【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング


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このページでは、「やさしいユング心理学講座 旧 第三章:コンプレックスとの対決」を紹介します。

第1節「コンプレックスのメカニズム」 第2節「自我の防衛機制」 第3節「コンプレックスとの対決」

【第三章 コンプレックスとの対決】




第三章 コンプレックスとの対決





1.コンプレックスのメカニズム


第三回はコンプレックスについてです。


「コンプレックス」という言葉は日常会話でもよく使われますが、あれは所謂(いわゆる)「劣等感コンプレックス」である場合が多く、本来の意味での使われ方は、あまりされていないように思います。

ユング心理学では「無意識内に存在して、何らかの感情によって結ばれている心的内容の集まり」という表現をします。また、初期には「感情によって色づけられた複合体」と呼ばれていました。

このコンプレックスの中核をなすのが、
『自我の許容量を超えていたが為に、無意識の領域に抑圧された経験』
『個人的無意識の中に内在しているが、未だに意識化されない内容』です。

前者は、「自我が認識するにはあまりにショックな体験」とも言えますし、後者は、「自分が持っている影の部分、認めたくない部分」という言い方ができるでしょうか。また、両者共に、無意識の領域にあって、自我が意識することが出来ないという特徴を持っています。

(そういう意味で、劣等感コンプレックスであると自己申告し、ちゃんと意識できるようなものは、本来の意味での、コンプレックスではないと言えそうです)

これら無意識内にあるコンプレックスの中核が、その後の人生において経験した「同じような感情を伴なう経験」により肉付けがされ、コンプレックスは肥大化してゆくことになります。「集まり」とか、「複合体」とか、「束」と表現されるのはその為で、一つだけではなく、多くの似通った感情(を伴なった経験)が絡まったものです。

そして肥大化が進むと、それは自我の領域にまで影響を与えるようになり、やがて制御がきかなくなったり、心や行動を乱すことになります。

ある物事を異様なほどに避けたり、あるいは逆に異常なまでに惹かれたり、簡単な間違いを何度もする――なんてことも、コンプレックスの仕業であるかもしれません。


もう少し、分かりやすい例を挙げてみましょう。

幼少期に親に捨てられたと思うような体験をした人がいたとしましょう(実際に捨てられたかどうかは別にして、です)。このような出来事は当然、幼子(おさなご)には受け入れがたい体験です。したがって、この体験は無意識の領域に追いやられます。そうやってでも、自分を(幼い自我の安定を)守るわけです。

しかしながら、この体験は意識的には忘れたものであっても、無意識の領域では生き続けます。この無意識下に押しやられた経験が「コンプレックスの中核」となるんですね。(「幼い自我では受けきれない経験」=「自我の許容量を超えていたが為に、無意識の領域に抑圧された経験」がコンプレックスの中核になる)

やがてこの人は人生を歩むうちに、友人と喧嘩したり、親しい人と離れたりと、寂しさや孤独を経験するでしょう。この誰もがする経験(それでいて、コンプレックスの中核をなす体験と同じような感情を伴なう経験)が、この人のコンプレックスの中核に絡みつき、コンプレックスは大きくなります。普通に生活するだけでコンプレックスが、どんどん肥大化していくわけです。

親に捨てられたというコンプレックスは、寂しさや孤独感といった感情をどんどん吸収し、見えない無意識の領域で巨大になってゆきます。そして肥大化したコンプレックスはやがて自我にまで影響を及ぼし、様々な障害を発生させる。

また、他の人には一般的だと感じるような感情や経験であっても、コンプレックスの中核をなす体験に近しいものと混同してしまい、過剰に反応したり、コンプレックスと区別して考えられなくなってしまいます。

これが大まかなコンプレックスのメカニズムです。



以上のようにコンプレックスは放っておくと、無意識の領域でどんどん肥大化するわけですが、自我の方も黙っていません。「防衛機制」というのを働かせてきます。この防衛機制がやっかいで、話をややこしくしていきます。

(勿論、意味あることなのですが・・・・)


【閑話休題】
「コンプレックスと思考停止」

ユングは、知的要因とは別の問題で、ある質問に対しての反応時間が遅くなることに注目し、その原因が情動にあると考えました。

実際問題として、ある物事について考えがまとまらない――あるいは、考えることから逃げてしまう――ということは、誰しもあるのではないでしょうか。

普通に、A→Bという風な連想を行う場合でも、そこにコンプレックスが介入すれば、A→Bという間に複雑な思考経路が形成され、同じ答えを出すにしても、時間がかかったりします。あるいは、コンプレックスが介入することで、普通は連想できないような突飛な答えを出したり、もっと進むと、連想そのものが出来なくなる場合もあり得るでしょう。

