。
(本能的なものは悪と結びつきやすいと思いますが、そういう人間の原初的なものと切れてしまっても困るわけだし、そういう意味でも、悪との接し方というのは簡単に割り切れるものではないですよね)
が、しかし、
やっぱり、赦せない悪もあるわけで、
そうすると、
悪をひと括りにできないんじゃないか?
そういうことにもなるでしょうか…。
☆
例えば、関係ない人に自分の都合を押し付けて迷惑をかけているような場合もあるわけで、そんな低級な悪は到底認められないと思います。
(悪というより、身勝手ですか…)
そういう時、「関係ないやろ!」「放っとけや!」と言う人もいますが、その「関係ない人」に迷惑をかけているわけですから、「放っておける」はずもありません。
身勝手で迷惑をかけられたんじゃ、堪りません。子供じみている。
こんなものは、つまらん悪だと思います。
(もっとも、已むに已まれぬ事情がある場合は別なんでしょうけども…)
しかし、立場の違いにより生じている、「差」のような意味での「悪」となると、
これは困ってしまいますよね。
どっちが善で、どっちが悪かなんて、よう分かりません。
それを「善」ととるか、「悪」ととるか、
その価値基準そのものが違うんだから、しょうがない。
立場によって、まるきり違ってしまいます。
罵りあうのは、なんだか虚しいし、
かといって、無理やり同じにはできんわけだから、こりゃ、根が深いですよ。
そして、「現状を打ち破る」とか、「新しいものを生む」、そういう場合にも、悪は(悪の一面は)生じるのだと思います。
それは現状を打ち破る破壊者であり、
「今まで」の価値観を否定する(そう感じさせてしまう)困った存在なわけだし、
そういう意味で、「新しく来るもの」は、今までの秩序を破る、破壊者の一面・役割を持つのです。
その点において、どうしても「悪」になってしまいます。
ならざるを得ません。
☆
こういうことを考えると、時代の節目節目、過渡期のような時期には、どうしても「悪の到来」というのは欠かせないイベントなわけで、
何かしらの集団においても――家族でも会社でも、もっというと社会でも――今のままでは通用しなくなる、そんな閉塞状態を打破するには、「悪の到来」というイベントは欠かせないのかもしれません。
そんな中で、できるだけ低級な悪や、しないでいい価値観の差による相手の断罪を避けながら、
「今までのやり方」では成立しない、動脈硬化のような、閉塞した状態を打ち破る、
そんな、「僕らなりの悪」を築いてゆくというのは、すごく意味のあることかもしれませんね。
それを、内からも、外からも、しなければならんのでしょう。
☆
実際のことをいうと、上記のようなもの(低級なものも含めた悪のカタチ)が混在するような気がするし、
閉塞状態を打ち砕くような「その人なりの悪」を行なうにしても、結局のところ、「何や知らんけど、そうしてる」的なものであって、
つまり、
心の奥の方から突き上げられる、そんな、よく分からない何かに突き動かされて、そうしてるんでしょう。
そして、
悪を行なってでも変われ、
悪を行なうことで変われ、
今まで自分が悪としてきた中に何かを見出せ、
そういうメッセージも含まれているかもしれませんね。
ともかく、「悪」といってもいろいろあって、そんな中で、破壊のみに終わるのは悲しいので、
何かしら、「創造的なもの」に通じる悪を行なうことが大切なんでしょうね。
(躊躇しすぎて、中途半端な破壊で終わるのも寂しいし、かといって、取り返しのつかない破壊も困るし、やっぱ、何か創造的なものが生じないとね…)
で、こういうことを総合して考えると、
一見、悪を行なっていると思われる者や、非常に困った存在とされる者も、
何かしらの集団の、「創造に通じる悪」の役割を背負わされている、
そういう見方もできるわけで、
いったい何を破壊し、何を創造しようとしているのか、
というのが見えてくると、
今まで見えてなかった道が開けるかもしれません。
ページトップへ↑
◇「僕らなりの悪…」◇
日記の方で書いたように、ある歌の聴き間違いから、「僕らなりの悪」というものについて、考えました。
◇
僕らなりの悪、
「悪」っていうと、もう、どうしようもないイメージで、
そんなものは内には持ちたくないし、外からも関わられたくない類のものだと思います。
「悪」を集約したものに「悪魔」という存在があると思うのですが、
やっぱり、そんなものは内には持ちたくないし、外からも関わられたくないですよね。
何とか避けよう、切り離そうとするもの、それが悪だと思います。
(あ、でも、最近は、アクセサリーやら、何かしらの名前やら(チーム名とか)で、そういうものが使われるんだから、そうでもないんだろうか? う〜ん…)
☆
そんな、どうしようもない悪、自分からは――内からも、外からも――切り離したいと思う、悪ですが、
それが本質的に悪といえるのかどうか、となると、ビミョーですよね。
簡単に善だ悪だと、分けていいものか、悩んでしまいます。
対立する要素や、まるきり異なった立ち位置があるとすると、
大体、片方にとって、反対のもう片方は悪だったりするし、
(自らを正当化しようとすればするほど、相手は悪にならざるを得なかったりするし)
それが本当に安定しているのかは別にして、
何かしら安定を保っている――そう思える、そう信じられている――状態を打破するものは、どうしても、悪と捉えられてしまう面があります。
「変わる」ということに、「今までを壊す」という要素が含まれる以上、
「変化を呼ぶもの」には、どうしても「破壊者」の一面が付きまとい、
結果、どうしても「悪」の要素がついてまわるのだと思います。
そう考えると、悪にも悪なりの役割があるのではないか? とか、
簡単に断罪していいものか? そういう疑問もわいてきます。
(本能的なものは悪と結びつきやすいと思いますが、そういう人間の原初的なものと切れてしまっても困るわけだし、そういう意味でも、悪との接し方というのは簡単に割り切れるものではないですよね)
が、しかし、
やっぱり、赦せない悪もあるわけで、
そうすると、
悪をひと括りにできないんじゃないか?
