【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、E.H.エリクソンの「ライフサイクル、その完結」より、紹介をします。
ここでは、「精神分析の方法と転移」について。

『精神分析の方法と転移』



「精神分析とは」


エリクソンは、精神分析の方法が持つ二つの本質的機能について、以下のように書いています。(P135)

第一にそれは、成人を幼児期の重圧的・抑圧的な不安から解放し、同時にその不安が人生とパーソナリティに与えてきた影響から解放することを目指すヒポクラス的な試みである。

ヒポクラスがヒポクラテスのことだとすれば、これは古代ギリシャの医師のことです。彼はそれまでの医療にあった迷信や呪術を排して、臨床の観察と経験を重んじ、科学的医学の基礎を築いたという。四体液説を唱えたヒポクラテスは、四液の調和が保たれていれば人は健康であり、不調和であれば病気になると考えました。つまり、人間の体内にも自然(あるいは自然な状態)があり、そのバランスが崩れると人は病気になる、とした。

上でいえば、幼児期の重圧的・抑圧的不安にとらわれている状態や、それが人生やパーソナリティーに影響を与えている状態が、不調和な状態ということになります。そして、表立った症状は、調和のとれた状態に戻せば――それらから解放することができれば――自ずと治るということ。


「第二にそれは、個体発生並びに系統発生における過去の発達に人間が固着している姿を独自の仕方であらわにする、調査(リサーチ)方法であり教授(ダイダクティック)方法である」

不安の解消を目指すその過程で、過去の発達に固着している人間の姿が浮かび上がります。表立っては見えぬ時でも、奥まったところで、そんな気配があったりする。そして精神分析とは、それを調査し、教授する方法であると。

本当の問題を残したまま症状だけが消え去ることはないわけで、症状をどうにかしようと思えば、奥まったところにある核心にどうしても触れなければなりません。それが「過去の発達に固着している姿」として、見えてくる。精神分析とは、それを共に探す方法でもあるし、互いに気づいていく過程でもあると。


エリクソンによれば、前世紀のエトス(社会を支配する倫理的な心的態度)として、「全人類的な成熟を獲ち取ろうとする姿勢」があったといいます。全人類は成熟すべきだとし、これを目指した。

そして、そんな理想的な未来人の像として、幼児期の固着を理解し乗り越え、一人の成熟した人間として、また人類という種への自覚的な関与者として、<我々より自由に行動する者たち>といったものを設定しました。あるいは、人類内の各種族への憎悪や対立を、道徳や合理性により克服できるのではないかと、考えた。そういう理想を掲げたと。

が、逆に言えば、当時、そういった問題を克服していなかったし、そんな中で、それがいかに危険なことかを悟った人々が、何とかしてそれを脱しようと考え、全人類的な成熟の方法を模索したともいえるのでしょう。(もっとも、状況は今現在でも変わっていないように思えますが)


精神分析の状況について、エリクソンは、「あたかも分析家の心と患者の心が相互に関連を持ちながら動く(レラティブリー)二つの『協応的システム』として働く姿として描くことができる」と主張しています。(P139)


オーソドックスな治療法としては、長椅子を使う方法があります。患者さんを長椅子に寝かせて、自由連想を試みる。頭に浮かんだことはどんなことでも話してくださいと、求めます。この時、普段の生活では口に出せないようなこと、例えば倫理や道徳に背くようなことでも、そのまま話してもらう。

エリクソンの言葉を借りれば、「患者の内部における『連想』の『自由な浮動』を可能にしかつそれを強化する」ということ。


緊張というものを問題とした時、刺激は緊張を誘発するものであり、反応は緊張を解消するものであるといえます。

例えば、臭い(くさい)においを嗅ぐような時、臭いにおい自体は刺激。そして反応として、顔をしかめたり、臭いと口に出したりする。けれど、この時、顔に出したり言葉にしたりという反応を制限すると、においに対して生じた緊張が、解消されなくなってしまいます。コンプレックスの章で触れた表現を使えば、生じた感情が流れなくて、残る。

