【第二章 タイプ論】
第二章 タイプ論
【タイプ論の目次】
1・態度(内向と外向)
2・四つの機能
●思考型
【外向的思考】
【内向的思考】
●感情型
【外向的感情】
【内向的感情型】
●感覚型
【外向的感覚】
【内向的感覚】
●直観型
【外向的直観】
【内向的直観】
さて、今回は「タイプ論」についてです。
ユングは人間の傾向を見るのに、二つの態度と四つの機能を定義しました。二つの態度とは「外向」と「内向」。四つの機能とは「思考」「直観」「感覚」「感情」です。
但し、これらのタイプはあくまでその人の傾向を見るものであり、これに全てを当てはめてしまうものではありません。つまり、分類目的ではないということです。このような傾向を分ける基準や手段を持つと、どうしても分類したくなるのは人情ですが、分類に力を割いてその先に進めないのではさみしいですよね。悩みや問題があるのなら、尚更です。「ああ、私は○○というタイプなんだ」で終わってしまえば、現状維持に留まってしまうわけで、「その先」というものがありません。あるいは、もっと悲しいのは、人を分類するのに一生懸命で自らのことを省みれなくなると、これはもう…ねえ。
ということは、タイプ論はひとつの指針であって、人生を航海とするならば、コンパスやGPSみたいなものなのかもしれません。自分は航海上のどの地点にいるのか ⇒ 自分はいったいどういう状況にあるのだろう ⇒ 自分のタイプはどうなのだろう――そういうものに近いのかもしれませんね。
自分の立ち位置や状況、傾向を知った上で、「さて、どう生きましょうか」ということなんでしょう。
だいたいが、分類するにしても、完全に分けられるものでもありません。
例えば、「わたしは外向型だ」「わたしは内向型だ」、あるいは、「あの人は外向型だ」「あの人は内向型だ」、そういう感覚は誰でもある程度は持っているものだと思うのですが、その一方で、完全に外向、あるいは完全に内向、という人もそうそういないでしょう。一見そういう風に見えることがあるにしても、ですね。
外向型の人でも消極性を示すこともあるし、内向型の人でも羽目を外すこともあるでしょ? あるタイプで、その傾向が非常に強いという人はいると思いますが、いつも全くその通りという人はいないでしょう。内向的な人でも、ある場所では外向的になるし、外向的な人でも、ある状況では内向的になったりします。
とはいえ、その人なりの強い傾向が存在しているのも事実で、それを知ることで見えてくるものもあります。「いつもそうしている」とか「いつもそういう風に考えている」とかいうのはあるわけで、しかし、そういうものは意外と自分では意識していなかったりします。よく分からないままいつもそうしていたり、いつもそういう風に考えていたり。つまり、自動反応のように、いつもそうしてしまっている。そして、人間というのは同じように(同じ方向を向いて)生きいているといつしか壁にぶつかってしまう、ということを考えると、自分のタイプを知ることは、それをやり直す、ひとつのきっかけになり得るのではないでしょうか。
そして、「内向」に「外向」、「思考」「直観」「感覚」「感情」というものを人間のタイプに関する言葉として使っていながら、その内容については案外よく分かっていなかったり、あるいは、ユングの意図した使い方をされていないということもあるでしょうから、その辺についても、勉強してみましょう。
1・態度(内向と外向)
「外向的」「内向的」というのは日々の会話でも使われる言葉だと思います。ただ、そのような場合、言葉としては使うんだけどそこで終わってしまいがちですよね。「ああ、内向的だな」「ああ、外向的なんだ」、そんな風な割合浅い納得というか、軽い現状認識みたいな感じで使われることが多いように感じます。それを自分に使うにしても他者に使うにしても、「内向的だから人付き合いが苦手なのか」とか「外向的だから人の中に入っても苦にならないんだろう」とか、そういう型にはめたり分類することで終わってしまうことが多いように思います。
まあ、それが悪いというのではないんですが、何かしらの悩みを抱えているとか、にっちもさっちも行かなくなっているとか、そういう場合はそこに留まっても苦しいばかりなので、上記のようなそれで終わってしまっては困りますよね。それよりは、「これからどうするか」というのが大事になってくると思います。もちろん、「ああ、わたしは内向型なのか」あるいは「外向型なのか」――それで納得がいってうまく収まれば、それはそれでいいと思うのですが、納得できない問題なり何なりが存在する場合、やはり「その先」が必要になりますよね。「それを踏まえてどうするか」みたいな。
