【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング

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このページでは、「やさしいユング心理学講座 第八章:自己と個性化の過程」についての紹介をしています。

【第八章 自己と個性化の過程】




第八章 自己と個性化の過程





今まで、影やペルソナ、アニマ・アニムスなどについて勉強してきました。そこで感じたのは、無意識の意図のようなもの。無意識自体に人格のようなものはないのでしょうけども、無意識の働きに注目していると、そこに「何かをしようとしている」かのような動きが見えます。

それはあたかも、欠けた部分を補うようでもある。また、必要なものを足しているようでもある。ある時は自分の行いを戒め、ある時は見逃しているものに気づかせる。そうやって人間を成長させ、まるで完成させようとするかのような動きがあります。
(人間の悩みは、そんな無意識の働きに逆らうから生じているのかもしれません)

このように、その人が持っている可能性を開花させてゆくこと、人格をより完成させること、より完璧な人間に近づけることを、ユングは「個性化」と名付けました。

また、この個性化の過程に深く関わるのが、「自己」という概念です。

この章では、自己と個性化の過程について、学んでゆきます。





1.個性化の過程


今まで、タイプ論や、ペルソナ、アニマ・アニムスについて書いてきましたが、これらが互いに補償しあう関係にあることは理解いただけたと思います。例えば、外向型と内向型、思考と感情、感覚と直観、ペルソナとアニマ・アニムス等、これらは対極に位置すると共に、お互いを補い助けます。つまり、相補的な関係にある。

ひとりの人間が成長しようという時、これらのどちらかに頼るというよりは、両方をうまく統合することで事が成されるのは今まで述べたとおりです。(相反する存在が、自身に欠けているものを補ってくれるわけですね)。人はある時期、何かを完成させようと頑張ります。しかし、それだけでは完成されず、むしろその偏りや一面性による不具合を抱え込むようになってしまう。それを反対側のものを取り込むことで、補います。バランスを回復させる。


ひとりの人間を考えてみると、意識は自我を中心に、ある程度統合性を持っており、安定しています。それゆえ、ひとりの人格として成り立ち、それぞれが「わたし」と言えるのです。また、外界もその個人を認識してくれます。

このように人間はある程度、安定しているものですが、その安定を崩してまででも、より成長しようとする傾向があります。これは個人にも言え、社会にも言えるようですね。その意図は別にしても、結果そうなることが多い。

まず何かに向かってまい進し、やがて安定の時期を迎える。それが長く続けばいいのですが、なかなかそうもいきません。ひとつには、バランスの悪さが顕在化してくる。なぜなら、何かに一生懸命の間、別の何かは放ったらかしになっているから。その放置された部分により、何か問題が出てくる。

また別の要因としては、状況が変わったりする。それまではよかったことが、通用しなくなる場合もあります。それは技能かもしれないし、態度かもしれない。あるいは、考え方や生き方だったりする。ともかくいろんなものが、以前は問題なかったのに、急に問題になったりする。そうなると、変わらざるを得なくなります。

このように、人間というものは、内的にも、外的にも、変わることを要求されるような時期が来ます。そしてそんな時、表面だけではなく奥のことまで考えていると、そこに無意識的な働きが見え隠れしたりする。別の問題を悩みとしていても、それを掘り下げていると、変容することの必要性が見えてきたり、すべてが終わった時には、結果として、変容していたりします。それも、悩んでいた本人だけが変容することは少なくて、周囲を含めた人々が、何らかの変容を遂げたりする。

そんなことを体験すると、人間の意識外の部分に、人を変容させようとする何か、人を成長させるような何か、そんな導き手のような存在を感じずにはおれません。



ユングは、「個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」を、ユングは『個性化の過程』、あるいは『自己実現の過程』と呼んでいます。

人は何らかの可能性を、無意識に有している。それははじめ、自我には意識されませんが、やがて、活動しだす。種から芽が出るように、土から新芽が顔を出すように、無意識から可能性が萌芽する。その芽を育てる過程が、個性化の過程。そして芽が育ってきたとき、自我は高次の全体性へと向かう。欠けた部分が補われ、全部を足りている状態にするような、人間の完成形へと向かう。
(完成するわけではなく、そのような方向に向かう。したがって、過程になる)

