【第七章 ペルソナとアニマ・アニムス】
第七章 ペルソナとアニマ・アニムス
ユングは夢の中に現れる異性像に心理的に重要な意味を見出し、以下のように名づけました。
@ 男性の中の女性的元型を『アニマ』
A 女性の中の男性的元型を『アニムス』
あるいは、男性の無意識にある女性的な傾向がアニマ、女性の中にある男性的な傾向がアニムス、という風にも言えます。また、無意識の人格化ということを考えれば、男性の中に現れる女性像をアニマ、女性の中に現れる男性像をアニムス、と言うこともできます。
このように、それぞれ異性の要素が出てくるわけですが、これとは逆に、前に書いた影などは、夢の中に同性として現れるのを特徴としています。ということは、影は同性であり近しい存在、アニマやアニムスは異性であり、どちらかといえば対極にある存在といえます。影は身近すぎて――まるで背中にあるようなものなので――見えずらい、しかし、アニマやアニムスは、遠すぎて、なかなか出会えないといえるでしょうか。
実際、影は比較的無意識の浅い層にあり、また、個人の態度や経験(個人的無意識)に関係するといいます。しかし、アニマやアニムスは、もう少し深い層に関係するようです。故に、影ほど分かりやすくはない。
また、このアニマやアニムスに対応するものとして『ペルソナ』が、あります。まずはその、ペルソナから話をすすめます。
1.ペルソナ、適切なる仮面
ユングは我々の言ういわゆる『心』について、明確に定義付ける必要を感じ、@ Psyche A Soul という二つの言葉を概念的に区別して用いました。
因みに、辞書による一般的な訳は以下の通りです。
Psyche:霊魂、精神、(ギリシャ神話のプシケー:人間の霊魂の化身)
Soul:魂、精神、霊魂、権化
河合隼雄先生は、この二つの言葉を以下のように区別して用いています。
Psyche:意識的なものも無意識的なものも含めて、すべての心的過程の全体をさしているものであり、これを一応、『心』という言葉で用いる。
Soul:ここでは一応『こころ』という言葉を用いる。ここで『たましい』という言葉を用いなかったのは、これを宗教上の概念としての霊や魂と混同されるのを恐れるためである。
『こころ』とは元型として無意識に存在する、自分自身の内的な心的過程に対処する様式、内的基本的態度である。
「心」とは、今こうして意識して考えたり感じたりするものと、その意識外にあるものとを合わせた、心的過程の全体。意識的なものも無意識的なものも含めた、気持ちなど。
「こころ」とは、無意識内にある元型などに対処する様式。意識の基盤となるもの、その中心。意識的な気持ちの、もっと奥にあるもの。心の核や、芯の部分。
さて、『ペルソナ』ですが、一般には仮面のことをさします。あと、俳優が被る仮面から、役割や役柄などをさすこともあるようです。
(キリスト教の三位一体論によれば、父と子と聖霊という三つの位格をさし、本質(ウーシア)が唯一神の自己同一性をあらわすのに対して、個別性を強調するとも。父と子と聖霊は、共通の本質として神性を持つのですが、それと同時に、他から区別される個体性も持つ。すなわち、三つのペルソナと一つの本質を持つと)
我々は、社会の中で生活しようと思えば、「社会に適応した態度」というのを求められる。また、それ以前に、社会の一員として、無意識のうちにそれを育てています。実は、子供のころから、それをやっている。
小さい頃から、よいと思われる態度は褒められ、そうでない態度は拒否されます。時には、叱られる。実は、これがペルソナを作るんですね。
身近な人に受け容れられた態度は残され、否定的に扱われた態度は、捨てられる。特に幼児にとっては、身近な大人に嫌われる、捨てられるというのは大問題なので、できるだけ受け容れられようとします。だから、気に入られるような態度を、できるだけ残そうとする。
これは社会に対しても同じで、基本的には、社会に受け容れられるような態度は残され、問題とされる態度は修正されます。ああ、これでいいんだ、問題ないんだ、そういうものは残されるし、逆に、自分の立場を危うくするようなもの、みんなから拒絶されるようなものは、捨てられます。
こういうことが半無意識的に行われ、だんだんと、「適応した態度」が形作られる。
ということは、逆に、ペルソナに問題がある場合は、以下のようなことが考えられるのかもしれません。
・身近な大人に一貫した態度がなく、何がよくて何が悪いのか、学べなかった。
・およそ何でも受け容れられたので、悪い態度というものを考えない。
・逆に、多くを否定されたので、区別がつきにくい。
あるいは、ある狭い範囲に適応しきってしまい、その外で新しく適応するのに難儀してしまう、ということも、あるかもしれません。今までのペルソナは、今までの場所にぴったりだった。でも、新しい場所では、場違いな部分があるようだ。そんなギャップに、苦しむといった場合も。
