【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、E.H.エリクソンの「ライフサイクル、その完結」より、紹介をします。
ここでは、「転移の意義」について。

『転移の意義』



「児童の分析」


「成人に対する分析で経験する精神分析的状況と、児童に対する時のそれとの古典的相違は、児童は、人格の未熟さの故に、寝椅子に寝て系統的に内省することができないことにある」とエリクソンは書いています。(P142)

では、児童が何を望むのかといえば、「相互に関わりあうこと」「遊ぶこと」「会話すること」などを求める。なので、この3点を軸に治療を行う場合もあるようです。

それはさておき、ここで問題としているのは、児童においては、成人の治療を特徴づけるという「転移神経症」、あるいは、転移そのものが見られないということ。

転移神経症から分析家は多くを学ぶことになるといいますから、それを欠くというのは、ある意味では、残念なことかもしれません。なぜなら、ひとつの手掛かりをなくすことにも等しいから。

子供は、自分自身や過去を顧みるよりは、今現在を経験することを好みます。知り、遊び、表現することに、純粋に没頭する。

これも、まあ、頷ける話で、スタートして間もない存在は、行く方向に力点が置かれます。振り返ろうにも、振り返る部分は極めて少ない。それよりは、眼前に広がる世界や可能性の方が、ずっと大きいのです。

なので、児童は、そこに踏み出したり、触ったり、そこで何があったかを伝えたり、そういうことに力を注ぐことになる。

一方、成人では、振り返れば見える自分の道のりもそれなりの広さや深さを持つので、内省という仕事が大切になる。今までしなかった人にとっては、より意味深くなるでしょう。時には、そこに潜む目詰まりの解消という、やらねばならない仕事に取り組むことにもなる。


エリクソンは、以下のように述べています。

「子どもは、基本的には、両親以外の大人との出会いを強く求めているものであり、その求めを、祖父母であろうと隣人であろうと、あるいは医者であろうと教師であろうと、自ら選んだ他の大人を通して満たしていこうとし続けているのだということを忘れてはならない」(P143)

子供はやがて世界を広げようとし、その手始めとして、両親以外の大人との出会いを求めるようになる。(その時期については、個人差があるのでしょうけども)。そういう意味では、治療者もその一員であり、「異なる世代の相互的関与」の現れの中にあると。

また、その子が難しい状態にあるなら、「自分の愛を受けるに充分に価し、かつその愛に充分に応えてくれるような、自分の愛の受け手を求める」といった、対象関係を求めるということにも、関係してくるかもしれません。

ただ、このような前提には、両親との十分な関わりがあり、両親との関係をある程度深めた上で、次なる出会いを求めるのかもしれません。(無いから求める、という場合も、否定できませんが)。





「青年期の停滞」


「幼児期・児童期について語られてきたことは、青年期になって新たな劇的な形をとって現れてくる」と、エリクソンは言います。青年期は基本的には成長の時期ですが、そこに発達の停滞が訪れるように仕組まれていると。

彼はそれを心理・社会的潜伏と呼び、人格発達における停滞と社会的地位における停滞であると言っています。そして、この時期に青年は、(未来を)実験的に掴み取ろうとするとともに、(過去を)再度掴み直すことによって、社会的役割を実験的に試みる期間を与えられる、と。

青年期に誰もが経験する「ぐずぐず」のような状態にも意味がある、というわけ。

停滞した状況の中で、あるいはそういう状況だからこそ、他のものに向けているはずの力を保留し、未来を掴み取ることや、過去を掴み直すことに、集中するわけです。片手間にはできない仕事を、運命的な強制によって、やらされる。

その間、大いに揺れたり、迷走もするわけですが、そんな中で、同一性を得ていきます。


ピーター・ブロスは、「発達のための退行」と「第二の個性化(個体化)の過程」を強調するといいます。

「青年期の患者が両親像を再編成しなおすことに積極的に取り組み、一人のリアルな個人としての分析家の存在を通して、古い原本を誠実に修正した新版を創り出す」と。(P144)

そこで分析家は、治療者としての役割と、認証を与える生殖的なモデルの役割(指導者の役割)の、ふたつの立場を担うことになる。

また、青年期の患者さん自身にしても、第二の個性化は、他者の個性化を尊敬し承認する面と、互いに個性化を促し合うという相互的な実現、その両面を含んでいると。(その逆は、互いに非難し合うこと)

青年期に人は、己になろうとします(必ずしもそうではありませんが)。それまでは身近なモデルに従っていたのが、必ずしも頷けない部分を見つけ、疑問を抱く。

生まれる前、人は母なるものと一体化しています。それが生まれて、だんだんと自分になっていく。しかし、その過程でも、子は養育者と近しく、概ね価値観を共有します。

そして訪れる、青年期。そこで人は疑問を抱き、養育者と自分は違うのだと、気づいてゆく。今まで同じだと思っていたものが、実は必ずしも同じでないことを知るようになる。

そこで人は揺れ、葛藤の中で疲弊したり、退行したり、時には養育者を責めたりもしますが、そういう過程を通して事実を認め、身に馴染ませます。

そうしてこそ、親から離れ、やがて互いは違う個人なのだと受け容れ、それが、相手を認めることにもつながるのです。

誕生の瞬間、人は母なるものと分離しますが、青年期においても、人は第二の分離を経験するんですね。





「成人の転移・逆転移」


成人患者は、古典的な治療状況の中で、次のような状況を強いられるといいます。

(1) 終始あおむけの姿勢をとる
(2) 顔を向き合わせ、目と目を合わせることを回避する
(3) 会話的なやりとりを排除する
(4) 長く続く分析家の沈黙に耐える