そういう意味では、個性化とは、完全なる人間になるとか、個人が有している理想像に近づくとか、そういう意味にも取れます。元型のところでも触れましたが、普遍的無意識といった深い部分での人間の完成形や理想像は同じでも、今の時代を生きる個人に顕現するカタチは、それぞれ異なってきます。芯は同じでも、表に現れるカタチはそれぞれ違う。そういう意味でも、個性化という言葉は意味深いですね。「それぞれの自分になる」というニュアンスがある。

また、ある見方をすれば、問題に悩む人というのは、そういう要請を拒否しているから、余計に苦しいのかもしれません。低次の場合は、直すべき態度があるのに、頑なに直さないとか。あるいは、社会的に問題ない場合でも、社会が要請する態度や生き方と、内在する個性が要求する態度や生き方がせめぎ合い、葛藤を起こしているような場合も、あるかもしれません。(葛藤に堪えられないから別の症状が現れるという見方もあります)

後者のような場合、個性化の入口にいるような感じもしますよね。そして、社会という立ち位置にいる場合、それは困ったもののように見える。しかし、内なる個人を尊重すると、それはむしろ、好ましい導き手のようにも見える。

こういうのは、それぞれの価値観によって見方が変わるものなのですが、ちょっと現代は、悩みや問題に対するアレルギー反応のようなものが強すぎるような気もします。悩みや問題を避けるあまり、余計に問題を大きくしたり、悩みを深くしているように思える。ある意味では、問題を避けるから問題が消えないし、悩むことを避けるからいつまでも悩んだまま、という捉え方もできます。

問題や悩みと向かい合うのはつらいのですが、避けられないものに対しては、むしろとことん向かい合った方がいいというのは、少なくとも半分としては、真実だと思えます。なのにどうも、その半分が無視されているように感じる。

で、個性化というのも、このような避けられない問題や悩みとして、顕在化してくるようです。いろんな対決を、要求してくるんですね。でも、そのおかげで、無いものが足される。補償されてくる。それは、今までの章でも、書いた通りです。



参考:ユング心理学辞典『個性化/個性化の過程』




【自己の定義】


ある人の意識が安定した状態であっても――つまり自我が変化する必要を感じなくても――ある時、無意識下の内的問題や現実世界の外的問題により、自らが変容することを強要されることがあります。
(「価値観の崩壊と再構築」とか、「生き方の変更」とか、「誰かを赦すこと」とか、「認めたくないものを認める」とか、いろいろあるでしょう。更には、内的に出てくるものもあれば、外的に突きつけられる場合もあるでしょう)

「中年の危機」といわれるものも、この類かもしれませんね。ある程度の地位を築き、自分でも、世間でも、ある程度社会で成功を収めたり、社会に適応していると思っている人が、ある日突然に、説明のできない不安に襲われたりする。あるいは、長年適応した社会に新たな価値観が現れ、それとの適応を急に迫られ、心身ともにまいってくる。

これは自我にとっては、非常に理不尽で、つらいことですが、それでも問題が投げかけられてしまいます。変われ、適応せよ、と要求される。で、その要求は、時に内的であったり、時に外的であったり。

このように、こころは(あるいは魂は)、自我の崩壊や既存の価値観の崩壊という危険を冒してまで、ひとりの人間の成長を要求することがある。そしてこのような布置を考えるとき、ユングは『自己』の概念を構築しました。

ユングは、自我が意識の中心であるのに対し、自己は意識と無意識を含んだ「心の全体性」であると考えました。自己は「意識と無意識の統合機能の中心」であり、「人間の心に存在する二面性を統合する中心」とも考えられます。

ユングはある論文の中で「二重人格として生じるものは、新しい人格の発展の可能性が何らかの特殊な困難性のために妨害され、その結果、意識の障害として現れたものである」と述べています。

これは何も二重人格に限らず、「ふたつのものの統合という発展の可能性が、何らかの要因により妨害されるとき、それは表面的な問題として生じてくる」と、言えるのかもしれません。

問題や悩みというとどうしてもマイナスのイメージが付きまといますが、このように、そこには発展の可能性が隠されている場合があるんですね。


ユングはその臨床の中で、一般的には異常とも取れるものの中に、意識と無意識の持つ相補的な働きを見出し、心の持つ全体性(自己)を見出してきたのですが、これは彼が東洋の思想に触れることにより、より明確になったようです。