また、特に思春期などは混沌とするもので、あえてペルソナとは逆の態度をとってしまうこともあるようです。これは何というか、ちょっとした生まれ変わりのようなもので、今までを壊し新たなものになろうとするような、そんな何かがあるのかもしれません。本格的な「死と再生」とはちょっと違うような気もしますが、その前段階でしょうか。どちらにしろ、幼児や子供から、男や女、大人になろうとしているのかもしれません。
あるいは、○○の中の自分から、所属を抜きにした、真の自分になろうと、もがいている。
社会で生きる以上、求められる態度というものはあるし、逆に、相手にもそれなりの態度を求めるものです。相手がニコッとすれば、こちらもニコッとする。相手が会釈したり挨拶すれば、こちらも返します。家や学校、会社、プライベートな場などでも、最低限のルールは守ろうとする。明確に意識しているかは別にして、そこにある自分が求められる態度をベースに、行動する。
これは制服などが顕著な例で、学生は学生服やブレザー、セーラー服などに身を包むし、医者は白衣、僧侶は剃髪したり袈裟をまとったりする。調理師、ホテルマン、看護師、理髪師、ウエイターやウエイトレス、それぞれが、それっぽい制服を着ています。
これと同じように、我々はいろんな場面で、それっぽい態度をしているものなのです。また、それから大きく外れるのは困る面がある。(外れることのすべてを否定する気はありませんが)
それぞれの場面で、我々はいろんな態度を前提として、生きていたりします。特に明確に要求されない場合でも、実は、そうしている。そういった暗黙の了解のもと、社会は成り立っている部分があります。
仮面という考え方をすれば、我々は場面場面で、それに相応しい仮面を装着しているわけですね。適したペルソナをつけている。
これは先述の服装に例えると、分かりやすいかもしれません。ある学生は、家では軽装で過ごすだろうし、学校では指定の学生服を着る。また、放課後や休日などには、好きな服を着るかもしれません。あるサラリーマンは、ビジネススーツに身を包み出勤し、家に帰ったら猿股でうろうろするかもしれない。
このように、知らず知らず、ペルソナを使い分けているものです。
仮面とか、仮面を使い分けるとかいうと、マイナスイメージ(態度を変えるのかよ、とか)を持たれることがありますが、必ずしもそうではありません。というか、ないのも困りもの。
家の中と同じように公共の場で振る舞えば、迷惑がられることが多いようです。友達に話すように目上の人に話せば、むっとされるかもしれない。また、教師が家の中でも教師として振る舞うと、家族はげんなりするかもしれません。社長が家の中でも社長だと、どうでしょう? 家の中に社長はいるけど、父親や夫は、なぜか不在かもしれません。
このように、どこでも一緒というのも、けっこう困ることなのです。それなりに、その場その場の態度でいてもらわないと、困る。でないと、息が詰まったり、役割の不在が出てしまいます。
そう考えると、今の世の中、役割の不在というのは多いのかもしれませんね。
一応、名前としてとか、形としてとかは、その役割にある。でも、本当にそれになれているかは別で、実は、不在にも近しいカタチになっていることも、多いのかもしれません。う〜む〜…
このようなものが、ペルソナです。社会に対して適応した態度。その場にふさわしい態度。それらを学んで、時には失敗しながらも修正して、我々は社会で生きています。
ところが、こういうのは「外界に対する適応」ですよね。外に合わせる適応。なので、その反対には、「内界に対する適応」があるはず。実際、外に対する適応に一生懸命になりすぎると、今度は、内なる人間の方が、悲鳴を上げるようになったりします。
非常に大雑把な言い方になって申し訳ありませんが、外界に適応するように「ちゃんとやらないといけない」と思った場合、あまりにちゃんとやりすぎて、人間の部分がまいってくることもあるようです。
「ちゃんとやらないといけない」、そう思うことは必要で、あまりにゆるいと問題が出てくる。しかし、そのゆるさがあまりに締め出されると、キツクなってくるんですね。確かにちゃんとやれている。しかし、心は…。しかし、体は…。
意識の力があまりに強い時、確かに、ちゃんとやれるかもしれませんが、心や体の声が聞こえなくなります。それらの悲鳴に、気づけなくなったりする。そして、かなり危険な状態になって初めて、「あっ!」となる。
このように、ペルソナはペルソナで大事なのですが、それのみになってしまうと、危ないのです。仮面の下の人間の部分が、無視されてしまう。
前にも書きましたが、ペルソナが夢に現れる場合があります。
例えば、ペルソナについてあまりに無頓着だと、裸の夢を見るかもしれません。服を着ずに外出するような、そんなばつの悪い思いをします。
あるいは、場にそぐわない服を着て赤っ恥をかくような夢も、見るかもしれません。この服を、態度や行動として置き換えたら、どうなるでしょうか?
また、鎧をまとった夢とか、トゲのいっぱいついた服などといった、夢を見ることもあるかもしれません。鎧は戦う時には必要ですが、他の場合では、どうでしょうか? トゲがありすぎると、どうなるでしょう?
