【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは、スーザン・フォワード著「毒になる親」を紹介をします。
今回は、「コントロールする親/コントロールの方法」について。

第3回『コントロールする親/コントロールの方法』




<コントロールする親>

前回書いたように、子どもには保護が必要です。しかし、それには程度があるわけだし、また場合場合で意味が違ってくる。例えば、赤ん坊に対するのと、ある程度大きくなった子に対するのとでは、意味が違ってきます。

コントロールとは、「ちょうどよいぐあいに調節・統制すること」(大辞泉)。この「ちょうどいい」というのが大切になります。相手に必要なことをするのか? それとも、相手のことは置いておいて、自分がよいと信じることをするのか? というところがある。

子どもを心配することは、子どもが小さければ小さいほど、必要なことなのでしょう。自分でできることが限られるので、あれこれ気をつけねばならないことも多い。

でも、子どもが成長するにしたがって、だんだんと接し方は変わりますよね。子どもは自分ですることを覚えるし、親は任せることを覚える。途中、いろいろあると思いますが、段階的にそうしていくでしょう。

が、この時、親の都合で心配し、子どもにやらせること、子どもに任せることをしなかったら、どうなるでしょう?

自信は、成功体験に支えられています。つまり、やって、できて、そういう体験の積み重ねで得られる。子どもがチャレンジし、成功し、時に褒められ、そうやって獲得します。なので、チャレンジの機会を奪われれば、自信がなかなか育たないことになってしまうのです。


人間は、気持ちや感情を投影するところがある。親に深い不安や心配があると、それが子どもに投影されることがあります。本当は親自身が不安なのに、子どもは大丈夫だろうか? と過剰に心配してしまうのです。

本当は自分の不安や心配なのに、子どもに対して「あなたのことが心配だから」と、過剰な干渉をしてしまう。そして結果として、子どもの尊厳を奪ってしまいます。独り立ちをしにくいものにしてしまう。また、子どもが困難に遭遇していると、「ほらね」と言ってしまう。

こういうのも、「共依存」の関係なのでしょう。相手に依存してほしい、相手が卒業されると困る、そういう風に無意識に依存してしまっているのです。子どもが親に依存することを望み、そうやって親が子どもに依存している。

こういったケースがやっかいなのは、一見こういった親が「子どもを心配するよい親」と捉えられてしまうから。「気遣いがある」とか「子どものためを思っている」とか、表面上はそう見えるからです。

でも、実際はそうではない。本当に困っているのは親自身で、無意識的には、こういう親は子どもの自立を望んでいない。親の都合で心配し、親の都合で口出しし、親の都合でコントロールしようとし、そういう風に、自分のためにやっているのです。





「コントロールの方法」


では親は、どのようにして子をコントロールしようとするでしょうか。

そこには見えやすいものと見えにくいもの、2種類があるといいます。



分かりやすいのは、脅しを使うケース。「あなたなんかもう、うちの子じゃない」と言ってしまったりする。こういうのもまあ、言うことはあるかもしれませんが、その程度が甚だしい。いちいち脅して、言うことを聞かせようとする。自分の我を通そうとして、相手にプレッシャーをかけます。

健全な親だと、子どもが離れるのを寂しいと感じながらも、それを受け容れ、祝福するでしょう。でも、それに耐えられない親は、子どもの自立を裏切りと捉える。自分勝手だと責める。自分の思い通りになるようにと、相手をなじったり、責めたりします。

コントロールしたがる人は、コントロールできないということを脅威に感じる。離れられることを、怖れます。あるいはたとえ離れていても、何かにつけ口出しし、干渉しようとする。もちろん、親自身のために、です。

離れることで責められた子どもは、悪くもないのに、罪悪感を感じてしまうことがある。また、いちいち干渉されるので、フラストレーションがたまりやすい。抑え込んだ怒りも、相当溜まっていくでしょう。

そしてこれらが、だんだんと生活に影響を与えるようになります。目に見える問題は別でも、その奥には、このような親子関係が隠されている場合もあるのです。イライラの正体は、目の前のこととは限りません。



脅してコントロールするだけでなく、与えてコントロールすることも。生きるために必要なものを援助し、その代わりにコントロールする。あるいは、コントロールするために、何かを与える。

自立されること、離れられることを一番に怖れ、妨害する。自立することがいかに困難であるかを説き、援助を打ち切ると脅す。今が一番安全で幸せなのだと、説得しようとする。相手に依存させ、それで安心を得ようとする。実は、自分が相手に依存しているのですが。


これらのタイプの親は、表面上は別にして心の底では、「子どもができないままであること」を望んでいる。いつまでも依存してほしいと、無意識的には願っているのです。

となると、子どもを認めるのはゆるされないこと、タブーなわけです。いつまでたっても、「できない子」「自分なしでは頼りない子」でないと困る。なので、いちいち子どもを引き落とすし、失敗などを見つけると、「それみたことか」と喜びさえする。

