【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは「ユング心理学の用語」の、「個性化・個性化の過程」「共時性」について紹介をしています。


【目次】



(1ページ目)
「元型」
「自我」
「ペルソナ」

(2ページ目)
「影」
  @「影」
  A「影」と「ペルソナ」
  B「投影」
  C「もう一つの影」

(3ページ目)
「コンプレックス」
「劣等感コンプレックス」

(4ページ目)
「アニマ・アニムス」
「トリックスター」

(5ページ目)
「個性化/個性化の過程」
「共時性」

(6ページ目)
無意識 
(2008年02月27日追加)
  個人的無意識
  普遍的無意識

【その他、療法など】
「ゲシュタルト療法」






【個性化/個性化の過程】 



「個性化/個性化の過程」



ユングによれば、「個性化とは、すべての生物が――単純な場合も複雑な場合もあるだろうが――そうなると最初から決められていたものになっていく、あの生物的過程のひとつのあらわれである」と言われています。

本来の意味での「理想像」に近づく、と言ってもいいかもしれません。
ここで「本来の意味での」と言ったのは、この理想像が「自我で考えたもの」ではなく、どちらかというと「自己が求める」理想像だからです。
(無意識の深いところにあって、はじめから内在している、そんな理想像・到達点ですね)

我々の心の奥深くには、そういう核となる人間の像があって、そういうものは無意識の領域にあるので意識では把握できませんが、人間の最終到達点というものは、そのような人間の像を、この世に我が身を通して顕現させることだというのです。
だからユングは、「そうなると最初から決められたものになっていく」と言ったんですね。

それは、「生まれ持ったもの」と解釈してもよく、それは意識では捉えられないので忘れられがちですが、我々が真の意味での自分自身になってゆく、核や指針のようなものなのでしょう。
我々は社会で生きていると、そういうものを蔑ろにしてしまいますが、そういうものを見出し、活性化し、何らかのカタチで表現したり、花咲かせることが、個性化なのかもしれません。

したがって、そういうものは自分でなりたいと思っている像や、その時代の流行や良いとされている像と同じとは限らず、むしろ、違っている場合が多いのでしょう。
それは意識的な理想を越えて、ずっとずっと奥に眠っている、隠された像なのです。

「個性化」には、「完全なる人間になる」という意味もあります。
ただ、この辺の解釈は難しくて、「自我と自己のバランスが取れた状態」であるとか、「自分の性と、自分の中の異性(アニマ・アニムス)の折り合いがついた状態」であるとか、「ユングのいう『全体性』が達成された状態」であるとか、いろいろと捉え方があると思います。


ユングはまた、個性化について、「『私たち一人ひとりの中の、二百万年前から生きている人間』を、現代を生きる一人ひとりと統合していく作業である」といった風にも言っています。

「私たち一人ひとりの中の、二百万年前から生きている人間」とは、「はじめの人間」とも「普遍的無意識の中心にある人間像」ともとれるでしょうか。あるいは、「人間そのもの」といってもいいかもしれません。
そういう本来の意味での人間というもの(あるいは、そんな人間の像)を、今を生きる自分と統合していく、それが「個性化」といえるのかもしれません。
そういった像を、我々が生きる現代に、何らかのカタチで表現しようというのが個性化です。

そして、そんな人間の像を伝えてくれるのが、「夢」ですね。
夢は自我の支配を受けず、更に、無意識と深くつながっていますから、そんな像を「象徴」などの表現で伝えてくれます。

こういう風に考えると、すべての人間が目指すものは同じなのかとも思いますが、その根本が同じであるにしろ、今という時代に生きる我々一人ひとりの人格や、それを取り巻く状況は違うわけですから、その統合された姿、表現する形式、なるべき像は一人ひとり違うわけで、一人ひとりの人間が、自分だけの像を目指すことになります。
(同じ核「X」を持っているにしても、それを「A」として表現したり生きたりする人もいれば、「B」として表現したり生きたりする人もいます。根は同じでも枝は違い、さらにその先の花も違う)


このように、「個性化」の像は多分に無意識的要素に彩られているわけですが、それゆえに、自我の思う像とは相容れない場合が多いようです。(自我と無意識は基本的に相容れなかったり、正反対であるわけだし、それゆえに欠けた部分を補えるともいえます)

ですから、「個性化」の道を歩むということは、「自我と無意識とのジレンマに苦しむ」ということでもあるだろうし、ある時はバランスを崩し、病的症状を訴えることさえあるでしょう。
社会で生きるつらさを味わうかもしれないし、言葉にできないほどの孤独を経験するかもしれません。

但し、別の見方をした場合、その人にはそうしてでも「なるべき像」があるということで、別の言い方をすると、「その価値がある」とか、「そうなるだけの可能性がある」とも、いえるのかもしれません。
(また、そう確信するだけの、隠された経験があるとか)

「個性化」というのは、苦しい道だし、危険な道だし、孤独な道でもあります。それは安易に理想が達成できるといったバラ色の道ではなく、むしろ棘(いばら)の道でしょう。だいたいが自我が望む道ではないし、社会的に成功する道とは限らない。
だから、軽い気持ちで足を踏み入れると、大変なことになると思います。また、そういう気持ちでは続けることができず、引き返すことになるでしょう。