そういうことにもなるでしょうか…。
☆
例えば、関係ない人に自分の都合を押し付けて迷惑をかけているような場合もあるわけで、そんな低級な悪は到底認められないと思います。
(悪というより、身勝手ですか…)
そういう時、「関係ないやろ!」「放っとけや!」と言う人もいますが、その「関係ない人」に迷惑をかけているわけですから、「放っておける」はずもありません。
身勝手で迷惑をかけられたんじゃ、堪りません。子供じみている。
こんなものは、つまらん悪だと思います。
(もっとも、已むに已まれぬ事情がある場合は別なんでしょうけども…)
しかし、立場の違いにより生じている、「差」のような意味での「悪」となると、
これは困ってしまいますよね。
どっちが善で、どっちが悪かなんて、よう分かりません。
それを「善」ととるか、「悪」ととるか、
その価値基準そのものが違うんだから、しょうがない。
立場によって、まるきり違ってしまいます。
罵りあうのは、なんだか虚しいし、
かといって、無理やり同じにはできんわけだから、こりゃ、根が深いですよ。
そして、「現状を打ち破る」とか、「新しいものを生む」、そういう場合にも、悪は(悪の一面は)生じるのだと思います。
それは現状を打ち破る破壊者であり、
「今まで」の価値観を否定する(そう感じさせてしまう)困った存在なわけだし、
そういう意味で、「新しく来るもの」は、今までの秩序を破る、破壊者の一面・役割を持つのです。
その点において、どうしても「悪」になってしまいます。
ならざるを得ません。
☆
こういうことを考えると、時代の節目節目、過渡期のような時期には、どうしても「悪の到来」というのは欠かせないイベントなわけで、
何かしらの集団においても――家族でも会社でも、もっというと社会でも――今のままでは通用しなくなる、そんな閉塞状態を打破するには、「悪の到来」というイベントは欠かせないのかもしれません。
そんな中で、できるだけ低級な悪や、しないでいい価値観の差による相手の断罪を避けながら、
「今までのやり方」では成立しない、動脈硬化のような、閉塞した状態を打ち破る、
そんな、「僕らなりの悪」を築いてゆくというのは、すごく意味のあることかもしれませんね。
それを、内からも、外からも、しなければならんのでしょう。
☆
実際のことをいうと、上記のようなもの(低級なものも含めた悪のカタチ)が混在するような気がするし、
閉塞状態を打ち砕くような「その人なりの悪」を行なうにしても、結局のところ、「何や知らんけど、そうしてる」的なものであって、
つまり、
心の奥の方から突き上げられる、そんな、よく分からない何かに突き動かされて、そうしてるんでしょう。
そして、
悪を行なってでも変われ、
悪を行なうことで変われ、
今まで自分が悪としてきた中に何かを見出せ、
そういうメッセージも含まれているかもしれませんね。
ともかく、「悪」といってもいろいろあって、そんな中で、破壊のみに終わるのは悲しいので、
何かしら、「創造的なもの」に通じる悪を行なうことが大切なんでしょうね。
(躊躇しすぎて、中途半端な破壊で終わるのも寂しいし、かといって、取り返しのつかない破壊も困るし、やっぱ、何か創造的なものが生じないとね…)
で、こういうことを総合して考えると、
一見、悪を行なっていると思われる者や、非常に困った存在とされる者も、
何かしらの集団の、「創造に通じる悪」の役割を背負わされている、
そういう見方もできるわけで、
いったい何を破壊し、何を創造しようとしているのか、
というのが見えてくると、
今まで見えてなかった道が開けるかもしれません。
ページトップへ↑