中国に『道(タオ)』という考えがありますが、この「相対立する陰と陽の相互作用と、その対立を包含するものとして把握される点」にユングの思想との共通点が見受けられます。

ユングは次のように述べています。「我々が意識の世界のみを重んじることなく、無意識も大切なものであることを知り、この両者の相補的な働きに注意するときは、我々全人格の中心はもはや自我ではなく、自己であることを悟るであろう」 「自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する」


ここで注意がちょっと必要で、このようなユングの考えは、無意識や自己という概念が軽んじられた当時の西洋世界に対して述べられた言葉であるということを、忘れてはならないと思います。
というのも、日本は割合、無意識的なものに開かれている面があるから。そして時には、無意識に超常的な効果を期待し、自我的な努力なしに、無意識的な作用に問題解決をゆだねてしまう面もあるからです。

無意識にゆだねるというのは、ある意味では間違ってはいないのですが、それは自我による努力の放棄というのとは、少し違うんですね。確かに、自我の力を弱めて、自己の作用を観察し、何かを悟らねばならないようなことはあります。そうしてやっと、やり直しや変容ができる。ただしそれは、「自己にやらせる」というのとは、違うんですね。むしろ、「自己の導きに従い、自我がやる」というものです。ある意味では、自我が頑固に拒んでいたものを、自己に教えられ、自我がやる、といった感じ。なので、実際的な努力は、自我がやることになるのです。


自我の力だけでは、人間の発展には限界がある。だから、ユングは、自己という概念を導入しました。しかし、自我の力なしには、何も成せません。西洋では特に自我を鍛えるということが当たり前に行われるようですが、場を大切にする日本においては、そうでもないようです。なので、自我を鍛えるということも、大切になるようですね。特に近年の日本には、状況判断や合理性というものが、欠けているように思います。情緒に流されることが多く、また、合理性のないものに合理性があると信じられたりする。(また、この辺は、父性の欠如と、関係するのかもしれません)。

ただ、自然の理を鑑みれば、無いものは足されるわけで、著しく日本に欠けている合理性や父性も、足されることになるのかもしれません。何らかの痛みや対決を通して。そして、その時には、単なる反転になることなく、補償的なものになるように、期待します。



ユングは、このような言葉を残しています。

「全て良いものは高くつくが、人格の発展ということはもっとも高価なものである」

この言葉にはふたつの意味が含まれていますよね。ひとつには、人格の発展というものは、この上なく高価であること。ただその反面、よいものは高くつく。人格の発展には、いろんな苦しみや悩みが付きまとうようです。

自己は内的に存在する発展の可能性を萌芽させようとします。しかし、そのために、今までを壊そうとしたり、問題を突きつけたりもする。その一つひとつの過程が、今まで書いてきた「影」であったり、「ペルソナ」であったり、「アニマ」や「アニムス」であったりします。それぞれとの対決を通して、人は成長する。欠けたものを補ったり、社会に適応しようとしたり、あるいは、再適応という仕事を行ったり、自分の深い部分との関係を構築したりする。

しかし、その最初の現れ方は、概ね問題や悩みとして、現れるようです。時には、実際的な問題として、また時には、もやもやした不安やいらいらなど、目には見えない問題として、生じる。

我々はそういう事態に疲弊したり、右往左往してしまったりするのですが、悩みを深めることで奥にある問題が見えたり、あるいは、聴くプロに対して語り続けているうちに、ふと、見逃していたものに気づいたりします。そういう、つらくしんどいことを通して、人間を成長させ、発展させていくんですね。

まさに、「全て良いものは高くつくが、人格の発展ということはもっとも高価なものである」というわけ。人格の発展は尊いが、それだけに高くつく。


またユングは、こんなことも言っています。

「個性化は二つの主要な面を持っている。まず一つは、内的・主観的な統合の過程であり、他の一つは同様に欠くことのできない客観的関係の過程である。ときとして、どちらか一方が優勢となることもあるが、どちらも欠かすことができない」


個性化のひとつの側面は、己の深い部分と向き合うことです。時には自我を弱め、無意識的要素の言わんとするところを観察する。自我の防衛や、頑なな態度、願望などを置いといて、純粋に、眺めます。ただ、これは半分。