そして、「内向」「外向」というのも、それに伴なうイメージのようなものがあって、極端な例になると、「内向=暗い」「外向=明るい」といった風にばっさり切られてしまうこともあるでしょうか。まあ、確かにそういう面はないこともありませんが、それはあくまで一面であって、それでばっさり切られては堪りませんよね。それに、外に表れる明るさが少ないから人間として暗いというわけではないでしょう。むしろ、外に表れない部分ではすごく明るい人も少なくないかもしれない。
あと、時代や文化の価値観というのもあって、お国柄や地域差、集団の価値観や宗教観などによって、その一方の価値に重きが置かれることもあるでしょう。「活発なのがいい」とか「友達がたくさんいるのがいい」とか、「誰にでもハキハキと挨拶できるのがいい」とか、そういうものを人間の価値として優先していることを宣言する人も、身近にいたりするでしょ。家族とか、友達とか、同僚とか、知り合いとか、でね。こういう場合は「外向」に重きを置かれているわけです。
で、それはそれでいいんですが、人間には生まれつき内向型の人間もいるわけで、生まれ持った性質が内向なのに、周りの大人たち――両親であったり、先生であったり、地域であったり――が外向的なほうがよいということで無理やり矯正しようとすると、しんどいことになります。
まあ、それでも何とかなるというのも幾分かはありますが、なにせ生まれ持ったタイプというのもあるわけで、どうしてもしんどくなる。ストレスを溜め込むかもしれない。歪みも生じるかもしれない。ある程度は習得できても、どこかで倒れこむようなことになってしまう。
こういうのはもちろん、逆のケースでもあるわけで、内向的なのをよしとする集団の中で外向型の人間が生きるのも、息苦しいものがあるでしょう。そこには矯正と我慢があって、ある程度はできても、どこかで負荷や歪みは生じるかもしれない。それがどのような爆発を起こすかは、分かりません。
ヘンテコな例ですが、魚は海の中でこそ活き活きするし、鳥は空を飛んでなんぼです。それぞれの生き物には、それぞれが輝ける場所があります。まあ、人間はあくまで人間なのですが、「○○なような人」というのはあるわけで、それぞれ活き活きできる場所もあれば、そうでなくむしろ息苦しくて死にそうになる場所もあるわけですね。
もちろん矯正や我慢が不必要だというのではありませんよ。社会で生きる以上、ある程度は必要です。そして、自分のタイプではないにしろ、ある程度は習得可能でしょう。ただ、それは「ある程度」なのであって、「外向型の人間が無理やり内向型になる」ことでもないし、「内向型の人間が無理やり外向型になる」ことでもありません。しかし、人間というのはよくこういうことを忘れがちで、その「ある程度」を逸脱して矯正しようとしたりします。それでは当たり前に負担や歪みは増大しますよね。自分を曲げてまで何かになろうとすると、ポキリと折れてしまいます。(曲げるにしても、ゆっくり時間をかけて、馴染ませなければ)
タイプを知ることにはそういう面もあって、いくら理想があるからといって生まれ持ったタイプを歪みが出るほど矯正しようとするのは止めましょう、って部分もあると思います。そんな馬鹿げたことを止すためにも、タイプというものを表層的な言葉のみではなく、もう少し知ってみましょうか、というのです。
それぞれの態度には長所もあれば短所もあるわけで、自分の価値観だけでそれを捉え、否定的な面ばかり見ていては、「タイプを見る」「タイプを知る」ことの価値が薄れてしまいます(肯定的な見方ばかりするのも、同意ですが)。
タイプを認識するのはそれを知って一喜一憂するためのものでもないし、それを知って好きなように矯正しようというのでもありません。といっても、何かしらを諦めるというのでもありません。大事なのは、前述の通り、「その先」ですね。
「内向的だから○○だ」「外向的だから○○だ」と、そこで終われば話が切れてしまうわけで、しかも否定的な面ばかりに注目したなら、悲しいものがあります。タイプには否定的な面もあれば肯定的な面もあるので、それはそれで受け取り、認め、それを出発点としてどうしましょうか、ということです。
