【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは、「表紙の過去ログ 06年12月〜07年2月分」を紹介をしています。
「いっぱいいっぱいの時は」「愚公山を移す」「棄てるのは…」

表紙過去ログ

    2007年02月:「いっぱいいっぱいの時は…」
    2007年01月:「愚公山を移す」
    2006年12月:「棄てるのは…」
【2007年02月】


◇「いっぱいいっぱいの時は…」◇


いっぱいいっぱいの時に多くを抱え込んでしまうと、
失敗したり、中途半端に終わったり、
イライラしていらぬ衝突を招いてしまったり、
そういうことになりがちです。

それで落ち込むことだって、あるでしょう。

何より、身が持ちませんわな。

まあ、それも「ほどほど」だったらいいのですが、
破壊的なことになってしまったり、
取り返しのつかないことになってしまったり、
あるいは、「いつも」となると、困るかもしれませんね。



いっぱいいっぱいの時でも多くを抱え込むというのは、
それだけ責任感が強かったり、真面目だったり、
いわゆる、「いい人」なのだと思うのですが、

あまりいい結果が得られないのだとしたら、考えものかもしれませんね。

それに、仮にいい結果が得られているとしても、
それで将来、身体を壊したんでは、やっぱり困ります。

悲しすぎますよね。
自分にっとても、周囲の人にとっても。



だから、まず、
自分で、いっぱいいっぱいである状態を意識すること、
それが大事で、

できるなら、
それを誰かに相談するのが良いようですね。



しかし、まあ、
このような性格の方は、そういうの(相談するの)が苦手な場合が多いと思うので、
それができれば苦労しない、って話かもしれません。

でも、これも練習です。

いつも失敗してしまう、
いつも中途半端で終わってしまう、

このままでは身体を壊してしまうかもしれない、
身が持たない、

そうなるよりは、不器用でも、多少不細工でも、
少しずつ、練習した方がよさそうです。
(まずは、やりやすいところでね)

その先には、きっと、成長という宝があるんだから。



こういうのは善い悪いの問題ではなくて、
「これから、どうするか」
「これから、どう生きるか?」
そういう問題なのだと思います。

その選択権は、自分にあります。

誰がどうするもんでもないですな。

人生の主役は、自分自身なんですから。


(そして、今はそれが無理なら、せめて休養した方がいいかもしれません)
(休養もまた、大事な選択肢の一つです)



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【2007年01月】


◇「愚公山を移す」◇

山にトンネルを通そうとすれば、
穴を掘らねばなりません。
(これ、当たり前)

その山が大きければ、
その分、一生懸命、穴を掘らねばならんでしょう。


穴を掘らにゃあならんのに、
畑を耕していても、
そりゃ、トンネルは開通しません。
(これ、当たり前)


畑も耕さずに穴を掘っていたら、愚公だと笑われるかもしれませんが、
トンネルを開通させるには、穴を掘らなきゃしょうがない。


「愚公山を移す」

山を移すのだって、同じこと。
愚公が平らにしようとしなければ、山はどうにもなりません。

愚公を指差して笑っていても、山は動かんのです。


そして、

>ずっと事業を続けていればいつか必ず作業は終わる


何事も、着手しないと始まらないし、
やり遂げなければ、終わりません。



関連:「言葉:愚公山を移す」


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【2006年12月】


◇「棄てるのは…」◇  日記より抜粋



棄てるのは、何でしょうか?

それは、命でしょうか?



ああ、別に、「命を大切にしましょう」なんて、安っぽい(というと失礼なんでしょうけども)スローガンを読み上げるつもりはねぇでやんす。

「死ぬ気になれば何でもできる」というのも――それはすごく意味がある言葉だとは思うんですが――追い詰められている時は、あまり意味をなさないかもしれません。

(どちらかというと、追い詰められた人間が、そこからターンして、そいでもって、後から初めて悟るような類のものかもしれません。後で、そう思うものでしょう)

――と、また前置きが長くなりました。



棄てるものは何か? と考え出すと、命より先に棄ててもよさそうなものがたくさんあるかもしれませんね。

学校、会社、サークル、何らかの集団、
友達、
先輩・後輩、
上司、
集団の構成員、
それらの、しがらみ、
親、
親戚、


え? 棄てるなって?

まあ、いいじゃありませんか(笑

え? 笑いごとじゃない?

スミマセン。



あっ、でも、上のものは棄てちゃいけないって思ってます?

うん、まあ、ある部分は、そうかもしれません。

棄てないほうが、いいとは思います。

そうできれば、その方がいいでしょう。
棄てないに越したことはないかもしれません。

でも、私は、場合によっては棄ててもいいと思っています。

薄情ですか?



例えば、

会社や学校に行きましょう、
行かなければならない!
(場合によっては、何としてでも行け?)

スローガンはそうです。

行けるなら、行った方がいいと、この、不真面目な私も、そう思います。

でも、死んでも行けとは、思いません。

むしろ、死ぬくらいなら、行かないでほしいです。


学校や会社って、死を賭して、行くべきところでしょうか?