夢は実生活そのままを描きはしませんが、何かのカタチを借りて、あり意味ではそのままのように、表現しようとします。目に映った像という意味では、そのままではない。でも、そこにある意味としては、そのままだったりする。
今まで書いてきたようなことを踏まえ、ユングは以下のように定義しました。
@ 外界に対する適切な根本態度を『ペルソナ』
A 内界に対する適切な根本態度を『アニマ』『アニムス』
人は裸で歩き回るわけにはいかないので、その場その場で、それなりの格好をします。それが、ペルソナ。世の中に対して、適切な態度をとろうとする。が、その一方で、内的にも、適切な態度が存在するというのです。
男性の場合、そのペルソナはいわゆる「男らしい態度」であらわされます。一般的には、力強く、論理的な態度を期待される。(近年では必ずしもそうでない気がしますが、ユングの時代の西洋文化を背景に、そのまま進めます)
男性はそのようにあろうとし生きるのですが、実は、それだけではバランスが悪い。男という意味では完成されるのかもしれませんが、人間という意味では、むしろ欠損を抱えることになります。半分は足りているのに、もう半分は全くないことになる。そこで、それを補うものとして、アニマが出てくるんですね。
意識的な態度から目立って欠けているもの、意識や日常生活から締め出されているもの、それが内界の心像として現れてきます。それが男性の場合、アニマなのです。
(ここでいう締め出すは、影の抑圧とは意味が違い、本人も納得の上で手を付けていない、あるいは、必要としていない。そうしたいけどしないようにしている、ではなくて、単にしていないもの)
一方、女性の場合、一般には、やさしく柔和な態度が望まれます。(これも現代ではそうも言えませんが、このまま進めます)。女性らしいペルソナを構築しようとした場合、締め出された人間の半面が出てきます。人間という要素のうち、男性的傾向が締め出されるので、これまた半分しか生きていないことになる。
この半分が、女性の場合、アニムスとして生じます。
人生の前半では、ペルソナを構築するのに一生懸命なので、アニマ・アニムスは眠ったままです。しかし、ペルソナがある程度できてくると、起きだしてくる。ペルソナにより、人間の半分は足りてきた、今度は、残りの半分の番だ、というわけです。
ただ、このアニマやアニムスは、無意識の要素であり、意識的な態度とは反対だったりするので、自我は大きく揺さぶられます。アニマやアニムスが活性化されてくると、逆の態度が強調され、自身や周囲を驚かせる。また、タイプ論でもあったように、今までと反対の態度には慣れていないので、その有様は、危険なものになったりする。
合理的に何でもこなしてきた男性は、急に、ムードや感情に呑み込まれ、道を誤りかけるかもしれません。あるいは、やわらかい印象だった女性が、急に社会的な運動に参加し、戦士のようになるかもしれない。このような、前からそうだったではない、急にそうなったという事象が、アニマやアニムスにより、引き起こされます。ペルソナによって作られたものを壊すようなことが、生じるかもしれない。そんな強い力、抗しがたい力が、どうも、アニマやアニムスには、あるようです。
ペルソナが強くなりすぎても困ると、上で書きました。
そういえば、その昔、アニメ「ムーミン」で、「笑い仮面」というエピソードがあったのを覚えています。物語の詳細は覚えていないのですが、確かスニフが仮面をつけたはいいが外れなくなり、どこかの異世界に旅立たねばならなくなる、そんな話だったと思います。これが子供心に怖かったのを覚えています。おどろおどろしかったですね。そして、その仮面を外す鍵になったのが、ある人間らしいものでした。仮面を外したのは、人間の奥からあふれるものだったのかもしれません。
「適応」というのは、生きる上において大事なテーマになりますが、何に適応するかによって、変わりますよね。「公」に適応すれば、やりすぎると、「個」の適応を阻害するかもしれない。逆に、「個」に適応しようとすれば、「公」との軋轢を生むかもしれない。「場」に適応する時、場合によっては、場からはみ出る感情や、場からはみ出る道理が、蔑ろにされるかもしれません。逆に、自分の感情や道理を大事にする時、場からは、冷ややかな目を向けられるかもしれません。
そう考えると、一概に、何がよくて何が悪いとは、言いにくいですよね。どちらも、プラスとマイナスを含んでいる。ただ、問題になるのは、人はそれに対して無意識であることが多い、という点かもしれません。
人は、どちらか一方に適応することに一生懸命になって、もう一方との適応を忘れることが多い。それを忘れ、故に不具合が生じているのに、それを見ようとはしない。そんなところが、人間にはあるのかもしれません。
かたくなにペルソナを被ることを拒否し、それで問題が生じているのに、被ろうとしない。あるいは、ペルソナを脱ぐのを拒否し、それが問題となっているのに、脱ごうとしない。そういったところが、あるのかも。
そして、無意識が、それを何とかしてくれる。
無意識はどうも、混ぜようとする傾向があるようなので、一面的になった態度は、何らかのカタチで補償される模様。そしてそれは、人間を生かすという意味ではいいことなのに、目の前の事象にこだわる我々人間には、困ったことのように思えてしまう。だから拒否し、いらぬ悩みや問題まで、背負い込んでいる。そんな部分が、あるのかも。
だから、無意識が何かを足そうとしてくれている、補償しようとしてくれていると考えれば、ちょっと変わってくるかもしれません。
ある男性が「男らしい」という強いペルソナに支配されるとき、それは内なる「女らしさ」というアニマにより、平衡が保たれます。そして、女性の場合は「女らしい」という強いペルソナに支配されるとき、内なる「男らしさ」というアニムスにより、平衡が保たれる。しかし、これが同一視として働くとき、危なくなることも。
アニマの目的は、男を女にしたり、女らしくすることではないのでしょう。また、アニムスの目的も、女を男にしたり、男らしくすることではないと思われます。
両者の真の目的は、欠けた部分を足すことであって、逆転させることではない。方向だけを変えて同じことをさせることではない。やりたいことは、今まである上に、さらにないものを足すこと。補完することです。その過程で、揺れたり迷ったりするのはありなのですが、反転するだけでは、意味は薄いようですね。