このように、コンプレックスは、自我に影響を与えます。また、コンプレックスは無意識の領域という、見えない場所にあるので、通常は認識することが困難。そして、認識できないから肥大化するという、悪循環が発生します。

(意識できない → 放っておく → 見えないところで蓄積する)

日常生活でも、おかしな連想をしたり、関係ない答えを導いたり、あるいは、思考停止したり、よく分からない情動が生じたりして、「おや?」となることもあろうかと思いますが、そこにはコンプレックスが関係しているのかもしれません。

(また、見えない領域、無意識の領域の産物だけに、それを認識することは難しいのかもしれません)


【さらに蛇足】
こういうことを鑑みると、コンプレックスは、「意識の妨害」「認識の妨害」「現実問題からの逃避」という、なんとも厄介な仕事をしていると言えます。

(まあ、そうしてまでも、伝えたい事があるということでしょうか。あるいは、そうしてまでも、自分・自我を守っているのでしょう)

自我というものを考えると、我々は自我があるから(考えるから)、その場その場に応じて適切な態度をとったり、行動できる、と言えます。

コンプレックスは無意識という見えない領域から、自我に影響を与えますから、当然、コンプレックスに支配されると、その場その場で適切な態度・行動をとれませんし、冷静な判断もできません。場合によっては、会話やコミュニケーションが成立しなくなるかもしれない。コンプレックスが作った深い溝により、話がどんどん流され、ズレてしまう。

このようなことは程度の差こそあれ誰でも経験することなのですが、影響力の強い人がこの状態だと、困る面も。そして、周囲がそれに気づかないでいると、なお危ない。下手をすれば、集団がコンプレックスの支配下に置かれてしまいます。

何かを目にするたび、カッとなって、冷静な判断を下せない。答えが決まっていて、検証しない。こうなると危ないですよね。事実関係がなおざりにされたまま、悪者が作られてしまうかもしれません。

(歴史を紐解くと、そういう状態が、いろんなところであったのではないでしょうか)

こういった意味でも、コンプレックスについて理解を深めることは、個人的にも、社会的にも、意義があることだと思われます。






2.自我の防衛機制



「防衛機制」とは、不安や葛藤・フラストレーションなどから、自我を守ろうとするメカニズムです。あるいは、「心の保護装置」という見方も出来るかもしれませんね。

防衛機制には、「同一視」「抑圧」「退行」「投影」等いろいろありますが、そういうメカニズムを使ってでも、自分を(自我の安定を)守ろうとしているということ。

防衛機制を使って自我が安定することには意味がありますが、それだけだと――あるいは、その状態に留まると――あまり建設的とはいえないかもしれません。その先に進んでこそ、防衛機制にも意味が出てくるし、コンプレックスの肯定的な面が見えてきそうです。(「一時的安定」という意味では大いに意味がありますが、それだけでは成り立たなくなるのも度々です)

コンプレックスはその否定的な面ばかり注目されがちですが、それだけでもないようです。自分(心)を守る為のものでもあるし、さらにその先に進むために必要なことでもあります。


以下に防衛機制の例を挙げます。



【同一視】

これは、他者と自分を無意識のうちに混同することにより、安定しようとする働きです。相手と自分の境界がなくなり、同じように思ってしまう。

受け容れがたいものがある場合、それと相対すると、それを見ざるをえなくなり、しんどくなります。しかし、それと同化し、相手の立場になってしまえば、見ないですむ。この働きで、自我は守られます。あるいは、自分のあこがれる対象と同化することで、一時の満足が得られるかもしれない。

これらは、一時的な安定を得るという意味では、有効です。自我を守り、心の安定を与えてくれる。しかし、状況という意味では何も変わっていないわけで、根本が解決するわけではない。なので、後々には、いろいろと問題が生じます。

対象の嫌な面を意識したくないがために同化した時、その間、自分もその嫌なことをしているかもしれません。あるいは、あこがれる対象に同化していても、そうなるための実際的な努力は、放っておかれているかもしれない。

なので、心の安定が守られた後、自我がある程度成熟してくれば、今度は実際問題という試練と向かい合うことになる。




【反動形成】

反動形成とは、抑圧された欲求と反対のものが強調されて、態度や行動として出てくること。

相手を好きなのだけれど、何らかの理由でそれが抑圧される。好きになってはならないという縛りがあり、そのために、意地悪な行動に出たり、普通じゃないほど過度の無関心を装ったりする。あるいは、何らかの相手を憎むような経験をしたとする。しかし、その憎悪が抑圧され、表面的な態度としてはむしろ、相手に好意を抱くようなものが出る。憎んではいけないという縛りが、表面に、反対のものとして現れる。

この場合、相手を好きだとか、相手が憎いとか、そういった感情が受け容れられないものとなっています。なのに、実際としては、反対のものが表面に出てくる。

この葛藤に自我が堪えられるならば、事実と制約の間で悩むことになります。しかし、そこまで自我が成長していない時、反動形成という自動処理をすることによって、葛藤自体は避けられる。心の安定は、一応は守られます。