誰かに矯正されるのでもなく、いらいもっちゃにされるのでもなく、嘆かれるのでも諦められるのでもなく、生まれ持ったものは生まれ持ったものとして受け取りながら、それを踏まえてどう生きましょうか、ってことですね。つまり、自分で生きる。
肯定的な意味もあれば否定的な意味もある以上、時には長所を伸ばし、時には短所を克服し、あるものを鍛え、ないものを補い、自分の持っているものは自分の持っているもので受け容れて、それ以前に自分の性格やパターンのようなものを一度しっかり意識化してみる。そういうことになるんでしょうね。
物事にはいい面もあれば悪い面もある、そもそも善悪で分けられないようなことも多い。タイプだってそうで、多面的で必ずしも善悪に分けられるものではない。そんな傾向を知って、まず前提として踏まえましょうというんですね。
「わたしはここに立っている。さて、どこに進もうか」――みたいな。
☆
因みに、「内向」と「外向」を辞書で引くと、以下のように書いてあります。
【内向】上からも分かるように、内向の態度を持つ人の心のはたらきは内に向かい、外向の態度を持つ人の心のはたらきは外に向かいます。後者は心のはたらきが外に向かうので、積極的に「外」=「外界」=「世間」に関わろうとするのに対し、前者は心のはたらきが内に向かうので、そういうことには消極的で、控え目な印象を与えます。外と関わるよりは、自分の中のイメージのほうに関心があったりします。それぞれ関心をもち関わろうとする方向が、内向きであったり、外向きであったりするんですね。そういうものが目に見える態度として表れてくるわけです。
心のはたらきが外に向かわず、自分の内面に向かうこと。
【内向性】
〔心〕 ユングによる性格タイプの一。内気・控えめで思慮深いが、実行力に乏しく、周囲の社会的なものへの興味をもたず、自己の内面に関心をもつ性格。
【外向】
心のはたらきが外界に対して積極的・能動的・実践的なこと。
【外向性】
ユングによる性格タイプの一。活動的で、感情をよく表にあらわし、社交的で周囲に同化しやすくいつも外のものに関心を示すような性格。
(三省堂「大辞林」より)
非常にざっくりした例でいうと、外向型はみんなと一緒に外を駆け回るようなことを好み、内向型はひとり部屋の中で本を読み、その中の世界を生きるのを好んだりします。(あくまで大雑把な例ですが)
☆
その人が「何に興味を持ち、何に惹かれるか」、ということで態度が見えてきます。
その人の関心が主に外界の事象に向けられるとき、「外向的」傾向が見られ、
その人の関心が主に自身の内界に向けられるとき、「内向的」傾向が見られます。
どちらかというと、実際の世界・現実世界のほうに関心が高いのが「外向型」、どちらかというと、心の世界やイメージの世界、自分の中の世界に関心があるのが「内向型」――ともいえるでしょうか。そして、前者は「みんなの世界」「みんなと共有できる世界」であり、後者は「自分だけの世界」「みんなとは簡単に共有できない世界」です。まあ、ざっくりした言い方になりますが。
(*「簡単にはみんなとは共有できない」と書きましたが、それが不可能だということではありません。例えば、目の前にある画は「これ」としてそこにいる人みんなで共有認識できますが、心の中にある画は、「これ」と言って共有できるものではありません。しかし、共有できるようにする方法もあるわけでしょ)
例えば、同じ現象を見ても、それぞれ思うことは違ったりします。
外向型の人は外に表れるものを中心に注目するかもしれません。態度であるとか言動であるとか、それぞれの目に見える関係だとか、そういう外的要素に注目したりします。
一方、内向型の人は外には表れないもの=内にあるものに注目するかもしれません。その人の気持ちや、外には表れ難い心の動き、あるいは(目には見えない)関係、そういった内的要素にこそ注目するかもしれません。
まあ、どちらのタイプにしろ、それのみに注目するもんでもないでしょうが、違うタイプよりはその傾向が強いことになるんでしょうね。例えば、外向型にしたって目に見えない感情を無視するわけではありませんが、それよりは外に表れるものに注目しやすい。内向型の人にしても、外に表れるものを無視するわけでなく、むしろそれから内にあるものを察したりしますが、内にあるものをより注目したりする。そういうことなんでしょう。
あるいは、関わり方にしても、外向型は直接的に、そして積極的に、誰にでも分かる形で関わろうとするでしょうか。一方、内向型は直接的ではなく(間接的に)、そして(目に見えるカタチとしては)消極的に控え目に、外には表れないカタチで関与しようとするかもしれません。(*というのは、外には表れないだけで、内面ではいろいろ考えたりして関与していることもあるからです)
