【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは、E.H.エリクソンの「ライフサイクル、その完結」より、紹介をします。
ここでは、「学齢前期(遊戯期、幼児期初期、乳児期)」について。

『学齢前期――遊戯期、幼児期初期、乳児期――』



【遊戯期】

遊戯期にある対立命題は、「自主性 vs 罪悪感」(initiative vs. guilt)

自主性とは一般に、自分の判断で行動する態度。自分で考え、何をするのかを選び、(基本的には)他者に頼らず行動すること。ただ、自分本位になり過ぎないために、自分で欲望を統制することも覚えねばなりません。つまり、自律性にも関係してくる。

自主性の萌芽は、もっと幼い時期にもあります。かなり幼い頃でも、ひとり遊びというカタチで、現れる。ただし、乳児はそれに耐えきれないので、急に抱っこしてほしいだとか、甘えることを要求します。こういった時は、自主性の萌芽を尊重しつつ、またその一方で、求めた時には抱いたりあやしたりすることで、情緒の安定に努めます。

もう少し大きくなると、子供はより動けるようになって、いろんなものに触れたり、時には投げたりもします。これは好奇心の現れであり、いろんなものを試している。ということは、このイタズラにも近いことをある程度許容されることで、好奇心、あるいは、子供の意欲が伸びることになります。

ただ、何でもされては大人は困るし、何をしてもいいというのも違う。また、危険なことは避けねばなりません。そこで身近な大人は、困っていることを情緒で訴えます。またこれが、子の自己統制能力を育てることになるという。だんだんと、相手の気持ちをくむということを覚えるのです。(だんだんと、ですが)

ここでちょっとした葛藤が生じます。相手が困るようなことをしたという気持ちと、それをしたいといった好奇心が、ぶつかる。そして好奇心が勝てば――結果として大人を困らせるような――イタズラもするのです。

幼児期初期や遊戯期では、だんだんと養育者を拒否するような言動をとるかもしれません。すなわち、「自分でする」というもの。これによって、失敗もありながら、自分でできることと、援助が必要なこととを、区別できるようになってくる。

こうして子は自分ですることを覚えてゆくのですが、故に、自分がしようとしていたことを養育者に奪われると、怒るようになります。また、しようとはしたけれど失敗してしまい、癇癪を起すことも。でも、そうしながら、自主性を育てているわけです。


(ここからがエリクソンの話になるのですが)

自主性に対し強度の制限がかけられる時、幼い個人の中で成熟しつつある遊びは、想像上の同一化や活動に向かうといいます。自分の判断で行動するということに対し、身近な大人が否定的でありすぎると、幼い子はそのタブーと遊びたいという至極当然な要求の妥協案として、実際ではなくて、空想上で遊ぶことになる。そうせざるを得なくなります。

遊戯期の後には、もっと勤労的な役割を与えられる学童期があり、さらにその後には様々な同一性の可能性を実験する青年期がある。ということは、それらの下地や土台が、遊戯期にはあることになります。

なので、自主性を育てるとか、自主性を身近な大人が許容するとかいうことが、後々に影響を与えることが理解できます。


遊戯期の葛藤の中で得られる人間的強さは、「目的」(purpose)

自分でするということを、幼いながらに、そして不器用ながらにしていくうちに、何かに向かって動き出すことを身につけていく。何事かを実現しようという、前向きの方向性。行為を方向付けるもの。そういったものが、育ってくるわけですね。


自主性と対をなす不協和音に、「制止」(inhibition)があります。

幼い子が自主的に動くことに対する、「やめなさい」がこれにあたるでしょうか。これはこれで必要なことですが、そのバランスというのは考えねばならないのかもしれません。

危険なことにはやめなさいと言うものの、何でもかんでも、やることなすこと、すべてにやめなさいが付きまとえば、どうなるか。そんな状態と、自主性の関係は? そして、その後に生まれるものは?