ただ、無意識的な欲求というのはこちら(自我)にはどうこうできないものだし、個性化の道を歩む人というのは、いやおうなしに歩まされるわけで、こちらにはどうしようもできない部分が多いように思います。
とはいえ、この世界に生きる我々は、意識的な選択もしなければならないわけで、どうしようもないことは、いつか受け容れていくしかないですね。
我々の苦しみの幾分かは、それを拒否していることで生じているわけだし。

この辺は仏教でいうところの「業」(ごう)にも似たものがあて、そういう業をもって生まれた人というのは、その業と付き合うしかないようです。


「個性化」という言葉は単体で使用されるよりは、「個性化の過程」という表現で使われることが多いようです。
これは、「個性化」というものはある期間で成されるものではなく、むしろ人生のすべてを通して成されるべき仕事だから。常に「過程」なのです。


アンソニー・スティーヴンズは下記のように、「個性化」の段階を分かりやすく説明してくれています。

個性化とは、
「親や文化的環境から押しつけられた分裂状態を克服し」
「ペルソナという見せかけのおおいを捨て」
「自我防衛をやめ、」
「自分の影を他者に投影するのではなく」
「何とか影を知り」
「それが自分の内面生活の一部であることを認め」
「個人的な心のなかに住んでいる異性的な人格と折り合いをつけ」
「『自己』の至上の意図を意識的に実現しようと努めるのである」



更にユングは以下のように言っています…

「目標は観念としてのみ重要である。本質的なことは目標へと向かう仕事(オーパス)であり、それこそが人生の目標である」

「もし長寿が人類にとって何の意味も持っていなかったとしたら、人間は七十歳や八十歳まで長生きするはずがない。人生の午後はそれなりの意味を持っているはずであり、人生の朝のみじめなおまけであるはずがない」



このような仕事と向き合うことは真に苦しいことですが、その意図を汲んで真の意味で向かい合ったとき、人間は豊かにもなるし、叡智に包まれながら成長できるのだと思います。



参照【三省堂「大辞林」より】
Yahoo! 辞書:「個性化」
>精神分析学者ユングの用語。
>個人に内在する可能性を実現し、人格を完成していくこと。個体化。




日記内の関連記事:
「個性化と夢/ユング心理学概説(15)」
「個性化と松の種(1)」







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【共時性】 



「共時性」(synchronicity)


共時性とは「意味ある偶然」としてよく表現されます。
(あるいは、「意味ある偶然の一致」)

例えば、知人が亡くなる夢をみて、起きた途端に電話が鳴り、そこで実際にその人が亡くなったのを知らされる――といった現象も「共時性」的な出来事です。いわゆる「虫の知らせ」というものでしょうか。

他にも、カウンセリングの途中などで子供が事故にあい、親があわてて駆けつけ、親身になって介抱するが、あとになってみると、その時にこそ、親子のスキンシップが必要であった――などと思うことも、「共時性」的な出来事でしょう。

共時性の特徴としては、
@あくまで偶然であって、因果律を持たないこと
Aそこに意味深い意義が隠されていること

などが挙げられます。(但しAについては、微妙な部分があります)

共時性は上でも述べたように、因果的には説明できません。
例えば、「虫の知らせ」などの例では、「その人が亡くなる夢を見たから → その人が亡くなった」という説明はできない。(それが成立すると、夢の出来事がいちいち実現されねばなりません)

とはいえ、心理的に大きなパワーを持っているのは真実だし、そこに意味深さを感じることも特徴の一つです。
また、それだからこそ、カウンセリングの場で役立ったりします。

ただ、この「共時性」の扱い方は難しい部分があり、安易に多くの現象を共時性だと喜んだり、こじつけても意味が薄いし、カウンセラー側だけが共時性だと喜んで、クライアントさん側に押し付けても価値は低いのでしょう。カウンセリングの場でいうなら、カウンセラーとクライアントさんの関係の中で、両方が意味深さを感じるのが重要になるようです。両者が顔を見合わせて、「あっ!」と言うような。
そこに言葉にならない「!」というものがあるからこそ、心的な影響が出てくるのかもしれません。また、そういう心的な影響が、目に見える現実的な影響も生むのでしょう。

また、カウンセラー自身が自分の人生で「共時性」を十分体験し、それを活かせていれば、カウンセリングの過程で起こる共時性的現象を見出すことも可能になり、安易に喜ぶことも少なくなるのかもしれません。

当たり前ですが、共時性的現象を自分で「起こす」ことはできません。
あくまで、そこに起こっている共時性的現象を「感じたり」「認知したり」するということです。
ですから、熟練したカウンセラーは、共時性を感じたり、認知するのがうまかったり、見逃すことが少ないと言えるのかもしれません。

「共時性」を示す例としては、「雨降らし男」の話がよく挙げられます。



時々、テレビなどで「共時性」という言葉を耳にしますが、いちいち神秘的な共通点を見出して喜ぶという行為は、果たして意味があるのかどうか…。いつも誤解されるんじゃないかと、心配してしまいいます…







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