このように、同じ現象を見たとしても、注目する点や考え方、関与の仕方というのは、タイプによって違ってくるわけですね。
人がある種の意見を持ったとして、その考えを得た瞬間に積極的に皆に伝える人もいるし、自分にとって真理ともいえる考えを得ても、なかなか口には出さない人もいます。この場合、前者が「外向的」、後者が「内向的」と言えます。外向型にとって知識や考えというのは当たり前に共有するものであって、しかし内向型にとってはむしろ自分で持つという意味の方が強いのでしょう。そういう意味では、広く一般的な価値観を大事にするのが外向型、自分の価値観を大事にするのが内向型――そういう見方も出来るかもしれません。
また別の見方をすれば、ことを成すのに、まず行動し、それから内に取り込むのが「外向型」、まず内的に形作り、それからそれを外に現すのが「内向型」、とも言えるでしょうか。(故に、外向型は行動的であり、内向型は引っ込み思案的なのかもしれません)
このような傾向は新しい環境に身を置いたときに顕著に現れたりします。外向的な人は新しい環境に身を置いても、苦労することなく適当な態度をとり、周囲と折り合いをつけるのが比較的得意です。深く考えないで、適度に、適当に、振舞えます。一方、内向的な人はそれを苦痛に感じ、戸惑い、身動きが取りづらくなるかもしれません。外向型があまり深く考えず適度に振舞えるのに対し、内向型は深く考えてしまい、ギクシャクしてしまう。
こういう面のみに注目すると外向型のほうがよくて内向型は困るといった風に思われるかもしれませんが、内向型の人がいつもそうかというとそうではなくて、仲間やよく知った人の中でだと、考えすぎることもなく、のびのびとやれたりします。また、そういう場では外向型にはない深みを発揮できることもあるわけですから、安易にどちらがいいとはいえません。それぞれにはそれぞれの特長(すぐれた面)があるというだけです。それに、内向型はなかなか適応しなくて困ると嘆くよりは、内向型でも安心して振舞えるような場を作るほうが気が利いていると思います。
外向や内向の態度を実感するものとして、「疲労感」というのもあるかもしれません。それぞれは逆の態度が求められるような場に長くいると、どうしても疲れてしまいます。まあ、当たり前といえば当たり前なんですが、もともとあるものを無理やり逆転させようとすると、どうしても疲れますよね。苦手なことを延々とやらされるわけですから、そりゃ疲れます。ということは、人と人とが大いに関わり合うような場で疲れるというのは、内向型の人が無理やり合わせようとして疲れているのかもしれません。逆に、人と人とがあまりべたべたと関わってはならず、静かにしていなければならないような場で疲れるというのは、外向型の人が無理やり場に合わせようとして疲弊しているのかもしれません。まあ、社会で生きる以上、どちらの場にしても身を置かねばならなかったりしますが、こういう理(ことわり)が分かっていれば配慮のしようもあるわけで、簡単に非難したり矯正したりするだけにならぬためにも、タイプやタイプの差というのは、ある程度知っておくべきかもしれません。
☆
外向的な子供は一般的に得をするようです。どこにいても適当な態度を取れるので、大人や先生、新しい仲間にも好かれます。それが自信へとつながることも多いでしょうか。但し、これも過ぎると、言わないでいいことを言ったり、危険な行為をしたりして、叱られたり、煙たがられることもあります。「やり過ぎ」ってのは危険ですからね。
「適当」というのは興味深い言葉です。「適当」には、「ふさわしい」というような意味と、「いい加減な」というような意味があります。まさに、外向的な人は、その場その場の状況に応じて、時に「ふさわしい」、時に「いい加減な」態度をとるのが上手な傾向があります。あるいは、息を抜くのがうまい、と言ってもいいでしょうか。(「いい加減」というより、「好い加減」ですかね)
逆に、内向的な人は、「いい加減な」態度をとることが苦手なようです。その場に「ふさわしい」と思われる態度を「とらなければならない」という思いが強すぎて、「いい加減」な態度をとることができず、頑張りすぎて疲弊してしまうことも多いようにも感じます。
・「こういうところでは、面白いことを言わなければならない」