しかし、これも、短期的には効用があるものの、根本問題は解決されていないので、やがて問題になってくる。あるいは、自我がそれなりに成長したなら、問題と向き合うような時期が来る。



【投影】

投影、よく聞く言葉ですよね。これは、自分のもっている性質を、他人の性質として捉えること。自分では意識していない欠点や不足、自分が密かに抱いている表面には出せない不都合な感情を、相手のものとして捉えたりします。

よくある例としては、「自分のことは置いといて…」とか、「心の中に棚を作って…」とかいうもの。実は自分も相手と同じようなことをしていながら、それは置いといて、相手を責めます。すごく元気に攻撃する。

これも他の防衛機制と同じように、そんな態度や気持ちが自分にあるということを意識できないので、こうなる。意識すると心の安定に問題が出てくるので、他人事として処理されます。

これはされる方としては堪らないのですが、誰もがする方でもあるので、何とも…。誰もが加害者にもなり、被害者にもなります。

投影には、単に、自分の中にあるものを何かに映す、という意味もあります。上に書いたことも、自分の態度や性質、気持ちなどを、相手に映している。そして、ここに意味がある。

我々は、自分のことをそのまま見れません。他者を見るように、客観的には見れない構造になっている。単に姿というものを考えても、鏡に映さないと見れません。なので、相手に映して見る、ということにも、意味が出てくるんですね。

それが自分と切り離されている間は、相手を攻撃する口実として使われるかもしれませんが、「自分自身はどうだろ?」と鏡を見るように注意深く覗けば、自分自身のあり方を見る方法として、使うことも可能です。

投影という一見、困った行為も、自分のあり方を問うという意味では、非常に有用な方法となり得るのです。そのためには、自分のしたことや自分の中にある感情を認めるという、それだけの自我の強さが必要になりますが。




【投影の引き戻し】

投影している相手の行動や言動に「おや?」と思わされることがあります。あれだけ嫌っていた相手に、意外とよい面や、親しみを感じる部分を見つける。これは人だけではなくて、物事や生き方においても然りです。

今まで嫌っていたり拒否していたものの中に、思わぬプラス面を見せられ、自分の感情や考えが現実的でないことに気づいた経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。これにより、コンプレックスに気づくわけです。そしてこの「気づき」が非常に大事な役割を果たしたりします。

コンプレックスは、認識を歪めます。自動処理する経路を作り、「○○は××」「○○なんて××だ」「そうに決まっている」と、決めつける。これは自動処理なので、ろくに見ないで、確認しないで、そう決めつける。

意識外の所で、特定の○○を見ただけで、決めつけたり、反応してしまう。しかも、感情を伴うので、カッとしたり、ドキドキしたり、訳が分からなくなったりもする。

投影の場合も、「そんなものは…」と否定的な決めつけをすることが多いのですが、そんな中で、今までは気付かなかった意外とよい面が見えてくる。決めつけに、変化が出てくるんですね。「待てよ…」と。 今までは「そんなものは…」と思っていたけど、実は「そんな面もあったのか…」と、思い直す。意識が修正されるわけです。

そして、それを手掛かりに、今までろくに見もしなかったものをじっくり見るようになれば、今まで無視してきた意外といい面は、もっと見えてくる。そうやって、今までより、フェアに見れるようになるわけです。

これを「投影の引き戻し」といいます。

投影というのは厄介なメカニズムですが、それを経てここに至れば、だんだんと変わってくると。先に進めるわけですね。




このように、我々の自我は、防衛機制によって守られています。そのおかげで、心の安定が守られる。

しかしそれは、いわば一時的な処置であって、根本解決ではありません。自我がそれなりに成長した暁には、根本との対決が待っているのです。

根本との対決なんていうと、嫌だなぁ〜と思うかもしれませんが、そうなったということは、それだけ強くなったり成長したということなんでしょう。いわばその時、ってやつです。

問題や悩みは向こうから投げかけられるもので、自我にしてみれば厄介なことですが、その向こうというやつは切り離された存在ではなく、自身の無意識から来ます。

なので、それも実は自分の一部。奥底の自分が、意識的な自分に要請しているのだと思えば、ちょっと感じも違ってきませんか。

それは、「さあ、そろそろやろうか」という、自分の深い部分からのメッセージなのですから。




【防衛機制について】 『防衛機制――守護者と壁の役割』





3.コンプレックスとの対決



このように、今まで書いてきたようなジレンマが、コンプレックスに関する悩みには存在します。

強い感情を伴う経験故に、コンプレックスそのものを意識することは難しい。だから、防衛機制などにより、心を守るメカニズムは、自我を保護する。その保護には意味があるのだけれど、その間、根本問題は棚上げされる。放置されてしまう。