これは、怒りを誘発するような刺激や、溜息を誘発させるような刺激、その他いろんなものにもいえ、反応を制限することで緊張が残留してしまい、それが何らかの症状として表に出てくる、といったことが起こるのです。


ただ逆に言えば、刺激が与えられたとしても、そこに適切な反応が起きれば、心理的な緊張は解消されるともいえます。生きていれば何らかの刺激は受けるものなのですが、それを適当な反応として処理することさえできれば、さして問題はないと。ただ、生きていると、反応を抑えねばならない場面も出てきます。実はそれも、たまにならいいのですが、いつもだと、困る。知らず知らずの内に、いつも「刺激 → 反応」というプロセスに待ったをかけ、緊張状態を作ってしまう。この蓄積が、表立った症状として出てくると。そして、そんな目詰まりを何とかすることで、表立った症状も消失するというわけです。(あえて単純に言えば、ですが)

精神分析の横臥による自由連想は、この目詰まりに対するもの。自由で保護された場を提供し、一般生活にあるようなタブーを一度取り払って、中に残っているものを出してもらいます。

なので、治療の場というのは、大仰に言えば、異空間のようなものでもあります。普段話せないようなこと、意識にも上がっていないようなこと、それをだんだんと、自由連想という手段を用いて、出してゆく。そしてやがて、今まで触れられていなかった、「本当の話」をすることになる。そうやって、刺激を反応に移行する練習をするんですね。

これはおそらくは、他のカウンセリング手法とも共通する根源なのでしょう。やり方やは違っても、目詰まりを解消するとか、奥にあるものを出すとか、意識できなかったものを言葉として意識化するとか、その根源は、同じものなのだと思います。

人は日常生活で話す時、どうしても、自己弁護的になり、いかに自分が間違ってないか、いかに自分が正しいかなどを、相手に納得させようとしてしまいます。あるいは、同情してもらおうとする。で、ここにはどうしても、意識的な加工が付随してしまいます。

一方、本当のことを話すとは、そんな加工を排除し、ありのままを語ることを意味する。世間への体裁とか、恥の感情とか、相手の反応を読もうとする姿勢とか、それは治療の場においては一度 置いといて、ありのままを話す。そういう意味では、治療の初期は、ありのままを話すための訓練、とも言えるでしょう。慣れていないタブーを話すとか、しまっていたものを明らかにするとか、そういった練習。あるいは、そういった関係の構築です。





この方法を前提とし、また人間の発達という要素を踏まえて、エリクソンは以下のように書いています。

連想は、速度を自在に変えながら、或る時は遠い過去へ、或る時は今の現在そのものへ、或る時は恐れに満ちた未来へ、或る時は希望に満ちた未来へ、同時に、具体的な経験から、空想へ、夢の生活へと駆け巡ることができる。患者は症状に苦しめられているが、その症状は現在の生活における何らかのとらわれを露わすだけでなく、発達初期の人生段階を特徴づける中核的病理への発達的な固着を露わすものでる。自由連想は、従って、被分析者が過去の発達段階と状態に内在する諸葛藤を想起し、それを再体験すること(象徴的な形を纏って行われることが多いにしても)を促進しなければならない。それらの葛藤の全体的な意味は、患者が彼の空想や考えの中で、発達初期あるいは最初期の、多かれ少なかれ非合理的なイメージや感情を蘇らせ、それを分析者という人間への「転移」として露わにするまで、明らかにはならない。

(P139)


自由連想を続けていると、現在の生活に関わる何らかの囚われが出てきます。しかしそれが根というわけではなく、その奥から、過去の発達段階における消化されていない葛藤のようなものが出てくると。カウンセリングにおいて聴くということが重要視されるのも、この点からで、聴く方が早合点して遮ることなく、奥の奥の奥のものが出切るまで、聴かねばならない。(あるいは、待たねばならない)

刺激と反応でいえば、一番奥のものを出して反応が生じるまで、待たねばなりません。(そしてそれは、いつ来るか分からない)

