【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは、E.H.エリクソンの「ライフサイクル、その完結」より、紹介をします。
ここでは、「老年期とコミュニティ」「老年的超越」について。

『老年期とコミュニティ、老年的超越』




「老年期とコミュニティ」

我々は老人たちをリサイクルすることに対しては充分なことをしてはいない、とジョウン・エリクソンは言う。老齢の者を保護したり補助したりするものは、この社会には意外と少ないと。

彼女自身が最終段階に進むにつれ、そういうことに直面するようになった。歴史的には、長く生きた老人は称賛され、崇敬すらされた。なのに現代では、嘲り、侮辱したり、嫌悪することさえある。身体的に衰えていると、思考力や記憶力まで衰えていると決めつけられることさえある。また、それに反論することは難しいというのです。

自分自身を知ることが真の英知であり、自分自身を知ることが自分の耳と目を開かせるということがこれまで学んできたことであったが、しかし、人は、このたった一つの知識だけで死の扉への最後の長旅に充分な準備をすることができるだろうか?

(P171)

また、老人たちは果たして、この社会にちゃんと組み込まれているのだろうか?


現在、様々なケア施設やサポート施設が作られている。それは一方では進歩であり、と同時に、いろんな問題をはらんでいるようです。料金やコストの問題もそうでしょう。職員の過酷さと、それ故の入れ代わりの激しさもある。それは不慣れさにもつながり、ミスを誘発するケースまである。

その中心にいるのは、もちろん老人たちです。彼らのために、それはある。老人たちは、何らかの問題を抱えています。車イスや歩行器、ステッキが必要な場合もある。ひとりでは食事をとれない場合もあるでしょう。不安げだったり、無気力だったりするかもしれない。

「いくらよく見ても、こわれやすいコミュニティである」と、ジョアン・エリクソンは言う。その円滑な運営は、常に脅かされている。

「何かがひどく間違っている」とも、本には書かれています。この世界から外され、遠く離れた施設に送り込まれることが必要だったのか?

その一つの解決策として、本では「誰でも利用できる素敵で安全な公園を置くこと」が挙げられている。その真ん中には老人施設があり、可能ならば、訪ねてきた人と散歩したり、語らったりできる空間として機能する。ただその説明の前には、「恐らく夢に過ぎないが」と書かれていた。


90歳を越えた人、第九段階に入った人のモデルは、なかなか身近にはないでしょう。なので、どのように老いの道を歩んでいいのか、イメージしにくいし、実際のところ分からない。

そこで本では、90歳を越えた老人同士が集まり、経験を比較し合ったり、楽しい計画を立てることを勧めている。無理せずに若者たちとの付き合いを弱め、同じような者同士、いろんなものを共有していく。

老いの道を歩むこと、次の扉を開くことは、孤独な旅なのだろうか? 孤独の谷を越える作業なのだろうか? 仲間はいないのだろうか? 共に谷を渡ることは、できないのだろうか? そこに何らかの笑顔は、見出せないのだろうか?


老いは、多くのものを奪うでしょう。簡単だったことが、困難になる。ささいなことが、恐怖に変わるかもしれません。言うことを聞かない肉体、それを知ることで生じる落ち込みも、襲ってくるでしょう。

社会生活を退いた人たちは、何を気晴らしや楽しみとし、どこに精神や感覚の育成を見出すだろう?

そのひとつは、自然の美やうつろいゆく季節だという。また、ある人には、芸術かもしれない。別の人は、宗教に救いを求めるかもしれません。家族やホスピスが、助けてくれる場合だってある。

今思えば、日本の比較的近い先人たちには、身近な自然や季節感がありました。季節は行事と結びつき、毎年毎年、やってくる。趣味を持つ人は、芸術に接したでしょう。また、当時の日本には――地蔵、神社、お寺など――宗教が身近にあった。それらを生活の一部として、持っていました。そこに、老人と子どもたちのつながりさえあった。


ジョウン・エリクソンは問いかける。「老人と関係を結ぶために有効な特別なアプローチは何だろう?」

それは平易に言えば、任せられる人にゆだねること。理解があり、有能で、トレーニングを受けた、経験豊富な人の「手の中に」その問題をゆだねる。

そしてまさに「手」が意味を持つと、本には書いてある。人の手を注意深く意識的に用いることが、孤独感や見捨てられ感を持つ患者への世話の中で、我々の人生をより意味深いものにする。「手は、人が生きていく中で、生き生きとした関わり合いを持つために不可欠なものである」(P178)


