【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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ここでは、読み物を書いています。
このページは、「You are OK、I am OK」。

読み物


『You are OK、I am OK』




人は疲れた時、どうも自分を責めてしまう傾向があるようです。

(人によっては、他者を責めることもありますが)


◆「頑張りが足りない?」


頑張りが足りない?

むしろ頑張りすぎかも。

頑張り足りない気持ちや、頑張りたい気持ちがあるとすれば、それは今は見逃している事がある――ということかもしれません。

今、知っているものについては頑張っていて――それはもう、頑張りすぎるくらい頑張っていて――でも、今は見逃している事については…

見逃しているものとは、「今は生きていない生き方」といってもいいでしょうか。
(そういう意味で、「」と関連がありそうです)

今の生き方では頑張っていて、今は知らない、今は生きていない生き方では…

まあ、当たり前、誰でもそうですよね。今はまだ、そういう生き方とは、出会ってませんから。


そういう意味で、今の状態で「頑張りが足りない」という事はなくて(むしろ頑張りすぎている場合の方が多くて)、しかし、今は見逃している「自分の生き方」、今は気づいていない「自分の幸せ」、そんな自分だけのライフスタイル、<物まねでも借り物でもない、自分の生き方――そういうものとの出会いが、望まれているのかもしれません。

つまり、自分の知らないどこかで、「希望」があるって事でもあります。



生き方とか、幸せとか、別に世間一般のそれが駄目というのではないですが、それにしたって、自分用にしないと、当たり前に、居心地はよくないようです。(なんせ、自分のそれではないですから)

そういうわけで、何にしたって、「自分用」とか「自分流」とか、個性的に生きることになるわけです。(別に、偉人のような生き方をしなくても、ですね)

他と違うことをするのが個性的というのではないです。自分に合った生き方をするのが個性的な生き方だと思います。

イスだって、ベッドだって、自分に合ったものでないと、居心地は悪いですもんね。

生き方だって、そうです。

社会に適応するのが人生の課題の半分だとすれば、自分に適応するのも、人生の課題の半分です。

そういう意味で、心の奥の方の自分――もうひとりの自分――の声に気づいた人は、今までにない自分の一面や、今まで生きていない生き方、そういうものとの出会いが望まれているのかもしれません。

そこにちゃんと希望がありそうです。



◆「心が弱い? 自分は弱い?」


心が弱い? 自分は弱い?

弱っている状態、ってのは、あるかもしれません。悩んでいたり、疲れていたりするんですから、当たり前のような気もします。

そりゃ、弱りますよね。それに、疲弊して弱っていたら、心が弱いとか、自分は弱いとか、そう思うのも当然ですよね。

でも、それは、本質的に、心が弱いとか、自分は弱いとか、そういうのとは、ちょっと違うようです。

精神的に、身体的に、しんどいのは間違いないわけで、そういう意味で、弱っているとは思います。

でも、本質的に弱いのとは、違うようです。

むしろ、発展の可能性があるから、悩んでいるのではないでしょうか。

つまり、どこかに進むべき道、生きるべき生き方が、あるという事です。



だいたい、弱いのが悪い、ってことだけは、ないように思います。

人間、どこかで、弱い部分は持っているものです。弱くない人なんて、まあ、いないでしょう。

私はまったく強い人である、そう言う人は、「弱さを知る」という部分が欠けているわけで、そういう部分が弱いことになります。(禅問答みたいですか?)