とはいえ、患者さんがすぐにありのままを話してくれるわけでもありません。むしろ、話さないし、話せない。ある意味、自己防衛が強いから何らかの症状に悩まされている、ともいえるのでしょう。

なので、自由連想においても、その中で自己弁護し、防衛を働かせ、時には抵抗します。そして、このような抵抗が治療者によって解釈されだすと、新たな抵抗を試みるようになるといいます。それが、「転移」といわれるもの。

患者さんはやがて――そのことは意識しないのだけれど――目の前の治療者に対し、過去に自分にとって重要だった人物に対する感情を、向けるようになる。例えば、患者さんが子供であり、治療者が親であるかのような、感情を持つようになります。

自由連想の中に、親子関係のようなものが生じてくるわけです。

「転移」とは、例えば幼児期の親子関係が、治療の場に転移されること。何らかの理由で解消されず残っているものが、目の前に現れることです。

これは、部分部分では、悩みの症状とも関係します。

すなわち、解消されず残っているものが、本来関係ない目の前の状況に、現れてしまう。例えば、今現在、目の前の関係の中に、過去の解消されていない関係が、現れてくる。本当は新しい状況や新しい関係なのに、古い関係が持ち出されて、そのように反応したり、行動したりしてしまう。自我はそのギャップに驚いたり、悩まされたりするわけです。

このような布置は、コンプレックスの章でも、触れました。例えば、目の前の人に訳も分からないまま緊張し、身動きがとれなくなってしまう。こういった状況の背後には、目の前の人に――カテゴリといった意味では――関係するものの、直接的には関係のない別の、内面において解消されていない何かが、影響を与えているというわけ。

従って、このような状況を客観的に説明するのは困難で、故に人は、その不可解さに戸惑います。でも実は、目に見えているのは表立った現象であり、その奥には、隠された何かがあるんですね。



今一度、刺激と反応の話に戻れば、例えば、怒るような刺激があっても、それが反応となり表に出れば、いつの間にか怒りの感情は流れ出ます。世の中には「怒るのが上手な人」がいるでしょ? あれがまさにそうで、瞬間的に怒りを表情や言葉として反応させ、外に出してしまいます。出すのが自然で、うまい。なので、そういった人は、後に怒りを残しません。

一方、怒りを我慢する人は、その場では怒りを出さないものの、他で出すことになります。この「他で出す」もいろいろあって、その場では我慢するものの、はやい段階で、別の場所で出す人もいる。ちょっと場所を変えて、友達に話を聞いてもらうとか。

が、また別の人は、近しい人に話すことさえタブーとし、考えることさえ拒否しようとします。これがパターン化され、蓄積するばかりになると、当然怒りは溜まるばかりなので、やがて許容量を超えます。そして、別のところで、爆発することに。

これも、「刺激 → 反応」が妨げられた例なのでしょう。

ただし、怒ることが素晴らしいということでもありません。怒れば解消されるとも、限らない。転移の例を見れば分かるように、人は往々にして別のものに怒ってしまいます。反応化されない怒りの刺激を、別のものに向けてしまうこともある。なので、いつも怒っているから感情が流れ出ているとは限らないんですね。むしろ逆で、感情が流れ出ず、刺激 → 反応 のプロセスが妨げられているからいつも怒っている、という場合もあるようです。(肝心なことに対して怒れない事情があるから、別のことに怒ることになるというわけ)

我々は実は、目の前のものに緊張しているとは限らず、目の前のものを怖がっているとは限らず、目の前の事象に怒っているとは限らない。何らかの目詰まりを内に抱えている場合も、しばしばです。そして心理学の一部は、その目詰まりを解明し、何とかしようという学問でもあるのでしょう。(それがすべてではありませんが)


このようなことを考えると、平静というものは、抑えた状態ではなく、むしろ出すものは出して、揺れる時もありながら、全体としてある程度おさまっている状態なんでしょうね。

これが、自然な状態。

そして、精神分析の方法は、その状態に戻すまでの過程であると。




次回は、各世代にある転移についてなど…








<チェックシート>

・刺激に対して反応できているか?
・防衛を弱め、自由に話せる空間はあるか?





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