個性化には同時に、実際的なものと向き合うことも含まれます。例えば、影との対決にしても、相手なしに自身の影を知ることは難しい。投影という映し鏡によってこそ、我々は自身の態度や生き方に気づくことができるのです。また、アニマやアニムスに関しても、そこには実際の相手というものが出てくる。アニマやアニムス自体は内的なものですが、それを映し出す存在が出てくるし、また、影やアニマ・アニムスを自分の生き方に組み込むということは、それらを実際的な場面に顕現させることになる。態度や行動、生き方のうちに統合したり、何らかの表現でこの世に表したりするのです。

人には好みがあって、どちらかといえば自分と向き合うのが好きな人もいれば、どちらかといえば社会で活動するのが好きな人もいます。個性化というのは、その両方に関わっているんですね。ということは、ここでもまた、逆の態度を補うことが求められることになります。自分と向き合った結果を、何らかの手段で社会に表現したり、社会と関わるために、自分の深い部分と向き合ったりする。方向や順序はいろいろあると思うのですが、どちらにせよ、その両方と関わり合いになるようです。

というか、個人の自己というのは、実際の目の前の世界とも関わり合いを持つものなのかもしれません。





2.自己の表現、そのかたち


「自己実現」や「個性化」は人間の究極の目標として捉えられるわけですが、そこに到達点があるかというと、そうではありません。人は自己実現の過程で、ある種の理想像のようなものを設定するでしょうが、その像は永久不変なものではなく、むしろ日々変化するものです。というか、自我の定めたそれを見直させ、新たに目標を教えるのが個性化なので、理想は変遷するでしょうね。また、明確な理想像というのは、なかなか見えてこないかもしれません。それよりは、いろんな元型と対決し、結果として、成長したり、補われたり、人格が発展したりする。そういう意味では、自我にとっては、「させられる」といった面が多いかもしれません。

我々は歳を重ねるうちに自分の可能性をある程度の枠の中に収めようとしますが、自己の試みはそうではない。自我の知らない潜在能力を使えるようにするために、頑張ります。実は持っているのに使っていないものを使わせようとしたり、奥にしまってあるものを活性化させ、表面に出させようとしたりします。それによって、全人格というものを確立させようとする。

個性化とは、そういった過程のことです。



我々は、自身の魂そのものを見ることができないように、自己そのものを見ることはできません。しかし、自己の象徴的表現を通して、その働きを知ることはできる。意識化することができます。

自己の象徴は様々なカタチをとるのですが、それが人格化した姿としては、男性における「老賢者」、女性における「至高の女神」などが挙げられます。この姿は個人の夢にも、世界中の物語の中にも現れます。主人公が苦難の旅の中で身動き取れない状況に陥ったとき、老賢者や至高の女神は、その閉塞を打ち破るだけの、価値ある助言や忠告を与えてくれます。

実際、自我の力で問題を解決しようと努力に努力を重ね、しかし解決には至らず、疲弊し、まさに絶望しようかというとき、我々の知らない自己に働きが生じ、我々の知りえなかった高次の解決法を授けてくれる場合も、あるでしょう。(この辺は、禅の公案にも通じるものがあるかもしれません。禅の場合、考えて考えてなお分からず、ふと考えることを放棄した瞬間に、(葉が落ちるなどの)ふとした自然現象などをきっかけに、悟りを得る場合もあるようです)

老賢者の像は、時に「老人の知恵を持った子供」として現れることがあるといいます。このモチーフは、夢などにもよく現れますが、一見、弱そうであったり、価値が低いと思えるものが、実際には価値ある知恵を持つ存在であるというところが非常に興味深いですよね。また、別の見方として、子供という可能性に満ちた姿をとっている点も興味深い。

現実問題でも、若い者や子供の意見の中に、有用な知恵が隠されている場合もあるし、若くして経験を積んだ者が深い洞察や見識を示すこともあります。そしてこのような時、受け取る側が、若さや幼さを理由に、その知恵を簡単に無視したり否定したりすれば、大事な宝を失うことにもなるようです。(ここでも「聞く耳」が必要になります)


自己実現は素晴らしいものですが、同時に苦難の道でもあります。ユングが「自己実現は高くつくものだ」と言ったように、実際にはできれば避けて通りたいくらいの苦難の道だったりする。自己実現の道を歩もうとしてからも、投げ出したいと思ったり、実際一時的に投げ出すこともあるでしょう。