マッサージは身体のみならず、心をもリフレッシュし落ち着きをもたらすと、ジョウン・エリクソンは確信している。健康維持(メンテナンス)のための接触(タッチ)とコミュニケーションのための接触との区別を心に留める必要があるとも主張します。

後者は、人間関係のための接触。手を握る、背中や肩をさするなどの行為。人間として扱われているという感じを残すもの。

手を握る、さするなどの行為の効用は、最近、ずいぶんと注目されるようになりましたね。「タッピングタッチ」など、触れることを利用したセラピーがいろいろと出ているようです。





「老年的超越」


最終章ではまず、スウェーデン大学のラルス・トルンスタム教授らが提起した「老年的超越」(gerotranscendence)という言葉の定義が紹介されています。(P181)


人間の加齢、特に老年期に入っていく過程は、老年的超越にいたる潜在的可能性を含んでいる。老年的超越とは、高次の視点への移行であり、物質的・合理的視点から、より神秘的・超越的な視点への移行である。また、通常はこの移行とともに、人生の満足感が増加する。

ニストロムとアンデルソン-セゲステンは末期患者の研究において、ある種の患者の中に心の平穏を見出している。そしてこの状態は、多くの点で老年的超越の概念に近似しているという。しかも、宗教的信念や行為とは関係なく、平穏な状態に達したり、達しなかったりする。

ユングの個性化過程の理論では、老年的超越とは成熟と英知に向かう自然な過程の最終段階とみなされる。この時、超越に達した個人は、宇宙の精神に触れたり、時間と空間と生と死を再定義したり、自己の再定義を体験します。そして、物質的な事柄への関心は衰退し、孤独な瞑想の必要性の増大を体験するのだという。

例えば、90歳を超えた人にとっての時間は、今現在や次の1週間といった、限定されたものになると。また空間も、身体能力によって穏やかに狭まっていく。死は避けられないもので、親しくなる。自己の感覚は広がり、他者をも包含するものとなる。


「超越」とは、ふつうに考えられる程度をはるかに超えた状態。限界や枠を超え、一般からはかけ離れた境地にいたる。つまり、次元が違う。なので一般的な生活において使われることはあまりなく、むしろ、宗教的な領域においてよく使用されます。


東洋における賢明な老人は、地域社会の喧騒から離れ、山中や人里離れた場所に隠遁した。それは一般から見れば寂しいものであったかもしれませんが、決して自尊心を傷つけるものではない。周囲もそれを世話し、尊敬さえする。

おそらく老人は隠遁と孤独の中で初めて自分のあり方についてゆっくりと考えることができる場を見出すのであろうと、ジョウン・エリクソンは考えています。他に方法があるだろうか? とまで言う。その段階では競争は過去のものとなり、むしろ急ぐことや張りつめていることから自分を解放することが、義務となります。


引退にも二通りあって、自ら選ぶ引退もあれば、強制的に引退させられる場合もある。前者の場合は、生き生きとした関わり合いの欠如を必ずしも意味するものではないという。なぜなら、携わらないが関与し続けるということが、あり得るから。この点についてエリック・エリクソンは、「深く関わりを持ちつつ、関わらないこと」と言っていたという。また、ジョウンは、これこそが物質的・合理的視点からの移行を示しているのではないかという。

河合隼雄さんは絆について触れたコラムで、「強い絆よりも、深い絆」というようなことを言っておられた。後者は、絆の糸をずっと長くして深めたような状態であるという。故に、相手は自由に、そして遠くにでも動き回ることができ、同時に、関係はつながっていると(「Q43 強い絆と深い絆/こころの子育て」参照)。理想の引退とは、このような状態に近いのかもしれません。


しかし、多くの人は引退を余儀なくされる。他に選択肢がないから、やむを得ず引退します。まず、身体の衰えが、外界や他者との接触を減少させるでしょう。衰えに対する情緒的・心理的反応もまた、それに拍車をかける。社会から隔離された場所に追いやられることも、あるかもしれない。

同じ介護施設に入るにしても、自分でそれを選んだのか、それとも強制的に入れられたのか、その相違は大きいという。また、身体を悪くして入所した場合なら、仮に身体が回復することがあれば、また違った選択をすることができるかもしれない。しかし、強制的な入所で超越した状態に達するのは、まったく不可能だとは言わないものの、非常に難しいようです。