・「こういう場面では、きっちりとしなければならない」
そういう思いも大事ですが、あまりに思いが強すぎると、自身の行動を制限することになるし、何より息苦しいですよね。まさに、「息を抜く」ことが必要になります。ただ、その一方で、その場に「ふさわしい」態度に興味がなさすぎて、ゆえに適応できない場合もあるわけで、なかなか難しいです。
外向型は一般に内にあるものを外に出すのにためらいがありません。一方、内向型は内にあるものを外に出すのをためらいがちです。その辺がスムーズさに違いを生じさせているのかもしれませんね。(といっても、外向型だから何でもためらわずに外に出すわけでもないし、内向型だから何も出さないわけでもありませんが)。そうすると、外向型は内から外に向かう道が広く、内向型は狭いということになるでしょうか。しかしそれは、内向型は内に向かう道が広く、外向型は内に向かう道が狭い、ということも意味しているのでしょう。あるいは、道ということですから、それぞれよく使う道は整備されているわけで、外向型は外に向かう道が、内向型は内に向かう道が、それぞれ通りやすいように整備されているのかもしれません。また、逆の道は、未整備で、通り難くなっているのかもしれませんね。
あるいは、「共有」というのも、ひとつのキーワードになるでしょうか。外向型は当たり前に多くを共有します。発言して考えを共有し、輪の中に入って体験を共有し、いろんなことを紹介しあって、共有したりします。一方、内向型は共有ということが苦手だったり、初めから関心が薄かったりします。それにはもともと「内的なものは共有しづらい」ということも関係すると思われますが、ともかく共有するのが苦手だったり、億劫だったり、関心がなかったり。外向型がみんなで共有しようとするのに対し、内向型は時に自分だけで満足してしまったりします。
これも性格や傾向であって、善悪云々ではありませんが、人間は生きていると善悪抜きにして足りないものを補う必要が出てきたりするので、その時は「共有」ということも考える必要が出てくるのかもしれませんね。そして、共有するのが得意な外向型にしても、今度は簡単には共有できないものと向き合わねばならないので、たいへんさという面では同じなんでしょう。
内向的な子供は一般に、理解されるのに時間がかかる傾向があります。仲間にも、大人や先生にも馴染むのに時間がかかるので、心配されることも多いようです。また、それが自信の無さや、否定的な考えにつながることもあるでしょうか。
しかしながら、この子達も内的に立派な財産を持っているので、行過ぎた心配をすることはないと思います。むしろ温かい目で待つことができれば、その保護された空間で徐々に自分らしさを発揮してゆき、その世界を広げてゆけるのではないでしょうか。付き合いが深まるにつれ、その人の奥の深さに感動することになるかもしれません。したがって、早く馴染めないことを異常なことのように言い、無用な劣等感を植え付けないような配慮の方が必要かもしれません。
「心配」というのは善意に基づいたいいものと捉えられがちですが、いちいち心配して子供に劣等感を抱かせる場合もあるわけで、そんなことをするよりは大人がフラフラせずどっしり構えられるように自分を鍛えるほうが気が利いているのかもしれません。まあ、何も心配せずに放っておくのがいいというわけではありませんが、心配と称して「あなたは変わっている」とか「あなたは遅れている」とかいうのを幼い内から心に根付かせることもないですね。
人前で表現するのが下手な子も、家族の中で表現することを覚え、それが友達の中でできるようになり、やがて表現できる世界を広げていく、そういうこともあるでしょう。それに生き方として、広く浅く生きる生き方もあれば、狭いが深く生きる生き方もあります。それぞれどちらがいいとは言えないわけだから、無理やり矯正することもないでしょう。矯正に矯正を重ねたツケが後々回ってくることを考えると、人の性格をいじるのは本当に怖いことです。(それが大人たちの身勝手な価値観だとしたら、尚更です)