いろいろと考えることができそうです。

また、何らかの経験か生まれ持った性格などにより、内部に「やめなさい」的なブレーキができてしまうこともあるでしょう。これも、それそのものは悪いとはいえませんが、程度を超えると自主性を阻害してしまい、むしろ制止に傾きすぎてしまうかもしれません。





【幼児期初期】

遊戯期の前には、幼児期があります。そこにある対立命題は、「自律性 vs 恥、疑惑」(autonomy vs. shame,doubt)

そして、その解決から、意志(will)が現れるという。「してもらう」から「する」に、だんだんと移行します。

自律とは、人間の行為が自らの意志によって律せられていること。自分をある程度コントロールできている状態。なので、自律は、自発性だとか自由の実現にも関係します。また、自律の反対のものとして他律があり、こちらは何かに支配されたり隷属されたりする状態。

自律への移行には葛藤が伴うようで、衝動的な わがままが現れたかと思えば、退行したかのような依存も現れたりします。反抗と依存の間で、揺れに揺れるようです。

ただこの揺れは、均衡をもたらすものともとれ、自由な選択と自己抑制の成熟を、共に助ける。

これは大人でもそうですが、人間は自由なだけでも成り立たず、抑制しているだけでも成り立ちません。それを幼い時期に、練習しているんですね。そう考えると、この揺れを一笑したり、困ったものだと、軽く扱うわけにはいきません。むしろ成長に必要なことだと、理解できます。

可能なものを意志的に欲すること、同時に、不可能なものを断念することなどを、揺れながら学ぶ。

この意志と対をなす不協和音として、「強迫性」「衝動性」があるという。

意志とは、自発的で意識的な内的意欲。○○しようという気持ち。それに対して、強迫とは、何かにとらわれ抑制できない状態。また、衝動とは、発作的・本能的に行動してしまうこと、抑えがたい内的な要求。

意志の獲得には、どうしても、このような要素も付随するようです。自然と、付きまとうことになる。

人間である以上、これらの要素は排除しきれるものではありませんが、故に、どう付き合うか、というのが問題になるようですね。完全に排除することはありませんが、それなりにうまく付き合うことが望まれます。





【乳児期】

乳児期の対立命題は、「基本的信頼 vs 基本的不信」(basic trust vs. basic mistrust)。さらにその葛藤から、「希望」(hope)が現れます。

希望は純粋な未来であると、エリクソンは言います。逆に、発達初期から不信が勝ってしまうと、未来への期待や予期は、衰退してしまう。とすると、乳児期に不信を育ててしまえば、否定的な未来を想像する癖がついてしまうのかもしれません。

基本的信頼や希望は、人生の出発点。それはまだ生まれたてで幼いけれど、可能性が詰まっている。この頃の希望は、すでに次の意志性の要素まで備えているといいます。ただ、次の段階である幼児期初期の葛藤に堪え得るだけの強さは、まだない。このような脆さと、最終地点にまで続く可能性の、両方が包含されているんですね。脆さや弱さと、可能性や希望。赤ちゃんそのものです。


幼い時期に必要なのは、未来への希望です。それはまだ想像の割合が高いけれど、それが後に物を言うようになる。やがて子供は、遊びや課題に取り組むことで自律性や意志を育て、青年期には同一性と忠誠を獲得し、それにより何かを選択し、自らコミットする。このようなそれぞれの過程でも、未来への期待や希望というものは、心強い支えや後押しになる。そして、逆に言えば、それが著しく欠けていると、どこかで躓いて(つまづいて)しまうかもしれません。踏ん切りがつかなかったりする。

人は誰でも、スタート地点に近ければ近いほど、広い可能性を有しています。そんな中で、いろいろ選択してゆくので、だんだんと可能性は限定されてきます。選ぶには捨てるが包含され、進むには離れるが包含される。意識的か無意識的かはさておき、何にしても選択しながら生きる我々は、何かを得つつ何かを捨てていて、可能性は狭まっていきます。そういう風にできている。

故に、成人期から中年期に移行する中で、これから選択できる幅が少なくなっているのを感じるでしょう。後戻りできないことも意識しはじめるし、何かを選んだが故の人生の限定を、意識せざるを得なくなる。

この辺とどう向き合うかということも、人生の後半における課題なのかもしれません。


乳児期における不協和要素は、「引きこもり」(withdrawal)