老年期の自己感覚というものを、我々は、そして社会は、どう捉えているだろうか? 若い頃は、希望ある未来に目を向けます。けれど、老年期に与えられたモデルは、手放すこと。そこに新しい役割を探すこと、新しい自己を探すという仕事はなかった。この謝った概念、否認の促進が、正常な発達を行き詰らせるのだという。

では、老年期の正常な精神発達とは、どのようなものだろう? 老いてゆく自分に幻滅せずに、直面することはできるだろうか? 謙譲(ひかえめにすること)という英知が奨励されることは、ほとんどない。完璧を求めたり、期待に応えようとして、創造的な活動や創造的想像にほれ込むことも、しり込みしてしまう。

「本当は、我々はもっともっと人間的になるように、呼びかけられている」と、本には綴られています。

生まれた時、我々は、我々に与えられたままのものである。そして、壮年期までに、次のことを学びます。「我々は、我々の人生を全うさせるために、他者に与えることを求められていることを」(P186)。これによって、我々がこの世を去る時、我々が与えてきたものを体現する存在に、我々自身がなることができる。

死ぬ時になってようやく、我々は「なるべきそれ」になれると。

我々は何らかの源泉から生まれ、この世で生き、生きることで何かを生みだし、それをお土産として、生まれた源泉に帰ってゆく。人の一生というのは、そういう仕事だと。


老年学者が「老年的超越」という用語を使う時でも、彼らはそれを明確に明細化して述べようとはしない。なので、老人が老年期の危機の中で何を獲得し、遺していくか? そういうことには触れられません。

そんな中で、ジョウン・エリクソンは発見した。

もし「トランセンデンス」(超越)が活性化されて「トランセンダンス」(transcendance)になれば、「超越」はまさに息づき始めるということだ。

我々の人生には、失調的な側面がまとわりつきます。それが成長や向上に負担をかけ、成長させないように、向上しないようにと働く。この困難な課題に、超越が挑むようになるという。

それは、限界を超えること。人間の域を、文字通り、超越すること。しかし、どうやって、そんな困難な仕事が成し遂げられるというのだろうか?

ジョウンはそれに、「実際に行動し具体的なものを作ることによってのみ、我々はその域に達するだろう」と答えています(P187)。それは死の恐怖を乗り越える、大きな跳躍。そしてやがて、未知の世界へと、つなげてくれる。

これに求められるものは何か? それは、誠実で揺らぐことのない謙譲だという。


「transcendance」は造語。transcendence と共に、超越という意味を持つ。その語尾を「dance」にすることで、あるニュアンスをつけ加えています。それは、躍動感をあらわす。また、魂を揺らすような、芸術性をあらわす。人生は偉大なダンスだという、意味合いまでありそうです。

ジョウン自身、自分を使い古しになったような存在に感じていた時期があった。それがある日突然に、彼女の中に豊かさが出現し、体の隅々までが目覚めたといいます。


老いるというのは偉大な特権だと、彼女は言う。回想は範囲を広げ、リアルさも増してくる。時には過去に打ちのめされることもあるけれど、それさえ第九段階では自然なこと。つまらないものも転がっていますが、それでも一歩一歩、我々を高みへと引き上げてくれる。そして歩むごとに、高みに達するごとに、その風景は広がり、雄大な姿を見せてくれるのです。


それは確かに、楽しいことばかりではない。まず、体へのケアが必要。背負う荷物にも、注意を払わねばなりません。負荷が多いと、登れない。トレーニングも必要。道を照らす明かりも必要になるでしょう。

それらの意味するところは、何だろうか?

我々は道筋を異にするものの、同じような高みを目指して登っているのかもしれません。ライフサイクルの同調的衝動は、山を登らせようとする。あるいは、安定を与えてくれる。くじけそうな心を、支えてくれるかもしれません。また、失調的要素は、それを事あるごとに挫こうとする。このふたつの要素が、見えないところで、常に争っているのかもしれません。

我々はこれらふたつに、はさまれている。が、それはまんざら悪いものでもないようです。

葛藤や緊張感が、人を前に進めることもあるのだから。

たぶん、それらなしに、超越も存在しないのでしょう。




それはどんな山なのか?

登り切った時に、

振り返ればそれでいい…




<おわり>








<チェックシート>

・新しい役割に、目を向けられているか?
・新しい自己を、探せているか?





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