ただ、何でも好きにやらせろ、というのでもないですよ。例えば、内向的な子でも挨拶ぐらいはできた方がいいし、外向的な子でも公共機関のような場所では静かにすることが望まれたりします。最低限必要なことは必要なこととして習得する必要はあるでしょう。しかし、それ以上となると話は別です。その辺のバランスを、大人こそ学ばねばならないということですな。いつでもどこでも元気でいればいいというものでもないし、いつでもどこでも静かであればいいというものでもない。それぞれのタイプと社会に生きるものとして身につけなければならないものとの間で、いろいろと考えることになるのだと思います。そして、その時に、前提として、タイプというものを知っておいたほうがいいということです。鳥を海につけて溺れさせることもないし、魚を陸に上げて干上がらせることもないですからね。こういう例を馬鹿げたこととして笑う人もいるかもしれませんが、案外、「それに似たこと」というのは、やっているものです。
さて、「程度」という問題が出てきましたが、自分に負える程度を超えているとか、どうしても不安だとか、そういう場合は、やはり専門家に相談したらいいと思います。それで安心できる面もあるだろうし、何かあったらあったで対応できるでしょうしね。手に負えないものは、自分だけで背負おうとせず、相談したらいいと思いますよ。
☆
同じひとりの人間の中にも、両方の態度があるものですよね。どこでもいつでも、どちらかの態度が100%出ているというわけではなく、その割合がありながら、両方を有していたりするでしょ。例えば、内向的な人でも家や仲間内の間では、比較的外向的になったりします。外向的な人でも苦手な場所があったりして、そこでは積極性が見えなくなることもあるでしょ。あるいは、逆転現象のようなものが生じることもあって、内向的な人が急に羽目を外して活発になって周囲を驚かせてみたり、外向的な人が急にひどく沈んでしまったり、いろんなことに億劫になってしまうこともあります。
こういうことを鑑みるに、態度というのは「表に出る態度」と「表には出ない態度」があると考えられます。一般にいう「外向」「内向」の態度は「表に出る態度」のことであり、その他にも「表には出ない態度」があるということです。つまり、内向型は表に出る態度として内向を持ち、そして表にでは出ない態度としては外向を持つ。同じく、外向型は表に出る態度として外向を持ち、表には出ない態度として内向を持つ。いわゆる「陰陽」のように、我々は二つの態度を併せ持っているわけです。そして、その内の片方が、いつも比較的表に出ている。そこに注目して、我々は態度を確認することができるわけです。そして、前述の通り、表に出る態度にしても100%それのみが出るのではなく、例えば「6対4」だとか「7対3」だとか、比較的どちらかの態度が優位に立って表れるので、それを材料に(ある程度は)判断可能だというわけですね。
そして、この表に出ている態度と表には出にくい態度の間には、奇妙なバランス関係があるようで、表に出る態度があまりに一面的であったり、勝ちすぎる場合は、ふだん表に出ていない影の態度が、むくむくと活動しだすようです。内向的な人の中に急に外向的な態度が表れたり、外向的な人の中に急に内向的な態度が現れたりするのは、そういうわけなんですね。それはまるで「振り子」のような関係にあり、上に立つ一方の態度があまりに重くなると、バランスを崩して=あるいは、バランスを回復するために、ぐるりと転換したりするわけです。
そして、この「表と裏」ですが、「意識と無意識」にも置き換えられます。表に出る態度は意識的に把握できるが、裏の態度は意識的には把握できず、つまり、無意識です。行動にしても、我々は自身のタイプにそって判断し、意識的に行動するのですが、時に、意識に反した行動をしてしまい驚くこともあります。後者は無意識的なものであり、さらには意識的な態度とは真逆のものであることもしばしば。このように、今問題にしている二つの態度にしても、表に出る態度もあれば裏に潜んでいる態度もあり、表の態度があまりに一面的になるとき、裏の態度が意識の統制を破って出てきたりするので、人間が持っているのはどちらかひとつの態度であるというわけではありません。ひとりの人間の中にも両方が存在するということも知っておかねばならないでしょう。
そして、「ふだん表に現れない」態度というのは、「普段から使われていない」とイコールであり、その分未成熟で不器用です。どちらのタイプにしろ、自分のタイプではない態度が表に現れたときに驚いたり恥ずかしいことになったりするのは、このためです。普段から使われていないので、どうしてもスマートでない現れ方をしてしまうんですね。それだけ慣れていないわけです。まあ、ここに改善や成長のヒントがあったりするんですけどね。