関連記事:
「ペルソナ 人生の諸段階/ユング心理学概説(5)」
「養育者の影響/エニアグラム」
「シリーズ うつ病の目次」
2.アニマ
上でも述べたように、男性の中の女性的元型を『アニマ』と呼びます。
アニマは男性の中の、「無意識下に抑圧したもの」や「劣等なもの」と結びつきやすく、タイプ論でいうところの劣等機能と結びつくことが多いようです。(実際に「劣等なもの」というよりは、価値が低いと思い込んでいるようなもの、まだ開発されていないようなもの、ですかね。あるいは、欠けているものという見方も出来そうです)
例えば、思考型の男性の場合、劣等機能である「感情」と結びついてアニマが現れます。
人間の全体性というものを考えた場合、「無意識下に抑圧したもの」や「劣等なもの」というのは別の見方をした場合、「今足りないもの」という捉え方もできます。それを生きていない部分。そして、開発の余地。
ということは、それらによって、自我の一面性が補われる可能性を有している。
思考型の場合、自我は思考機能に重きを置き、感情を過小評価しているのですが、「人間」というものを考えた場合、当然、感情も必要なわけで、今は過小評価している感情機能と向かい合い、それを補うことで、より完成された人間へと向かうわけです。
(そういうことが、各タイプで行われる)
そういう意味で、アニマは本来「人間元型」であって、男性的自我を持つ人が今は足りない女性的要素と出会うという意味で、内的な女性像として現れる――そう言えるのかもしれません。
アニマは女性的元型で、女性の姿で現れる場合が多いようですが、必ずしもそうだとはいえず、「ムードある音楽」であるとか、「白鳥の乙女」などの動物の姿で現れる場合もあります。(そういうものの姿を借りて顕現し、自我との接触を図る)
この「アニマ」は現実世界において投影されることもあります。
孤高に社会に対して戦う男性を心から信じ支えることで、百万力以上のものを与えるアニマもあれば、社会の成功者を甘く誘い、破滅への道に至らせるアニマもあります。(この辺は、現実世界でも、物語の中でも、女性像のモチーフとしてよく登場するように思います)。また、いわゆるお堅い人が、娼婦のような女性に溺れることもあるし、好色家の人が、清楚な乙女に心奪われることもあります。
ここで共通するのは、理屈ではないということでしょうか。それこそ、出会った瞬間に、「!」となってしまう。びびっと来て、「これだ!」となる。
そしてそこには、補償作用の存在を感じるかもしれません。意識的な態度に目立って欠けている部分が、うってつけの相手に投影され、惹かれてゆく。ということは、アニマという人間元型が、その人に足りない部分を補おうと活動しているともとれる。
そうなると、アニマというのは、眼前の相手の中に見出しながら、実は自分の中に存在するのだ、ということになる。したがって、相手を追いかけたり、惹かれたりしていても、実はその核は、自分の中にあることになる。
アニマにとり憑かれると不毛なことになったり、場合によっては怖ろしいことになったりしますが、これにも上記のようなことが影響していて、実はアニマの望むところは、己の中にあるアニマに象徴される部分の開発なのかもしれません。
それは相手を追いかけることではなく、相手に望むことでもなく、実は、アニマを自分の中に、自分の生き方に、組み込むことなのかもしれません。
さて、このアニマには「発達の過程」があります。
しかし、その過程に至る前の段階もあるので、まずそれから見ていきましょう。
【母親の像】
アニマの前段階として「母親の像」が現れます。これはアニマの母胎となるもので、母親の「あたたかさ」「やさしさ」「柔和さ」「甘さ」「いつまでも子を独占しようという烈しい力」「抱え込み」「呑み込む力」などがあります。
太母(グレートマザー)という元型がありますが、この母なるものが持つ「甘さ」「すべてを呑み込む性質」ゆえに、アニマの段階まで進めないケースも多いようです。(その呑み込む力が、渦として夢に現れることもあるようです)
太母元型の中には、子を思う「やさしさ」や「愛」の裏に、子を「独占したい」「同じところにくくりたい」という思いもあり、それに対する子の思いの中にも、やさしさや愛に対する感謝の気持ち、自分を縛り独占しようというものに対する非難や反抗の気持ちがあるため、太母元型と向き合う人は、これらのジレンマに苦しむようです。
この深い愛と、その裏にある否定的な面、両方を有する太母と対決するには、慈しみが深いほど、より断固とした決意が必要になるのかもしれません。(故に、深い感情を伴なうようです)。時に、「すべてを包み込む」力に対し、「切る」力が必要とされます。(前者は母性、後者は父性ですね)
このようなアニマの前段階に囚われると、同性愛に走ったり、安い色事師になる場合もあるようです。「色事師」はアニマでは? という人がおられるかもしれませんが、とっかえひっかえ女性を変えながらも、実は内面で母なるものの温もりを求めている人もいるかもしれません。(あるいは多くの女性と関係を持つことで女性を支配していると思いながら、実は太母元型に支配されており、「反動」という名の「逃避」に走っている場合もあるかもしれません)。女性と遊びながら、実は太母の手のひらの上で踊らされていたりします。特に、女性と関係を結ぶことで、女性を「征服した」と思ってしまうような場合は、この類なのかもしれません。
(といっても、そうなるにも事情がありそうですが)
【母親代理の像】
「母親の像」とアニマとの間には、「母親代理の像」が現れます。これは「いつもやさしい近所のおばさん」や「やさしい親戚のお姉さん」といった像です。この像は、母親の延長上にありながらも、外界にいる女性の魅力へとつながるのを、感じていただけると思います。また実際に、幼少の頃、母親のやさしさから、これら「母親代理」のやさしさに触れ、行動範囲や興味の範囲を外に広げた経験は、誰しもあるのではないでしょうか。
ここでもお分かりいただけるように、あまりに母親の愛が深いと、この段階を通るのを困難なものにしてしまうようです。勿論、「愛がない」のが、よいわけがありませんが。(愛がないのも困るし、愛も強すぎると支配的に働いてしまうし、この辺は難しいですね)