ただ、ある種の症状に苦しむ人は、「苦しい自己実現の道から逃げ出そうとしているために、ほかの意味の苦しさを味わっている」という見方もできます。自己実現の道は確かに苦しい、しかし、それを経れば、それだけではないものが待っています。そして、そういった自己からの要求を拒否することで、別の苦しみを味わうわけですから、それを踏まえると、どうなるか。

確かに、我々人間には頑ななところがあって、ちょっと態度を改めればよくなることでも、そうしようとはしなかったりします。そして、態度の修正というちょっと苦しい道から逃げ出すことで、別の苦しみを味わい続けることになる。ちょっと気をつければよくなることでも、そのちょっとを頑なに拒み、結果、いつもの失敗で、周囲も自分も苦しんだりする。我々は、「ちょっと」をしないことで、より多くの苦しみを味わっていたり、味わわせていたりするようです。


個性化では、ふたつの要素の統合ということが、テーマになったりします。意識的な態度と影なる態度、表面に出ている男性性や女性性と奥に眠っていた異性性(アニマ・アニムス)、主機能と劣等機能、それらを何とか統合し、より成長するのが、「個性化の過程」や「自己実現の過程」だともいえるようです。

そして、このような統合性を示す例として、「男女の結婚」や「男女の結合」、「陰と陽の結合」などがあります。これは夢や物語のモチーフであるとともに、宗教的なモチーフでもあるように思います。

そして、このような二者の合一による全体性の象徴で、人格化されたものではないものに、『曼荼羅』があります。ここでは、統合による全体性が、幾何学的な図形として表れています。
ユングは、自身の夢の中で、曼荼羅の夢を度々見たそうです。これはユングの著作にも残っています。

このような曼荼羅は、ある個人が心的な分離や不統合を経験している際に、それを統合しようとする心の内部の働きの表れとして生じる場合が多い、とユングは言っています。更にユングは言います「これは明らかに、自然の側からの自己治癒の企てであり、それは意識的な反省からではなく、本能的な働きから生じたものである」

そして河合隼雄先生も言います。「意識的には分裂の危機を感じ、あるいは強い不統合性を感じて解決策もなくて困っている人が、この曼荼羅象徴が生じることによって心の平静を得、新たな統合性へと志向していく過程を経験すると、人間の心の内部にある全体性と統合性へ向かう働きの存在、自己治癒の力の存在を感ぜずにはおれないのである」


自己の象徴としては、他に、「宝石」や「動物」があるといいます。物語などでは、「宝石」を求めて冒険する話も多いですよね。これは曼荼羅に共通する幾何学的な精密さと、得がたい高価なもの、という2点が強調された姿でしょうか。また、未だ意識化されない面が強調されると「動物」の姿で現れることもあるようです。無意識的要素は、夢の中などでも度々動物の姿などをとって現れます。おとぎ話などで、この「動物」が主人公を助けることがあるのも興味深いことです。

さらに、不可思議な面が強まると、それはお化けや物の怪として、夢などに現れるのかもしれません。




閑話休題:『夢の中の曼荼羅』

ある人の夢に現れた曼荼羅について書きます…


わたしは外に出て、家の隅のガソリンスタンドの傍を通り、ゆるやかな坂を下った。
わたしは浴衣姿に、下駄履きである。
空にUFOが見えた。
それはやがて太陽に重なると、二つに分身し、最後には五つに増えた。
UFOは「ダビデの星」のようであり、「曼荼羅」のようでもあった。


詳しい解釈は省きますが、ガソリンスタンドは「補給の意味合い」を、ゆるやかな坂を下る件(くだり)は「無意識へ下ること」を、浴衣や下駄履きは「その時のペルソナの状態」を、UFOは「未知なるもの」を、それぞれ匂わせるところがあります。