赤ちゃんが引きこもるわけではありませんが、希望が持てなかったり、基本的信頼に著しく欠けていると、後の人生で、活動そのものに困難が出てきてしまいます。意識とは無関係に、身動きがとれなくなってくる。

これは社会的には困ったことですが、人生というものを考えると、他にも意味が見えてきます。一度止まってでも、やり直しなりなんなりが望まれているということでもある。本当の絶望というのは「それでおしまい」ということですが、ここでは、「おしまい」ではなくて「やり直し」や「取り組み」が望まれています。そういう意味では、「二度目のはじまり」といった意味の方が強いのかもしれません。

こういうことに向き合う時、「もうおしまいだ」といった絶望感に襲われることは多々ありますが、実はその奥には、「再生」が期待されているのです。





ここで一度、それぞれの「発達段階」、「心理・社会的危機」(対立命題)、「重要な関係の範囲」、「基本的強さ」、「不協和傾向」について、振り返ります。


まず最初に、「乳児期」がある。ここでの対立命題は、「基本的信頼 vs 基本的不信」。また、それに関係するのが、「母親的人物」になります。(血のつながりは関係なく、その役割をする人)

この葛藤が乗り越えられた時、人は「希望」をいう基本的強さを獲得できる。しかし、挫折した場合には、不協和傾向として、「引きこもり」の傾向が現れるといいます。


次にあるのが、「幼児期初期」。ここでの対立命題は、「自律性 vs 恥、疑惑」。重要な関係の範囲は、「親的人物」。この葛藤を好ましい形で経ることができると、「意志」を獲得できる。しかし、何らかの障害があると、「強迫」という傾向が現れる。


次の「遊戯期」では、「自主性 vs 罪悪感」という、心理・社会的危機に直面する。それに関わるのが、「基本家族」。この時期を乗り切ることができれば、「目的」を獲得できます。逆に、乗り越えられないと、「制止」という傾向が出てくる。


次に来るのが、「学童期」。ここでの対立命題は、「勤勉性 vs 劣等性」。重要な関係の範囲は、「近隣や学校」です。この葛藤の中で、「適格」が生まれる。しかし、障害に会うと、「不活発」という傾向が出ることも。


続いて、「青年期」に入ります。ここでの対立は、「同一性 vs 同一性の混乱」。関係するのが、「仲間集団と外集団」(リーダーシップの諸モデル)。これを乗り越えられると「忠誠」が得られ、挫折すると「役割拒否」が現れる。


さらに人は、「前成人期」に入ります。ここにある危機は、「親密 vs 孤立」。重要な関係の範囲は、「友情、性愛、競争、協力の関係におけるパートナー」。そこで得られるのは、「愛」。しかし、うまくいかないと、「排他性」が現れる。


そして人は、「成人期」に至ります。ここで対立するのは、「生殖性 vs 停滞性」。関係する範囲は、「(分担する)労働と(共有する)家庭」。その葛藤の中で、「世話」が生まれるといいます。しかし、問題があると「拒否性」という傾向が現れる。


最後にあるのは、「老年期」。最後の心理・社会的危機は、「統合 vs 絶望」です。そして重要な関係の範囲は、「人類」「私の種族」。その中で、「英知」という基本的な強さが生まれるという。しかし、葛藤に耐えられない時には、「侮蔑」という傾向が出てくる。




以上、ざっくりとライフサイクルの各ステージを見てきましたが、次回からは、「自我防衛と社会適応」の話とか、「三種の現実」とか、「超自我」や「精神分析」の話に入ろうかと思います。

誰が読んでくれているのか分かりませんが、未来の誰かが目に留めることを祈りつつ、身体とテンションが維持できれば、続けさせていただきます。

では、縁あって出会ったみなさん。

2011年も、よろしくお願いします…








<チェックシート>

・自分の考えや判断で、行動できているか?
・何かにつけ、ブレーキがかかりすぎてないか?
・何かに支配されていないか?
・強迫性や衝動性により、自分のコントロールが困難になってないか?
・未来に希望が持てるか?





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