また、その一方で、子の方が強くなることも望まれます。そして、その強くなることには、時に非情になることも含まれます。(この辺が、更なる感情を生みます。しかし、必要なことでもあります。親子愛が深ければ、尚更かもしれません。前述の「切る」力ですね。切ってでも、自立したり成長したりすることが望まれる場合もあるでしょう。作為的なものではなくて、自然の流れとして、ですね)
このような流れが自然に進めばいいのですが、なかなかそうならない場合もあるようです。「なかよく」とか「やさしく」とか「一緒に」というのは、社会的にいいものとされているので、それが囲う力と結びついて、強固なものになる場合がある。そして親も子も、よいことと信じてくっつぎ過ぎ、逆に、切る力を抑え込もうとしてしまう。
ここに悪意はなく、むしろ善意の方が大きいとは思うのですが、結果として、抱え込んだり、呑み込んだり、ということになってしまう。本人に子を独占しようという気持ちはないものの、結果として、そうなってしまう。
表面的には、「早く結婚したらいいのに…」、「早く独立しないかしら…」などと言いながら、それが果たされないこと、いつもそばにいることに、安心している面があったりする。あるいは、見えない部分で干渉していたりする。
意識しないところで、太母の負の面が活動していたりするんですね。母性には、いろんな面が包含しているのです。(方向は違えど、父性だってそうです)。
ただこういうのは、善悪の問題ではなくて、母なるものに生まれて宿命と言った方が、しっくりくるかもしれません。親になる喜びもあれば、親であるための悲しみもあるのです。これは理屈ではなくても、もう、どうしようもない部分ですよね。
何かの悲しみを避ければ、もっと悲しいことが起きたりするし。
別れを避ければ、根本的な、取り返しのつかない別れが、来るかもしれません。
自立や卒業、そういったある段階を超え前に進むことには、古代社会だと、儀式(イニシエーション)が一役買っていたのかもしれません。何らかの特別な儀式を経ることで、大人になったり、大人社会に入ることができる。そこで、「前」と「これから」を、明確に区切ります。ある意味では、強烈な体験を経ることで、内的に変容する。
しかし、現代になって儀式は消失し、形だけのものになってしまったので、このような強制的な自立や卒業が、困難になってしまったのかもしれません。昔なら、放っておいても前に進むことになったのが、現代では、少し違ったものになってしまっている。前に押し出すのは押し出すのだけれど、より形式的になり、内面の変容というものは、なおざりになっているのかもしれません。
また、それ故に、中年の危機のような、内面の変容のやり直しのようなことが、顕在化している。
(まんざらそれが悪いことだとはいえませんが)
このように、「つながること」の大事さが説かれる今の世の中ですが、それには負の面もあって、実は同じくらい「切るということ」も大切なのかもしれません。
つながることには安心が含まれ、切ることには痛みや悲しみが付随しがちですが、つながることばかりに一生懸命になると、やがて安心は消え去り、不安だけが残るかもしれません。また、切ることを避けた代償に、より大きな痛みや悲しみがやって来るかもしれません。
そういうことは誰しもうすうす気づいていることではないかと思うのですが、それを避け続ければ、それはやって来るのが常です。そして、そういった本質的な破滅を避けるために、実は無意識が活動している。
象徴的な悲しみや死を体験することで、本質的な悲しみや死を避けようとしているのです。(分かりにくいかもしれませんが)
さあ、この段階を通って、アニマの「四つの段階」に入ります。すなわち、「生物学的な段階」「ロマンチックな段階」「霊的な段階」「叡智の段階」。
【生物学的な段階】
初めに「生物学的な段階」があります。これは文字通り、(生物学上)女性であれば何でもいい段階。ともかく女性であること、子を産めること、などが重要になります。また、その「性」の面が強調されるために、娼婦のイメージで現れることが多いようです。その「肉」の面、また子を産むという「土」の面が強調されます。
若い時に最初に至るのが、この段階ですよね。どちらかというと、女性の肉の面に惹かれる。また、一昔前に重宝がられたのは、子を産むという土の面。そこばかりが強調されたところがあるので、今になっていろいろと思う人は多いかもしれません。
これはアニマの最初期の段階なのですが、言葉のとおり、生物学的に必要な部分ですよね。人間が繁栄するには、異性に惹かれたり子を産んだりする機能がないと、成り立たない。そういう意味で、人間の根底をなす部分といえるでしょうか。必要不可欠な部分。
ただ、そればかりになると当然、反発を喰らうようです。
根本的に必要な部分であり、ただ、それだけではない部分。その先がある部分。それが、生物学的な段階でしょうか。
【ロマンチックな段階】
この段階には愛があります。女性の人格を認め、それに対する厳しい選択と決断が要求される。
女性に惹かれ、心揺れることもあろうかと思いますが、これがロマンチックなのか、単にセンチメンタルなのか、分けて考える必要があるでしょう。一般的には、ロマンチックには「甘美なさま」のイメージがあるのに対して、センチメンタルには「感傷的」なイメージがあります。
夏目漱石の『三四郎』の中に、「 pity's akin to love 」という言葉が出てきます。与次郎のへたくそな訳は別にして、この言葉から感じるところは多いのではないでしょうか。(佐々木与次郎の訳に対する、広田先生のリアクションがよかった…(笑 )
このロマンチックなアニマは、一般には古い日本にないものでした。なぜなら「家」を大事にする日本の伝統は、アニマをこの段階にすることを許さなかったから。日本古来の、家というものや風習は、妻を生物的な段階に留める傾向があったようですね。「家を存続させること=子を生むこと」が第一に考えられ、母なるものの人格はあまり考慮されなかったのかもしれません。(あくまで傾向で、これがすべてでもありませんが)