そして「ダビデの星」や「曼荼羅」は、人間の域を超えた「超越的な機能や統合性」を感じさせる。






3.「時」


「自己実現の過程」や「個性化の過程」を歩もうとする際に重要となる要素に、「その時」というものがあるかもしれません。

ユングは「自己実現は高くつく」と言いましたが、その通り、自己実現は偶然出会う幸運でもなければ、簡単なアドバイスにより達成されるような甘い話でもないようです。それよりは、理不尽な不幸に巻き込まれて、旅に出発し、幾たびの苦難を乗り越えながら、なんとかお宝を手にするといった物語との方が、共通点が多いように思います。そして、そこには危険が常に付きまといます。まさしくこれは冒険でしょう。


人生の後半において、自分の内面と対決せねばならない「時」が来るのは、容易に想像できるのではないでしょうか? 世間から人生の成功者のように思われる人でも、「その時」には、自分の空虚な心に気づき絶望するかもしれません。会社から仕事を奪われた人は、「その時」には、仕事以外に何もなかった自分に気づき、立ち尽くすかもしれません。あるいは、家庭を支えてきた人は、「その時」に、自分の中で何かに突き動かそうとしている動きに気づき、戸惑うかもしれない。


河合隼雄先生は『寿命の話』として、グリムの面白い話を提供してくれています。

神様はロバに三十歳の寿命を与えようとしましたが、ロバは荷役に苦しむ生涯の長いのを嫌がったので、神様は十八年分短くすることを約束しました。次いで、犬もサルも三十歳を長すぎると言って辛がるので、神様はそれぞれ十二歳と十歳分だけ短くしました。さて、そこに人間がやって来たのですが、人間が三十歳の寿命が短いというので、神様は、ロバ、犬、サルから取った年齢分、十八、十二、十歳の合計を人間に与えたので、人間の寿命は七十歳になりました。

人間はそれでも不満げに退いたのですが、この物語のよると、それ以来人間は、三十年の人間の生涯を楽しんだ後、あとの十八年は重荷に苦しむロバの人生を送り、続く十二年は噛み付こうにも歯の抜けてしまった老犬の生活をし、後の十年は子供じみたサルの年を送ることになったそうです。

これは非常に興味深い物語です。「重荷に苦しむロバの人生」、「噛み付こうにも歯の抜けてしまった老犬の生活」、「子供じみたサルの年」これらの喩えは単純には笑えない真理を含んでいる。このような物語は、論理的な人生の説明よりも、よほど胸を打つものだと思います。読む各人に様々な情動を与えてくれるのではないでしょうか。(そういう意味では、夢と同じような効果がありそう)

この物語を読むと、長寿を得た人間の不幸話の印象が強いのですが、現実世界に生きる人間の一人としては、せっかく得た寿命という貴重な「時間」を有効に使い、動物の人生を送るのではなく、せめて人間として年齢の分だけ価値ある人生を送りたい、そう願います。

ただ、三十歳まで生きた人生を、そのまま晩年にまで生きようとしても無理があるかもしれませんね。実際の世界でも、「若さ」や「強さ」に固執し、それを売り物にしようと努める人もいます。しかし、それが限界に達したとき、急降下が始まるようです。この急降下は悲劇につながりやすい。逆に、急降下ではなく、自負を持ってゆっくり下る、これができる人は「人生の達人」なのかもしれませんね。

年齢の分だけしっかり生きた人には、老いというよりは、そこに成熟がみられるように思います。そして、そこには老いを受け入れた人の美しさがあるのではないでしょうか。


自己実現の「時」がいつ来るかは誰にも分かりません。このような「時」は、一般に言う時計で測定できるような「時」と区別して考える必要があるようです。

神学者パウル・ティリッヒは時を以下の二つに分けて考えたといいます。

ひとつは「クロノス」で、これは時計で測定できる時間です。数字に換算できる時間。一方、「カイロス」は時間の質の体験で、例えば、何かに熱中していて時計の時間的には長いのに、感覚としては瞬間にさえ感じてしまう、そんな体験です。これはいわば、感覚的な時間。

もともと「時」とは後者の感覚的な意味合いが強く、あのニュートンは、時間を感覚から解放するために数学的な時間「絶対時間」を提唱したといいます。

我々の生活に、もはや時間は欠かせませんが、時計で測定できる時間(クロノス)と、もっと感覚的・主観的な時間(カイロス)、両方と接しているようですね。

時間を守るというときは、前者の意味合いが強いようです。スケジュールなんかも、そう。ただ、人と過ごす時間というのは、むしろ、後者の意味合いの方が強いように感じます。授業なんかは、開始と終わりは前者だけど、その途中はというと、後者的な感じもしますね。
(余談ですが、カイロスを「神が定めた時」という人もいるそうです)