人間、弱い部分も、強い部分も、当たり前に持っています。

ユングのタイプ論でいうと、思考タイプの人は感情機能が弱いし、感情タイプの人は思考機能が弱いし、感覚タイプの人は直観機能が弱いし、直観タイプの人は感覚機能が弱いです。

(〜の傾向が強い人は、他の〜の傾向が弱くなります)

それに、内向的な人は、外向的なことが苦手だし(弱いし)、外向的な人は、内向的なことが苦手(弱い)ですね。

そういう風に、当たり前に、強い部分があれば、弱い部分もあるし、持っているものがあれば、持ってないものもあります。


世の万物は、こういう風に、だいたい二面性(多面性)を持っています。

そういうわけで、弱い部分があることが悪いことでもないし、ひとつ弱い部分があるから、その人がまったく弱いとはいえないようです。



しかし、こういうことを考えていくと、「自分の弱い部分を受け容れていく」ということは、大事かもしれません。

自分の心からのメッセージがあるとするならば、それは「弱いことを嘆け」ではなくて、「まず、弱い部分を受け容れろ」かもしれません。


それに、弱い部分があるという現実を受け容れ、それを克服するにしろ、自分のこととして引き受けるにしろ、前述のように、弱い部分があるということは、当たり前であって、それが悪いってことだけは、ないですね。


人よりストレスに弱い、音に弱い、光に弱い、人ごみに弱い、〜に弱い、いろいろあると思いますが、それも人それぞれ、タイプであり、個性でしょう。


「私は〜である」、ただそれだけ。
それ以上でも、それ以下でもないです。


【追記】

とはいえ、今の世の中では生きにくい、そういう事はあるかもしれません。

多くの人が持っているものが、その人にはない時、そういう時、残酷なほどに理解が得られないことは、残念ながら、あります。
悲しいかな、あります。

でもですね、それで人間の尊厳まで奪われることはないですよ。

悪い事があるとすれば、人のことを簡単に笑う、ってことかもしれません。



それに、人が変わろうとする時には、だいたい、その前段階で弱る傾向があります。

今まで勝っていたものが弱って、そこから変わり始めるとか…

ある意味、今まで勝ち続けていたものが負けることで、やっと変わり始めるとか…

(象徴的に)死ぬことで、生まれ変わるとか…

「死と再生」ですね。


まあ、自分のことにしろ、人との関係にしろ、問題がなければ変わろうとは思わないし、変わる必要もないわけで、ということは、ガ〜ンと落ち込んだり、心が折れたり、深く悲しんだり、怒ったり、悔やんだり、唇を噛んだり、泣いたり、そんなことでもなければ、変わりやしないようです。

で、たとえ落ち込もうと、心が折れようと、悲しもうと、怒ろうと、悔やもうと、唇を噛もうと、泣こうと、そのあとに、いいように変容すればいい話です。

何かを創造しようって時には、「生みの苦しみ」ってやつが付きまとうものかもしれませんね。

これもひとつの、「通過儀礼」でしょうか。



◆「性格が悪い?」


性格が悪い?

実は、私、性格がまったくいい人と、出会った事がありません。

やさしい人には多く出会いました。でも、そういう人で、そのやさしさを体現できる人は殆どいなかったですね。

誰かにとっていい人、そういう人にも多く出会いました。でも、そういう時、他の誰かにとってはいい人ではない事が、殆どだったりします。

(確かに、多くの人にとってはいい人かもしれません。でも、少数の人にとってはいい人ではなかったりします。中には、少数の人にはひどい人、そういう人もいました。多くの人には人気者、少数の人にはひどい人、とかね)


性格がまったくいい人、誰にとってもいい人である人、もし仮に、そういう人がいたとすれば、おそらく、自分の内面、心の奥の自分にとっては、いい性格でも、いい人でもないんでしょう。

(無意識に眠る、もう一人の自分は、むしろ怒っているかもしれません。もっと、ワタシを大事にしろと。ワ・タ・シ・を、ですね)



人間には、当たり前に、人それぞれの性格・タイプがあります。

で、それって、簡単に善悪で分けられるもんでもないです。
(とはいえ、自分と相反するタイプ>――いわゆる劣等機能――に関することは、否定的に思うのも、人の常ですが)

善い悪い、どちらにせよ、片方しかないということは、当たり前に、片手落ちであって、欠けていることになります。

逆に言えば、善い悪い、両方あるからいいってことになります。

まあ、両方あるから補えるわけです。



というわけで、ある意味、いい性格も悪い性格もなくて、そこにあるのは、「それぞれの、わたしの性格」、それだけですね。
(それ以上でも、それ以下でもなくて、そこには確かに私がいる、そういう事です)