当時の日本では、妻に「人格」を与えず、その代わりに「妻の座」を与えました。しかし、男性は妻にないロマンチックを外に求め、芸姑さんなどが誕生したともいえるでしょうか。(こういうことを鑑みると、今になって女性が反発し、自らの地位を獲得しようとするのも、うなずける部分があります)
何というか、家というのは母性のひとつの体現のように思うのですが、その中に、男も女も、そして子も、囲われていた部分があるのかもしれません。その中にいることで、みんな安全でしたが、本当の意味で男になる、女になる、そういう部分が、なされなかったのかもしれません。
そして今、いろんな事情で、家というものが解体されてきた。しかし、家の庇護なしに、男になる、女になる、そういう仕事をやってこなかったわけで、今からやろうとする人、やらねばならなくなっている人、そういう人は、苦難に立たされているのかもしれません。最初にやる人は、なかなかたいへんなようです。
昔ながらの家という守りなしに、父になり、母になり、というのは、たいへんなようですよ。現代というのは、ひょっとしたら、その真っ只中かも。故に、いろんな問題が出てきているようです。
【霊的な段階】と【叡智の段階】
「ロマンチックな段階」に続く第三の段階は「霊的な段階」です。これは、主に「聖母マリア」によって表されるといいます。この段階では、性的なものが「聖なる愛」に昇華される。これは聖母マリアがもつ、「母なるもの」でありながら「処女」であること、「母の愛」を持ちながら同時に「乙女の清らかさ」を持ち合わせるという性質に示されるでしょうか。
これも、アニマの前段階である「母親の像」との混同を避けなければなりませんが、「霊的な段階」の像には「肉」のイメージが殆どないように思います。また、血のイメージもない(痛みとしての血はあるかもしれませんが)。そしてここに、ある種の感動のようなものがあるのではないでしょうか? 母といっても狭い範囲の個人的な母性ではなく、広く深い無償の愛に基づいた母性なのでしょう。そこには人間的な、条件付の愛はありません。何人をも赦す、無償の、無条件の、そんな愛が、そこにある。(深くて広い愛ですね)
そして、この段階の次に「叡智の段階」があります。
これを表すものには、西洋では「軍神アテネ」の像、東洋では「弥勒菩薩」の像がある。女性でありながら、男性性も持ち合わせ、深い慈愛とともに、叡智をも感じることができます。(弥勒菩薩をはじめとする菩薩像の性別について私は語るほどの見識を持ちませんが、私のイメージとしては女性性をベースとした深みを感じます)
人間的な愛は、よく見てみると、多分に個人的な面がある。個人的な感情、個人的な価値観、個人的な都合や事情があったりする。なので、強すぎる愛は毒に近くなることもあります。
しかし、聖母マリアに代表される霊的な愛や、アテネや弥勒菩薩に表わされる叡智の愛は、人間のそれを超えている。個人的なものを超え、普遍的なものに至っている。故に、強いというよりは深くなり、また限定したところもなく、毒にはならないんでしょうね。
上記のような「アニマの四段階」は思考や理論によってのみ考え出されたものではなく、むしろ経験によってもたらされたものだといいます。つまり実際の夢分析の現場などで経験されたものだということ。
そして、この四段階を終えたとき、アニマは像として現れるのではなく、むしろ一つの『機能』として、我々の自我と自己を結びつけるものになるようです。
相手の中に見出すだけではなく、相手に望み追いかけるだけでもなく、それを自分のものだと認識し、また、空想だと切り捨てることもせず、それを何らかのカタチで表現することを覚え、やがて、自分の中の機能として定着させる。
こうして、欠けていたものが、補完されるわけですね。
【アニマの統合】
アニマを自身に統合させることは、ある意味においては、男性に弱さを経験させるものといえます。どんなに強い人間でも、弱い部分は持っているはず。思考型の人間なら、劣等機能である感情が弱い傾向があります。その弱さと結びついたアニマを認識することで、自身の弱さを認識し、体験するのです。(あるいは、弱さの中に、今まで知らなかったような良い面を見出すことになります)
アニマは、今までとは逆の態度を意識させる。今まで、欠けていた傾向を、意識させます。
人はそれを、はじめ相手の中に見出すのですが、そうしながら、自分の中にあるものだとしていくのです。(投影を卒業すれば、ということになりますが)
強いものは弱さを知らねばならず、弱いものは強くならねばならない。合理性を獲得した者はそれ以外についても知らねばならず、感情やムードに流されやすい者は合理性を身につけねばならない。そんな仕事を、アニマやアニムスは手伝ってくれるわけです。
足りない部分が足されることによって、人は成長できる。現状を打破できます。
こういった流れを「統合」というのですが、それはふたつのものをひとつにすることなので、同一化は避けるべきものとなります。新しいもの、未知のもの、対極にあるもの、単にそれになるということではなく、今までとそれを統合させる。
思考を棄て感情に走るのでもなく、合理性を棄てムードに流されるのでもなく、あるいは逆に、感情を棄て硬くなるのでもなく、雰囲気を棄て形式ばるのでもなく、今ある上に、新たなるものを足します。
それは難しいことですが、それ故に、価値があるんですね。
逆に、単なる逆転では、堂々巡りになってしまいます。
【対決のとき】
後にアニマを発達させるにせよ、まずはペルソナを鍛えるのが先でしょう。男性ならば、強さ、判断力などが要求されると思います。まずその期待に副える(そえる)だけのペルソナを磨くことです。そしてその後に、アニマを発展させるのです。
(といっても、男性ならばみんなそうやるべきだというのではなくて、要は、持っているものをはじめは鍛えましょう、というわけ。はじめに持っているものが別ならば、そちらからはじめればいい)
ユングはアニマの発展の時期を、35歳から40歳以後、と言っています。これは勿論、個人差や文化差があるでしょうが、それまでは十分にペルソナを発達させることになるということなんでしょうね。
ペルソナという基礎を得て初めて、異なる存在と付き合えるようになると。
【おもしろいアニマ】
河合隼雄さんが、以下のような面白い事例を挙げてくれています。
