防衛機制―守護者と壁の役割―
★『終わりに』★
今まで散々書いてきたように、防衛機制は、過負荷を避けるためのメカニズムです。
それを正面から受けてしまうと壊れてしまいそうなので、その、本質的な破滅を回避しようという、人間に生まれながらに備わったメカニズム。
(呼吸したり、眠ったり、ある意味、そういうものと同じ、本能的なメカニズムなのでしょう)
生まれながらに持っているので、それから逃げることはできず、また必要で、逃げたり無かったことにするというよりは、それを経験し、やがて卒業していくといったものだと思われます。
それは、まだ幼く脆い(もろい)我々を守ってくれる守護者であり、そして、やがて越えなければならない、壁でもあります。
真に成熟した人間になろうとする時、それを乗り越えねばならぬ、そんな壁・境界なのかもしれません。
我々は一人ひとり、自分というものを持っています。
そして、自分というものには、個性や限界も含まれるのでしょう。
ある事象に対し、耐えられる人、耐えられない人、そういう個性や個人の限界もある。
我々は、そんな中で勝負しなければならなくなったりします。
防衛機制は、ある時はよい面を発揮し、ある時は悪い面を発揮する。
ある時は、限界を迎えないように守ってくれ、別のある時は、事実を隠し、我々を無自覚な子供にしてしまいます。
人によって、限界は違います。その質も、量も、違う。
したがって、当たり前に、表面に現れる、防衛機制のカタチ、程度も違ってきます。
でも、それで当たり前。
なんせ、人は人類という種としては同じですが、個人としては同じではないですからね。
強い人、弱い人、これは当たり前にいるでしょう。
そして、それは場合場合、その時その時で、流動的です。
個人差もあります。
また、同じ人でも、強い時もあれば、弱い時もあります。
だいたいが、何かに強い人は別の何かには弱かったりするし、何かに弱い人は別の何かには強かったりする。
だから、何がよいのか悪いのかなんて、実はぶった切れるものではありません。
善し悪しは、場合場合で、変わってくる。
当たり前に、人によって、程度やカタチは違うし、それは自然なこと。
また、その人によって、いいことも悪いことも、素晴らしいことも駄目なことも、耐量や限界も、当たり前に違うんです。
(こういうことは、忘れがちですけどね)
そんな中で、防衛機制のようなものが我々を守ってくれて、また、問題を生んだりもして、そして、やがて、乗り越えねばならなくなったりもします。
繰り返しますが、それは、大きな傾向としては同じですが、その質も、量も、カタチも、当たり前に違ったりします。
だから、模範解答なんてないんです。
だから、冒険や対決なんです。
だから、価値があるんです。
(その人その人にとって、かけがえのない価値があるんですね)
大事なことは、自分の冒険をすること、
自分にとって価値ある宝を見出すこと、
自身で悟ること、
そして、自分の神話を創造することです。
(あるいは、それらを邪魔させないことも含まれるでしょうか)
その中で、自分にとっての助けも見つかるだろうし、自分の武器(タイプ)を見出し、鍛えることになるでしょう。
もっとも、冒険というだけあって、それは危うく険しい道ですけどね。
で、ただ、ひとつ言えることは、成したものだけが、得られるということです。
(それさえ踏まえていれば、してもしなくてもいいと思います。すべては自身の意志のままに…)
すべては自然、
世の理(ことわり)としての、自然、
自分の中にある、機能としての、自然。
自然、それはコントロールされない、不変のもの。
それに接する、人が、変容するのみ。
自然、偽らざる事実、
不動の法則、
そこにあるもの。
(但し、それを見失うことも、また多い)
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