これらは日常的な生活にはないものです。しかし、そのおかげで中に沈んでいるものを引っ張り出せる。

エリクソンの言い方を借りれば、「記憶や転移を通して、幼児期初期の相互交渉の相手を、郷愁にかられながら探し求める行動を巧妙に喚起する」ということになります。

ただ、その分の負担もあるわけで、疲れたり問題を抱えたりする人が訪れる場ながら、その負担に耐えうる健康が必要になるという、若干矛盾を含んだことにも。


パール・キングは、成人期――中年期やそれ以後の時期――において個人は、年代的、生物的、心理的の、3つの時間軸によって生きていると指摘するといいます。また、高齢者では転移の逆転が起こるとも、指摘する。

治療者は分析において、患者さんから転移を受け、過去の重要な誰かとして経験される。ここで役割の逆転が起こり、患者さんはその重要な誰かが自分を扱ったのと同じように、治療者に対して振る舞うというのです。

このような転移の逆転は、年配の人で、強烈なものになるといいます。そして、そういったものが、治療者の中にある両親に対する受容しがたい感情を揺さぶることがあると。

なので、こういった場合、治療者には2つのことが必要になる。

1つは、「分析家自身が自分の両親に対する感情と折り合いをつけていること」。もう1つは、「分析家自身が自分のライフサイクルにおける現在の自分の段階と、自分が年をとっていく過程そのものを、自己-統合的な健全な仕方で受容していくこと」。(P147)

また、老いつつある患者さんにとって、治療の終結を考えることがしばしば困難になることも、指摘します。

というのも、彼らは、時間の流れというものと、直面しなければならないから。治療を終えるということは、それにひとりで立ち向かうことを意味します。なので、どうしても不安が出てきたり、躊躇したくもなる。

もっとも、治療が終わるということは、その準備が整ったということだとは思うのですが。



それぞれの段階で患者さんが示す、いろんなカタチの転移に対し、エリクソンは「以前に満たし得なかった発達的対話を回復するために、特定の人生危機を反復しながら、分析家を一人の生殖的存在として巻き込もうとする試みを表しているように思える」と述べています。(P147)

人はどこかで、それぞれの段階にある対立命題の内、いくつかを保留するのでしょう。例えば、幼児期において基本的不信が勝ってしまったり――ということは、基本的信頼が得られなかったり――あるいは、遊戯期において自主性を発達させる機会がなく、むしろ罪悪感を育ててしまったりする。

そんな中で、表立った別の問題を通して、上にあるような隠れた問題と関わり出す。人生危機を反復しながら、だんだんと発達的会話を回復しようとする。欠けたものは補おうとするし、過ぎたものは減らそうとする。そしてその過程に、分析家も関わってくると。生殖的関係、つまり、継承させようとする者と受け継ぐ者の関係が感じられる、と。

エリクソンによれば、このような関係は、異なる年齢の患者さんとの関係で経験する逆転移の研究なしには十分に解明し得ない、と主張します。そしてその理由として、以下のように言っている。

「精神分析家は、患者の過去及び現在の段階が、分析家の中のそれに対応する段階の経験に反響する仕方に常に開かれていることによってのみ、分析作業が持つ様々な世代的意味に気づくことができる」

人は、人の中で生きます。そして当然、何らかの影響を受ける。それを善悪には分けられないのですが、あえて大雑把に分ければ、好ましい影響を受けることもあるし、そうでないこともある。

実は、各発達段階の対立命題も、この影響と深く関わる。特に、幼い時代では、その割合は大きいでしょう。また、青年期以降においても、それなりの分離に成功していない時、影響は大きなものとなる。

そして、上にあったように、「人生危機を反復しながら、だんだんと発達的会話を回復しようと」することになります。

いわば、悩んでいる人は、そんな「関係」や「影響」に悩んでいる人とも、見れます。

そして、関係とか影響とか、そういうものは治療の場にも現れ、患者さんと治療者は、共鳴したり反響したりする。人と人とが存在する時に当り前に起こることが、ここでも生じると。

これに対してあまりに無意識である時、治療は破壊的なものになったり、成立しなくなったりする。が、逆に、ある程度意識し、自身をも含めた場を観察する目を持てた時は、そこにある意味に気づけるし、それが治療の助けにもなると。

人は、関係や影響により、苦しみ悩む。しかし、その関係や影響が、人を回復させたり癒したりもする。こういったことが、言えそうですね。


転移もまた防衛の一種であるという考え方があります。「無意識を意識しないようにするための抵抗」として、転移が生じると。

が、この転移が治療を可能にするという面も出てくる。

無意識に隠れている限り、「刺激 → 反応」のプロセスは生じません。が、転移は患者さんの内部にあるものを、仮の形とはいえ、治療の場に再現させる。つまり、無意識だったものが、それそのものではないものの、顕現することを意味します。ここにひとつのリアルが生じ、現実的な対応が可能になるというのです。

ひとつには、隠れていたものが見えるようになってくる。もうひとつには、現実になってくることで、「刺激 → 反応」のプロセスも、だんだんと生じてくると。

そこには危険があり、喜ばしいものばかりではありませんが、今まで「何ともならなかった」ものが、「何とかなってくる」という面も。

特に否定的な感情の場合、噴出しようとするものを抑えるだけだけでもなく、かといって行動化するでもなく、不細工ながらもほどほどに反応させることが、肝要になるのだと思います。




次回は、第9の段階について…










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