まあ、それと、どう付き合っていくのかな? ってことですかね。



◆「幸せの場所、幸せな場所」


「みんな一緒」や「みんなと同じ」、「みんなが思う幸せ」、そんな中で生きていると、なかなか「本当の自分」とか「もう一人の自分」とか、そういうものとは、出会えないのかもしれません。



まあ、「みんな一緒」や「みんなと同じ」、「みんなが思う幸せ」、そんな中で生きられる人はいいんですが、そうでない人は、まあ、そうではないんでしょう。

それが善い悪いって話ではないです。

どちらかというと、「本当の自分」とか「もう一人の自分」とか、そういうのが強いだけ。

善い悪いとか、そういうんじゃなくって、そこに確かに、自分ってものがあるだけ、ただ、それだけ。


「みんな一緒」や「みんなと同じ」、「みんなが思う幸せ」が前提の、今の世の中で暮らしていくには、しんどいかもしれませんが、ともかく、自分ってものがそこにあるのは確かで、自分ってものが存在していいのも、確かです。


「みんなが思う幸せ」の中に「自分の幸せ」がなくっても、ちょっと離れた所には、ちゃんと自分の幸せがあるもんです。

まあ、今はちょっと、見逃しているだけです。



「今の世界では生きにくい」ってことはあるでしょう。ある意味、誰だってあります。
(世界とは、ある人にとっては、家だったり、会社だったり、学校だったり、ある集まりだったり、町の中だったりするでしょうか)

でもですね、それも程度問題、「生きにくい」と言いながら、それでも適応して生きていける人もいれば、「生きにくい」とは口に出さないけど、息苦しくて、今にも死にそうになっている人もいます。

でも、これも、どっちが善い悪いって話ではないです。

ただ、それだけ。

そして、それでいいんです。

確かに、後者はしんどいですが、それが悪いということではなくて、今生きている世界に幸せがなくても、みんなと同じところに幸せがなくても、ちゃんと、どこかに、幸せがあるもんです。

居場所だってあるでしょう。

ただ、今は出会ってないか、見逃しているだけ。

そして、「こうしなければならない」とか「こうあらねばならない」とか、そういう風にこだわっている場合は、特に、そういうものには気づきにくいのかもしれません。


まあ、幸せがどこにもない、って事だけはなさそうです。

まだ出会ってないか、今は見逃しているか、気づいてないか、それだけです。

あるいは、「自分で限定している世界にはない」って事ですかね。
(自分で限定している世界の外には、あるかもしれません)



そういう意味で、「どうしても向いてない」とか「どうしてもできない」とか、それが悪いって事はなくて、別のどこかに、「向いていること」とか「できること」とか、そういうものがあるって事です。

それが、みんなと同じ場所にはないだけです。

本質的に無いって事ではないですね。

(あるいは、自分で限定している世界には無くて、その埒外(らちがい)にあるんでしょう)



人とは違う幸せ、親とは違う幸せ、友達とは違う幸せ、みんなとは違う幸せ、今まで思っていたのとは違う幸せ、そこへ行くには、やっぱりエネルギーが必要で、腹をくくったり、開き直ったり、そういう事も必要なようです。

で、そういう力を溜めるために、しっかり踏み切るために、悩んだり、悲しんだりするんですね。

何もないと、腹をくくったり、開き直ったりしませんから。

何もないと、今までの生き方を変えることもありませんから。


そう考えると、悩みってやつも、そうそう悪いだけのもんではなさそうです。

ちゃんと「希望」はありそうですね。

(「ここは私の居場所ではない」、そう宣言するのは、なかなかどうして決意のいる事です)