「アニマは女性にだけ投影されるものではなく、物にも投影されます。その典型的な例がアメリカにおける車でしょう。男性は競って素晴らしい車を買い、それを世話し(彼らはまさに、車を世話し、愛撫するのです)、それについて友達と話し合うのです。考えてみると、男性化したアメリカの女性に比べると、自動車のほうがはるかに女性らしいといえるが、近代の合理主義の産物に、非合理な感情の投影をしなければならないのは気の毒な感じを抱かせる。またこれは日本人にもいえるだろう」
なるほど、車に限らず、多くの人が、釣り道具やゴルフクラブ、いろんな趣味のものを、大事に扱い、頬ずりするように接しますね。形は違えど、何かにそうする。
人間のそれはなかなか厄介ですが、趣味のそれは文句を言いませんしね。要求もしてこない。
これは男性の問題なのか、女性の問題なのか、難しいところです。というか、両方の問題なのでしょうね…
【閑話】
『夢の中のアニマ』
アニマも夢に現れることがあります。そのひとつを紹介します――
「深い森の奥に、朽ちかけた大きな樹があった。
そこに蝶の乙女が眠っている。
蝶の乙女は、今は、弱っている。
今は、サナギのように、その朽ちかけた樹にとまっている。
わたしは、蝶の乙女を元気にするには、樹の樹液を回復させる必要があるのを知っている。
蝶の乙女は、樹の樹液を吸って、回復し、真の乙女になるのだ」
この夢について、解釈じみたことは敢えて書きませんが、これを読んで、感じることは多いのではないでしょうか。
3.アニムス
ユングは、女性の中の男性的元型を『アニムス』と呼びました。
アニムスは無意識内の劣等な論理性や強さと結びついて現れるといいます。このアニムスは、論理性や強さを持つものの、あくまで劣等ですから、未熟なかたちで発現されやすいようです。(劣等というと感じが悪いですが、十分鍛えられていないので、まだ幼いのです。あるいは、不慣れ)
アニムスは「例外を許さぬ頑固な意見」として現れることが多いようです。(しかも、ちょいと突付かれると論理破綻するような場合が多いかもしれません)。ユングは「アニムスは意見を形成し、アニマはムードをかもし出す」と言っていますが、実に的を射ている。
アニムスに取り付かれた女性は「〜しなければならない」「〜すべきである」と意見を述べます。大声で叫ぶようになる。ただ、これは一般論としては正しくても、個々の現実問題に対しては適していない場合が多く、それゆえに、この未熟で頑固な意見に対し、男性からの感情的な反発を買うことも度々です。あるいは、「A=C」であると訴えますが、A と C の間に合理的なつながりがなく、そもそもの法則が破綻していることもある。
(ただ、こういうのは女性特有のものではなく、もともと論理性を持たないタイプは、男性であれ女性であれ、このようになったりします)
そしてさらに、これに反発する男性が、意見とか論理とかを十分に発達させていない場合、「未熟な論理」対「未熟な感情」という、果てのない泥仕合が続くことになる可能性も。また、たとえ合理的な人が諭すように説明しても、アニムスが十分の育っていない場合は、ただ頑固なだけで、堂々巡りになってしまう。間違った前提のまま、邁進されてしまいます。
(これがニセ科学に結びついた場合は、そこに不可思議な合理性と確信が見いだされ、論理的に証明されないものが、とても力を持つことになってしまう)
さらに頑固な女性とそれを支持する男性というペアになると、余計に訳が分からなくなる。父性の喪失が叫ばれる昨今ですが、身近な者に対して「それは違う」とはっきり言うことが、望まれているのかもしれません。最近は、社会など、実際に顔や名前を持つ個人ではないもの、あるいは、医者や教師、警察官などが悪者にされることがよくありますが、モンスター化した人がそれらを攻撃しようとする時は、身近な人が止めるのが一番被害が少ないように思います。
あと、家庭の父性が著しく欠ける時、本来母性の体現者となるべき人が、父性をも行使しなければならなくなり、結局、どちらも育たなくなるといった事態も、あるのかもしれません。
そのように考えると、父になる、母になるということは、とても大事なことのように思えます。人はやがて、呼び名や記号ではない、役割をしっかり体現する人としての、父になり、母になることが、望まれる。
と、脱線してしまいましたが、アニムスにも発展の四段階があります。すなわち、「力の段階」「行為の段階」「言葉の段階」「意味の段階」です。この言葉は、ゲーテの『ファウスト』からきているそうです。
【力の段階】
これは男性の力強さ、とりわけ「肉体的」力強さに根ざしたもので、アニマの「生物学的な段階」と同じく、比較的低級なものです。人格は抜きにして、その肉体に惹かれ、価値を重くする。
但し、これも蔑ろにされていいものではなく、通過点として大事な段階です。生物という意味においては、必要な要素。安易に否定することはないでしょう。ただ、ここに留まるか、次に進むか、ということになってくる。
(現代においては、必ずしも「力」に魅せられるばかりではなく、もっと広い意味で「容姿」や「表層」とも取れますかね。次に述べる「行為」は抜きにして、その前段階で惹かれるわけです。していることは不問にされている状態)
【行為の段階】
これは肉体のみならず、強い意志によって支えられた勇ましい行為の担い手としての男性像として現れます。容姿や表層に囚われるばかりでなく、その人の生き方や行為に関心が行きます。実際に何をしているかが、問われる。
アニマが退行して現れる場合、エロチックな空想として現れることが多いのですが、女性の場合は、頼もしい男性の出現による(空想的な)未来の人生設計というようなかたちで現れることが多いようです。この素晴らしい考えによって、女性は「女性も職業を持つべきである」とか「自分の夫は一流の大学を出て、高尚な職業に就き、高収入を得なければならない」というような頑なな意見が形成されることも。
このような願望が強くなると、それとの比較によって、現実世界のものが無価値に感じてしまうこともあります。何に対しても批判をするうち、ついにはその批判が自分に向けられ、自分が無価値な人間のように感じてしまうこともあるでしょう。そして必要以上に卑下して、過去を振り返り、「大学に進学しとけばよかった」「あの人と結婚しとけばよかった」「〜しとけばよかった」と、非建設的な回想を繰り返します。この辺は、グリム童話の「つぐみ髭(ひげ)の王様」にもよく表れているモチーフかもしれません。(「つぐみの髭の王さま」 参照)