(まあ、中には、死を賭して業務にあたる人はいると思います。でもそれは、死を覚悟してでもやるべきことがあるということであって――しかも、それは、そう本人が、硬く決意しているのであって――無理やり行ってるのではないと思います)


でも、別に、学校や会社に行かないことで、物事が好転すると言ってるのではないですよ。

悲しいかな、あまり変わらんでしょう。

ということは、行っても、行かなくても、あまり変わらんのです。
たぶん、少しの間、体裁が整うくらいのもんです。

(ああ、でも、ストレスや苦痛は蓄積されるかもしれませんね)


だけど、休むことにはひとつ、意味があると思います。

それは休養になります。

休むんだから当たり前?

その通りです。

休むからこそ、休養になるんです。


では、それですべてが解決するか?

悲しいかな、解決しないと思います。

こういう答えも、残酷ですよね。
でも、そうなんです。


速く走れるようになりたいと思っている人が、画を描いていても速く走れないように、
身体を強くしたい人が、本を読んでいても変わらないように、
ある分野の技術を会得したい人が、他のことをしていても会得できないように、
外傷を負っている人に、かぜ薬を渡しても何ら効果がないように、

「それ」を問題にしている人は、「それ」に対処しないことには、どうにもならんでしょう。

これが自然界の法則、掟です。
(まあ、他のことが助けになることはありますけどね)



では、だから、「それ」に今すぐ対処しないといけないか?

私は必ずしも、そうだとは思いません。

だって、対処できなくて、悩んで、疲弊してるんでしょ。
対処できないんなら、する必要もないでしょう。


私が自分の人生で学んだ、ひとつの教訓は、「失敗する時というのは、『できない』ことをしようとする時だ」ということです。

確かに、不可能に挑戦して、それを突破しなければならないような時もあるんでしょうけども、そんなことが人生で、そう何度もあるはずがありません。

だいたい、「できない」ことをすると、失敗するもんです。

いや、別に、失敗することが悪いというのではないですよ。
ただ、「できないんなら、する必要もない」ということです。

だって、しょうがないじゃないですか、
今は、できないんだから。


だから、休むことが大切になるんです。
十分に休んで、「余力」が出てくるのを待つんです。
(余力のない状態で、チャレンジなんかできませんからね)


「余力」が出て来そうにない、というのはあるかもしれません。
そう思える時って、ありますよね。

何をしてもうまくいきそうにない、
回復しそうにない、
ずっと、このままであるような気がする、

そう思える時はあると思います。

だから、何もしないで休んだらいいと思います。
(考えることができない時は、考えることもなしに、休んでいいと思います)


私は世の中に魔法のようなものはないと思っていますが――その割に神秘的なものは好きですが、ともかく――不思議なことに、まるで魔法のように、休めば、「余力」は出てくるもんです。

ホント、不思議です。

その程度は、保証できません。
いつ頃出るかも、保証できません。

でも、いつか、少しぐらいは、「余力」は出てくるもんですよ。
不思議なことに。

(この魔法は、医者や科学者も認めるところではないでしょうか)



で、その「余力」を十分に蓄えてこそ、各人の「それ」と勝負できるってもんです。
(チャレンジはそれからですよ)


きっと、「それ」と向かい合って、勝負せんことには、なんともならないんでしょう。
(問題となっている「それ」は、いつまでもそこにあるんだから)

しかし、だいたい、勝負すべき「それ」が何なのかも、分からないことが多いですよ。
特に、疲弊している時は。



私は、「それ」を問題にしている人は、「それ」が何であれ、「それ」と勝負しないことには、何ともならないと思っている人間です。

でも、「それ」と向かい合うぐらいの「余力」が蓄えられるまでは、休んだほうがいいと思う人間でもあります。

ここに、休養することの意味があるんです。
待つ意味があるんです。



最初の言葉に戻ります。


棄てるものは何か?

何を棄てるべきか?


昔の武士は、死を賭して戦いましたが、これは、死(あるいは、命)を賭けることを美化したものではありません。
ただ、その各人が、死を賭けるだけの、大切なものを持っていて、それを知っていたというだけのことです。(そう思います)

現代を生きる我々は、何を「本分」とし、命懸けでやっていいか、分かりません。知りません。

だから、せめて、命を懸けてもいいと思うような、自分の「本分」が見つかるまでは、不細工に生きたり、時には休んでもいいと思います。



因みに、今、私が強く思うのは、

棄てるべきは、もう、いろんなタイプの人の中にできる、
それぞれの硬化したパターン――はじめ幼い自分を助けてくれるものの、後にはそれでは成り立たなくなる、そんなパターン、生き方のパターン、囚われ――だと思っています。

(それはいずれ紹介することになるでしょう)




つまるところ、命は懸けるものであって、棄てるものではないと思います。

(そして、大切な何かのために命を懸けることは、それ以外の何かを棄てることなのかもしれません)










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