明確に意識したら心が壊れるから、見ないようにする。見ないようにしているから、何も解決されない。

このような布置ができてしまいます。


その間、人間がどうなるかというと、自分で自分をコントロールできないことに悩みはじめます。

コンプレックスは自動処理を作りますから、コンプレックスに関するX(エックス)を見ただけで、その人はカッとなったり、ドキドキしたり、慌てて訳が分からなくなったりしてしまう。意識とは別の反応が出るので、戸惑ってしまいます。

この状態に留まるなら、しんどいばかりです。ずっとこのままなら、救いがありません。しかし、幸いなことに、人間は成長します。そして、自我も成長する。

上で書いたように、防衛機制などは、いわば一時しのぎです。が、その一時しのぎの間に、自我は少しずつ成長することができる。

それと向かい合うのは、幼い自我には無理だった。だから、保護する役割として、防衛機制などがそれを隠した。

隠したはいいが、根本問題は解決されないままなので、問題自体はむしろ大きくなっているかもしれない。しかし、その間にも、自我は成長している。

まるで、物語で国を滅ぼされ、王と王妃を亡き者にされた主人公のように、幼い間はどこかの里に隠され、少しずつ成長しているのです。そして、主人公がやがて旅立つように、自我にも、対決の時が来るというわけ。



このように考えると、コンプレックスに悩んでいる人というのは、「次の段階に行きかけている人」といえるのかもしれません。

もう、保護されるだけの存在ではない。とはいえ、真実を知るのは、痛ましい。その間で、揺れます。

しかし、その揺れを突破してこそ、真の問題と向き合える。根本問題と、対決できる。




治療ということを考えるなら、はじめは症状を話すことから はじまるでしょうか。どうも、感情をコントロールできない。訳の分からない態度や行動をとってしまう。あるいは、疲弊したとか、何が何だか分からないとか。

この状態は、コンプレックスがそうであるように、いろんなものが絡み合って、こんがらがった状態。本人にも、何が何だか分かりません。

普通、何が何だか分からないというのは、本人にも、そして、話を聞く人にとっても堪らないので、先に進みません。表立った症状は意識化されますが、そこで止まってしまう。

しかし、カウンセラーのような「聴くプロ」を前にすると、ゆっくりでも、だんだんと話すようになる。前に座った人は訓練を受けているので、何でも聴いてくれる。

はじめは、症状のことを話す。延々と思えるほど、話すかもしれません。でもそれは、限られた時間の中だからそう思うだけであって、人生という時間を考えれば、そんなに長くはない。

そしてやがて、別の話が出てきます。

ここでは、投影のようなメカニズムが出てくるかもしれません。あの人はこうで、この人はああでと、不平不満や欠点の指摘などが出てくる。ここで普通の人なら聞くのが嫌になってしまうのだけれど、聴くプロは、うんうんとずっと聴いてくれる。限られた日の、限られた時間の中だけど、ずっと聴いてくれる。
するとまた、変化が出てきます。

溜まったものが出尽くしてくると、自然の流れで、核心に近づいてくるんですね。

この時、自我は成長途中ですから、引き返すこともあるかもしれません。例えば、また症状の話に戻ってしまう。でもそれもまた、自然なこと。疲れたら休むように、頑張った分だけ休憩するように、いったん戻っているだけ。そこで急がずに聴いていたら、また、歩みはじめます。

このように、訓練された受け手のおかげで、中に隠れていたものが、少しずつ出てくる。語るというカタチをとって、この世に顕現します。

実際問題ということを考えると、語るだけではすまないのでしょう。感情というものが人と人との間で生じる以上、実際問題もまた、人と人とが関わる。だから、解決に至る道の途中では、人と人との対決という場面もまた、待っているのでしょう。

一般的には、人と人との対決なんてのは避けたい事態とされていますが、投影する内容がそうであるように、これもまた、全部が全部悪いものではありません。

もちろん、痛ましい部分も、危険だって含みますが、「その先」ってものを考えた場合、必ずしも悪いだけのものではない。

そういうこともまた、体験していくことになるのでしょう。それも意識的な行動というよりは、不思議なセッティングとして、そうなるような気がします。





コンプレックスについて書くのは難しいです。なかなか、語りつくせません。

しかし、みなさんの自我がそうであるように、私も――たとえ鈍行でも――成長するだろうと思うでの、その度その度に、何か書いていけたらと思います。

今回は、この辺で勘弁してください。




次回は無意識についてです。

お付き合いいただき、ありがとうございました。





関連記事:
読み物:「コンプレックス――その破壊と創造性」


ユング心理学辞典:「コンプレックス」
ユング心理学辞典:「劣等感コンプレックス」








では、また、次回に…











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