「!」とくる瞬間、そういうのも、カイロスに関係するのかもしれません。そして、自己実現の問題と、このカイロスの問題とは密接な関わり合いを持つようです。

例えば、外向的に生きてきた人が、内向的な生き方にも意義を見出さねばならなくなった「時」、家庭を顧みなかった人が家族の病気に際して、家族と深く向き合わなければならなくなった「時」、自分の中の弱さや欠損を否定したり抑圧して生きてきた人が、それに気づき、なお逃れられず、どうしても向き合わねばならなくなった「時」、いろんな時がある。

カイロスとは機会を神格化した神だと言われますが、「チャンスの神は前髪しかない」という言葉があります。これは、「好機はすぐに捉えなければ、次はない」という意味なのでしょう。そして、これと同じように、カイロスを大切にしないと、我々は自己実現の道を誤ってしまうかもしれません。

ただ、カイロスを大切にするばかりに、クロノスを忘れてしまうと、外界に対して適応した態度であるペルソナを損なう恐れがあります。勤務時間、面接時間、劇場の開演時間、いろんな約束の時間、これらのクロノスを守ることは社会人として最低限の常識です。

このように、クロノスのみに囚われると大事なカイロスを見逃してしまうし、カイロスのみに囚われると大事なクロノスを見誤ってしまう。ここでも、バランスが問題になります。そしてその「時」を見極め、何を選択するかというのも、重要になってくる。


自己実現もそうですが、人生の重要な「時」に、我々は不思議な現象に出会うことがあります。それは偶然という言葉でくくるには、あまりにも意味深い現象であり、心にぐっときたりする。

例えば、「夢のお告げ」といわれるような夢を見ることもあるでしょう。祖母がやさしく笑う夢を見て、覚醒した瞬間に電話が鳴り、祖母の死を知るようなこともあるかもしれません。あるいは、夢の中のアニマが現実世界にも現れるかもしれない。

このような『意味ある偶然の一致』をユングは重要だと考え、これを因果律によらない一種の規律であると考え、非因果的な原則として『共時性』(シンクロニシティー:synchronicity )と名づけました。

ここで注意せねばならないのは、「因果律によらない」ことです。上記のような例でも、祖母の夢を見たから祖母が死んだのではありません。仮に、地震の夢を見たとしても、その夢を見たから地震が起きた訳ではないのです。このような共時性の現象を因果律によって説明しようとすると、偽(ニセ)科学や偽魔術、宗教モドキなどに陥ります。
祈ってもらった「から」、症状がよくなった。信心しなかった「から」、悪くなった。そんな都合のいい解釈はないでしょう。よいことは神のおかげ、悪いことは本人のせいでは、本人の努力が価値の低いものになります。というか、神のおかげと言いつつ、特定の人間を神格化するのでは、訳が分からない。


話を戻すと、共時性の現象を見るときは、原因を探るよりは、その現象が当人にとって何を意味するのか考えるほうが、より建設的なようです。共時的現象が、何と何をつなぎ、何を教えようとしているのか? それが大事なのかもしれません。



ユング心理学辞典:「共時性」




「個性化の過程」は自分だけの理想像、なるべき姿、人生の仕事を模索し、それを成し得ようとする作業であり、過程です。それは既存の価値観でもなければ、誰かに押し付けられたものでもないし、世間の流行によるものでもありません。そして、自我も知らぬ未知のものでもあります。

無意識の深遠から突き動かされ、自我と自己とがタッグを組み、この人間の深い部分からの要求を我々が生きる世界で体現することが、個性化の過程です。

我々は意識できない領域に、何らかの可能性や貴重な潜在能力を有している。まだカタチにしていない未知なるものを、持っているのです。自己はそれを、何とか育てようとする。

我々はそれを拒否することで、悩みを大きくしている面があります。なので、そんな時は、自我の力を弱め、無意識のメッセージに耳を傾けるのも、意味あるようです…





関連記事:

「無意識の人格化と個性化/ユング心理学概説(1)」
「個性化と松の種(1)/人間と象徴」






長い間、お付き合いいただき、ありがとうございました。





では、また次回に…








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