表面上は心配しているわけですが、無意識的には失敗を望み、喜んでいるわけです。できている部分は無視し、できていない部分をわざわざ取り上げ、ああだこうだ口出しし、子どもの自尊心を傷つける。

親のコントロールしたいという欲望のために、ですね。



以上が、割と分かりやすいコントロール。

脅したり、けなしたりと、直接的ですね。


さて、以下は、ちょっと分かりにくいコントロールです。



毒になる親の問題でややこしいのが、それを意識化しにくいこと。どうしても子どもの方が折れがちで、実際の関係をなかなか認識できません。

これがまだ直接的なものだったら、分かりやすいのかもしれません。幼い時には無理でも、大人になればやがて気づくかもしれない。しかし、それが間接的なものだとしたら、どうでしょう?


「手助け」とは、美しい行為。基本、相手のことを考えたものです。しかし、手助けの中には、相手のことを考えてないものもある。いわば、自分のための手助け。手助けの名を借りた、干渉ですね。

相手に必要か? ではなくて、自分がしたいか? なのです。ただし、自分がしたいのだということを意識できず、相手に必要だと強く信じている場合があるので、これは分かりにくい。相手の気持ちは確認しないのですが、相手の気持ちは分かっていると固く信じているので、なかなか話が通じません。

また、子どもの気持ちを分かろうとする気がないのに、「自分の気持ちを分かってもらえない」と被害者の座についてしまう。ここに支援者が加われば、もう、厄介なことこの上ありません。相手がどれだけ苦しんでいようと、おかまいなしなのですから。


子どもにとって「罪悪感」は一番堪えます。何かにつけ、ブレーキになってしまう。もちろん、正当な罪悪感は、適度なブレーキとして有用に働く。でも、本来背負わなくていい罪悪感は、人の生きる道を制限してしまいます。

表面上よい親のカードは、この罪悪感。「こんなに思っているのに」と、一見きれいなことで相手を責める。また、周囲もそれに同調しやすいところがある。なので子どもは、悪くもないのに悪者にされたり、悪者になることを避けるために無用な我慢を強いられていることがあるのです。


親が気に食わないことのために、理由づけをする場合もあるでしょう。この場合の気に食わないこととは、自分のコントロールに従わないことです。

こういうタイプの親は、子を服従させたい。選択は二者択一で、服従するか出て行くかといったところ。その間というものが存在しません。子どもに独立心があると困るので、できれば折っておきたい。なので、平気で傷つけることを言う。

選択肢が2つしか与えられない子どもは、服従するかもしれない。といってもこの場合、現状維持が服従になるのでしょう。あれこれ干渉してくる関係を、継続する。もう1つの選択は、出て行くこと。あるいは、反発すること。でもこれも、相手から与えられた選択であって、自由な選択ではないですよね。

子どもにすれば、我慢するか反発するかしかなくなる。反発するというのは一見 自分で選んでいるようで、まるでそうさせられているといったところがあります。「逆らうこと」が主たる目的となってしまい、自分の意志や生きる道は、実は薄まっていたりするのです。


いいなりになることと、自分をつぶしてしまうような反抗は、実は同じコインの両面であると、この本の著者は述べています(P85)。本当にしたいことは、相手に反発することを目的としておらず、自分が何を望んでいるのか正しく見極めることだと。


ある程度健全な人は、自分を認識すると共に、相手を認識する。いわば、自我が確立されており、アイデンティティに関して、ある程度の仕事を終えているのでしょう。

ところが、毒になる親は、自分と子どもの境界があいまいです。子どもを自分の一部だと思っているようなところがある(あるいは、所有物)。なので、この独立を、まるで自分の一部が失われるかのように、錯覚してしまう。互いが独立した人間であることを、実感できていません。

そして子どもも、それに引っ張られてしまうんですね。




人は小さい頃、保護されねばならない。

けれどやがてその手を離れ、独立していく。

毒になる親は、この反対をします。

小さい頃は保護せず、成長しているのにいちいち干渉する。

それによって、子どもが自分の道を歩むことを邪魔します。



けれど、人間には、自分の道を歩む権利がある。

それはたとえ親であっても、邪魔することはできないものなのです。


人生は、本人だけのものである。

誰も、奪うことはできない。




次回に続く…




<チェックシート>

・成長しているのに、過剰に心配してないか?/されてないか?
・言うことを聞かない子に「うちの子じゃない」と言ってないか?/言われてないか?
・失敗すると、「ほら、やっぱり」と言ってしまわないか?/言われてないか?
・過剰な手助けをしてないか?/されてないか?
・「あなたのことを想って」と言って責めてないか?/責められてないか?

(分かりにくい場合は、誰かがそうされている様子を想像してみてください。そして何か言いたくなったら、心の中で、声をかけてあげてみてください)










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