まだ批判が自身に向けられているならいいですが、自分の内面を見たくないがために、新聞や週刊誌の記事を材料に、犯人を作り出しては、攻撃するといったことを続けることも。(この辺は、男女の区別なく、ですが)
しかし、アニムスはこのような否定的な面を持つだけではありません。女性の中にある願望に満ちた考えは、未知の可能性を引き出したり、新しい考えに対し偏見のない態度で接することにより、建設的な効果を発揮することもあります。男性が思考のみに囚われて保守的に働くとき、新しい可能性に意義を認めて革新的な行動に参加する女性が現れ、影の推進者になることもあります。
【言葉の段階】と【意味の段階】
アニムスが真に女性にとって意義を持つのは、このふたつの段階です。現代の時代背景にも支えられ、女性は「言葉」「意味」の段階のアニムスと対決する時に来ているのかもしれません。
アニマの特性が「協和」を示すのに対し、アニムスは「認識」「判断」という切る能力を示します。(いわゆる父性の傾向ですね)。差を明確にし、何にでも正誤の判断を下そうとするその姿は、「剣」の姿で現れることがあります。(切って、分けて、認識し、分類します)。この剣は、一見、社会や男共を蹴散らすものでありながら、注意しないと自身の中の女性を切り殺している場合が多々あるので注意が必要。(実際、男女同権をうたいながら、よく聞いてみると、女性を蔑視していたり、女性性を殺しているのを目にするのも度々です)。そして、そのようなアニムスの剣は人からの借り物でしかないようです。実際、その意見が、新聞の社説や、ニュースの謳い(うたい)文句から来ている場合も少なくありません。しかも、その表層に囚われているがために、本質を見失い、間違った使い方をされている場合も多いようですね。
また、このような態度が、例外のない頑固さや、自分も他人も赦さない心として現実世界に現れるのも、興味深い事実です。それが夢の中で表現され、とげとげしい鎧や、近づく者を殺す剣などとして、現れることも。
このようにアニムスの開発は困難なものなのですが、この困難な作業をすることなく、女性としての満足を見出す人もいます。すなわち、家事や子育てに幸せを見出す人です。このような人を責め立てる同性もいるようですが、それで幸せならば、それはそれでいいように思います。
ただ、アニムスはいつ活性化するか分からないので、それに満足していた人でも、急に変貌するかもしれません。
現代社会の文化の向上や、豊かさは、「時間の余裕」を生みました。今まで考えなくてもよかったことも、考える時間ができたのです。また、家事や子育てに費やしていたエネルギーも、文明の力を借りて、今までよりは「余る」結果になりました。
このエネルギーが低級なアニムスと結びついた場合、肉体を求めるという行為に走ることもあります。そして「肉体の結合」と「こころの分離」を経験し、傷つくことも。
一般の主婦の方は、このような肉体を求めるだけの冒険はせず、せいぜいドラマの中で発散させるだけのようですが、余ったエネルギーが子供へと注がれ、過剰な期待へと変わっていくこともあります。(現実の夫にアニムス像を見出せないため、それが子供に向けられる)。かくして、多大な願望に彩られた考えはすべて子供へと投影され、子供は母親のアニムスに沿って生きねばならなくなります。内的に幼い母親を救い出す「白馬の王子様」の役割をおおせつかるのです。
アニマにしろアニムスにしろ、それが自分と切り離された時、それは相手のこととされ、多大なものを求めるようになる。そして、得られないと、不平不満を言ったり、嘆くことになります。男女ともに、そうしてしまう。
しかし、アニマ・アニムスの真の目的は、それを自分のこととして捉え、育てることなんですね。投影を卒業し、自分の機能として組み込んでゆくことです。
アニムスの場合は、やがて、言葉や意味を獲得することが望まれている。アニマとの対決を通して合理性を育て、借り物ではない、自分の言葉、自分の存在意義、そこにある意味を見出すことが、本当は望まれているのです。
そしてそれは相手や社会に不平を言っているだけでは、得られない。外に向けているエネルギーを自分に向けない限り、どうにもならないのです。
人間の幸福を考えた場合、アニムスには気がつかない方がいいこともあります。しかし、一度気づいてしまったものは仕方ない。これはアニマ・アニムスに限ったものではないですが、一度気づいたら、魂はなんとしてでも振り向かせようとします。ある種の症状をもってしても、です。そして裏を返せば、その人はその困難に立ち向かうだけの価値のある人だとも言えるのです。その困難や葛藤に耐えるだけの可能性があるから、そこから何らかの答えを導き出す可能性があるから、そのような困難や葛藤の中に身を置いている――そういう捉え方もできます。
このように、アニマ・アニムスを開発するのは非常に困難な作業です。うかつに同一化してしまえば、男性は女々しいだけのものとなり馬鹿にされ、女性は女性らしさを失ったものとして非難されるかもしれない。あるいは単に、肉におぼれるだけになってしまうかもしれません。
しかし、一度この問題を知ってしまった以上は、そのような同一化の危険を冒してでも、自身の中のアニマ・アニムスを統合しなければならないのでしょう。その苦難の道の先にこそ、成熟した男性・成熟した女性があるのです。
そして、男性として、あるいは女性として、強さも弱さも含んだ、より完成されたものとなる。
これこそが『自己実現の道』であり『個性化の過程』なんですね。
男性、女性を越えた、真の(完成された)人間になってゆく。
次回は、アニマ・アニムスとも深い関わり合いを持つ、「自己」や「個性化の過程」について語りたいと思います。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
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では、また次回に…
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