【追記】

別に、かわったことをしましょう、っていうんじゃないです。特別なことをしましょう、っていうんでもないです。

それが一般的なことであれ、そうでないことであれ、自分らしく生きましょう、って事です。


そして、自分らしい事というのは、たいてい意識できていません。

そういうのは、だいたい心の奥の方にありますから、当たり前に意識できません。

だから、自我実現といわずに、自己実現と言います。

自我が頑張るのをやめた時、自己は何かを教えてくれます。



◆「人間の尊厳」


人間には出来ない事があります。

いや、人間みんなの話ではないです。みんなが同じことを出来ない、という話ではないです。

ひとりの人間には、当たり前に(出来る事と)出来ない事があるんです。それぞれの人間には、当たり前に、それぞれ(出来る事と)出来ない事があります。



それはみんなも出来ないような事かもしれません。それは出来なくても困らないようなものかもしれません。(難解な数学の問題? 絶対音感? 見たものを正確に記憶すること?)

でも、当たり前に、出来ない事はあります。


で、それが、みんなにとっては当たり前に出来る事である時、それが出来ないなんて考えもしないようなものである時、ある人は笑います。残酷なくらい笑います。

ある人は怒ります。何故出来ないの? と怒ります。残酷なくらい怒ります。

ある人は叱咤激励します。やれるはずだと言います。頑張れと言います。残酷なくらい頑張れと言います。


でも、悲しいかな、出来ない事はあります。

それが、人にとっては当たり前に出来るものであろうと、それが出来ないなんて考えられない事であろうと、確かにあるんです。

努力では何ともならないような、根本的に無理なこと、どうしても出来ない事があるんです。



こういう場面に直面した時、人は、なかなかそういう事を受け容れられません。

それもそのはず、世の中の多くの人は――あるいは、殆どの人は――当たり前に、それをやるんです。当たり前に、それが出来るんです。

だから、受け容れられません。それが根本的に出来ないなんて、考えられません。


だから、無理をします。無理をしてでも、それが出来るようになろうと努力します。

場合によっては、血反吐を吐くくらい努力します。あるいは、血反吐を吐くくらい努力させられます。

でも、出来ないんです。

なぜなら、根本的に無理なんです。それは出来ないんです。それは自分ではないんです。


でも、みんなは当たり前にそれが出来ますから、やっぱり、どうにかしようとします。

「みんな」と同じ枠に入ろうとします。

で、傷つくんですね。

そうやって傷ついて、はみ出たものが死んでいくんです。

そうやって、血が流れるんです。



我々の世代が受けた教育では、「みんな」が大前提でした。

「みんな」と同じになるように、努力します。「みんな」が出来ることを、「みんな」が出来るように、努力するんです。

そりゃ、出来るに越したことはないですよ。実際出来る人も多いです。(いや、出来る人の方が殆どかもしれません)

でもね、やっぱり、根本的に出来ないことは、誰しもあるんです。

実際無理なんです。



別に、サボっているわけではないです。

努力を怠っているわけでもないです。

ただ、それが出来ないんです。根本的に、無理なんです。


そして、それが出来るはずだと思い込むことで、傷ついていくんです。

血が流れていくんです。



でも、でもですね、それで人間の尊厳が損なわれるなんて事はないですよ。

絶対ないです。

本当です。


それが出来なくても、根本的に無理でも、
人間の尊厳が損なわれるなんて事は、絶対にないです。

あってはならないんです。


確かに、それが出来ないかもしれない、それは根本的に無理なことかもしれない、でも、でもですね、「ただ、それだけ」です。
「ただ、それだけ」なんです。

それ以上でも、それ以下でもないです。

「ただ、それだけ」

そして、それでいいんです。

それでいいんです。



存在していいんです。

生きていいんです。

拳を振り上げて、生きるって事を感じていいんです。

泣いたっていいんです。

叫んでもいいんです。

そうやって、生きていることを、実感していいんです。


そこには、ちゃんと意味があって、そこには、ちゃんと、人間の尊厳があるんです。


それは私が保証します。

私の保証なんて、世間的には、クソの役にも立ちません。

でも、敢えて、保証します。


そこにいていいんです。

生きていいんです。

そこに意味があって、人間の尊厳があるんです。



そこにいていいんです。

ちゃんと生きていいんです。

存在していいんです。





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