【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング

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このページでは、「やさしいユング心理学講座 記事:心理療法の持つ可能性、懐の深さ…」についての紹介をしています。

【記事 心理療法の持つ可能性、懐の深さ…】




記事 心理療法の持つ可能性、懐の深さ…





「心理療法」は、芸術・哲学・宗教などと深く関わる部分があると思います。といっても、心理療法自体が、芸術・哲学・宗教であるとかいうのではないです。(部分的には、十分そうだと思いますが)。

ただ、クライアントさんの生き方と、それらは関係してくるように思うのです。そして、心理療法というものが、クライアントさんの生き方や人生に密接に関係する以上、クライアントさんの生き方や人生を表現する手段としての、芸術・哲学・宗教などとも、密接に関係してくると思うわけです。



クライアントさんが心理療法に触れる過程で、ある人は芸術の方向に、ある人は哲学の方向に、ある人は宗教の方向に、などとそういう方向に進む面もあります。(もちろん、すべてがそうという訳ではありません。ただ、心理療法の過程の中で、思いがけず画を描いたり、俳句を読んだり、宗教的なことを考えたり――そういうことはあるようです)

したがって、その触媒たる心理療法もまた、芸術・哲学・宗教などの可能性に満ちている――そう言えるかもしれません。

また、それゆえに、心理療法は、芸術も、哲学も、宗教も、包含しているのかもしれません。(あるいは、重なり合う?)



ユングは彼の心理学の技法のひとつ、「能動的想像法」を(芸術ではなく)科学である、と強く主張したそうですが、(河合隼雄先生が言われたように)それはユングが能動的想像法を自身に適用する(あるいは、確立する)過程で、科学者であること(心理学者、治療者であること)を選んだから、こう言ったのであって、彼の著書なり、その他の残したものは、多分に、芸術・哲学・宗教の要素が色濃く残っているようです。(曼荼羅なんかが、いい例でしょうか)。そんな中で、ユングが科学者であること、ユングの技法が科学であること、それらは譲れないことだったんでしょう。それから外れた取り扱いをされることが、赦せなかったんだと思います。(あくまで私の想像ですが)

能動的想像法が、「無意識との対話によって、自身にある種の方向性を与えるものである」ということを考えると、ユングの心理学にしろ、その中のひとつである能動的想像法にしろ、それは、クライアントさんが、芸術・哲学・宗教など、それぞれの方向性を見出していく助けになるということですから、やはり、それは科学(学問的なもの、治療的なもの)でありながら、芸術性も、哲学性も、宗教性も、包含しているのだと思います。



どうも、カウンセリングが深まっていくと、思いがけず、クライアントさんが芸術的なことを始めたり、哲学的なことに取り組み始めたり、宗教について考え始めたり――そういうことが起こる傾向があるようです。
(この、「思いがけず」がミソのような気がします)

それは、今まで考えもしなかったことである場合が多く、ということは、もともと無意識に内在している自分の宝が、苦しみや、それに端を発するカウンセリングなどを通して、活性化したり、見出され、結果、自分に内在する、今まで知らなかった宝(それは芸術だったり、哲学だったり、宗教だったり、そのほかの要素だったり、を含んでいる)を開発していくことになるのだと思います。

そうやって、今まで知らなかった、新しい生き方を見出していくのです。
(ある意味、生まれ変わると言ってもいいでしょう)

(そういう意味では、心理療法がそれらを包含するというよりは、それらの要素はその人にこそ包含され内在している、そして、心理療法なりカウンセリングなりは、そのきっかけや触媒の意味が強い――そういえるのかもしれません)

個性化や自己実現には、潜在する能力の開発という側面もあるでしょうから、こういうことも起こるんでしょうね。

ということは、それらは、現代人の意識的な態度や生活からは欠けているもの、なのかもしれません。



いろいろ書いてきましたが、私が「ユング心理学」に惹かれる理由は、そういう懐の深さを持っているのが理由であるような気がします。 いろんなものを包含していたり、いろんなものと重なり合っていて、それを赦しているんですね。捉え方次第で、それは無限に広がるわけです。

可能性に対して、大いに開かれているわけですね。


(「能動的想像法」に関連する本の中の、河合隼雄先生のエッセイを読んでいて、そう思いました)



【追記】

ユング心理学を学ぶ人にしても、それを比較的、学問に近い部分としてとして学ぶ人もいれば、治療という面を強く意識して学ぶ人もいます。あるいは、ユング心理学を学んだ人が、それを芸術の方向に発展させたり、宗教的な方向に発展させても、おかしくない気がします。

出発点が同じでも、それぞれの生き方によって、進むべき道は違うのではないでしょか。(もっとも、ユング心理学を厳密に、原理として取り扱おうとする人からは、異論が出るかもしれません)

ただ、どういう方向に進むにしても、

・その出発点がユング心理学であること、
・それと同時に、自分の進む道は、ユング心理学を出発点とした自分の道であって、厳密にはユングの心理学(ユングの歩んだ道)とは同じでは無いこと、

――これらは認識しておいた方がよさそうです。

(半分は同じで、半分は同じでないのです。ここにも、「二面性」があります)


(2005年06月30日)
(2005年12月05日修正)





ひとまず、おしまい…








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