このように、実は我々は表に現れる態度と共に、奥に潜む別の態度も持っているのです。そしてまた、その奥の態度が急に顔を出す場合もあるわけだし、人生の困難を通じて、そのふだんあまり付き合うことのない、奥の態度と向かい合うことを強いられることもあります。そして、その一見ややこしくてしんどい対決も、実はいいものであることも、後々ご理解していただけると思います。
まあ、その話は後々に…
【関連記事】「内向と外向/心の地図(感じやすさと生き難さ)」(日記より)
余談ですが、私はある時、外向型の典型のような女性と話をする機会を得ました。彼女は強いリーダシップを持ち、それを職業にも活かしています。彼女はあれこれ考えるよりは、まず行動してみる、とのことでした。ことを成すのにまず考えてみる私とは対照的です。
私はどちらかというと外向型の人が好きではありませんでしたが、この人は素敵だと思いました。また自分と大いに共通する点を持つ方だと思いました。
彼女はまず行動し、そこで得られたものを内に取り込みます。一方、私はまず考え、そこで得られたものを外に現します。共通する点は、ともに物事の核心に触れようとすることでした。
私は「外向型の人は表層にとらわれる傾向にあり、物事の真理はあまり考えないのでは…」という偏見を持っていましたから、これは意外な点でした。嬉しい驚き、と言っていいかもしれません。
このような「気づき」があって、人間は少しずつ成長するのではないかと思います。
2・四つの機能
ユングは、人間はそれぞれ最も得意な心理的機能を持っていると考え、「思考」「直観」「感覚」「感情」の四つを定義しました。
例えば、ある絵画を見た場合でも、人によって起こる情動は違います。以下に例を挙げてみます(あくまで、例えです)――
「思考型」・・・・この絵は何を意味するのだろう? などと考える、判断する。
何派のどういった画か、属性などについて考えを巡らせたりする。
「直観型」・・・・まったく別の発想を得る、そこから可能性を得る、受け取る。
この画をヒントに、別の問題の答えを導き出したりする。
「感覚型」・・・・色や形を的確に把握する、そのまま詳細に受け取る。
「感情型」・・・・好きか嫌いか、感じがいいとか悪いとかを決める、判断する。
あるいは、美味しい饅頭に出会った時は――
「思考型」・・・・何でこんなに美味しいんだろう? (理由を考えたり)
「直観型」・・・・この味は○○に使えるぞ! (使い道を考えたり)
「感覚型」・・・・△△の風味や□□の味がする。 (味そのものを細かく受け取ったり)
「感情型」・・・・すごく美味しい! (好き嫌いの感情が前に出たり)
まあ、美味しい饅頭ならどのタイプでも「美味しい」と言いそうですが、そこからつながる感想なり発想なりには違いが出るかもしれませんね。
我々は物事なり事象なりに接した時、自分のパターンにそって何かを受け取ったり思ったりしますが、主にどういう機能に頼っているかに注目することで、自分のタイプが見えてきます。何かにつけ考え込むとか、好き嫌いで分けるとか、何かがひらめくとか、その詳細を細かく覚えているとか、それによって自分のタイプが見えてくるんですね。
更に、前述の「内向」「外向」の態度と組み合わせて、内向的思考型とか、外向的感情型という風に、八つのタイプが規定できます。
☆
ユングは「思考」と「感情」を合理的機能(rational function)、「直観」と「感覚」を非合理的機能(irrational function)と呼んでいます。これは、「思考」「感情」が何らかの判断を下すのに対し、「直観」「感覚」はまず自分のうちに取り入れる機能だからです。
「思考」型の人は、それが何ものであるか考えたり、何に属するかと考えたりと、思考的なもので、分類・判断・規定します。目の前の「それ」に判断を下すのです。
「感情」型の人は、それが好きか嫌いか、快いか不快か等、感情的なもので、判断したり、分類したりします。
このように「思考」「感情」共に、ある事象に対し、ある種の方向付けをしたり分類したり、合理的に判断を下します。何らかの理論なり体系にそったものなのか、あるいは感情に従ったものなのかは別にして、ともかく判断しているんですね。分けています。
ただ、こういうのは逆に言えば、そこにあるものを、そのまま受け取るのが苦手だといえます。なまじ判断基準が明確なだけに、そこにあるものを「そのまま」受け取れないんですね。思考型でいうと、いちいち意味を考えてしまったり、属性を考えてしまったり、感情型でいうと、いちいち好き嫌いや感じのよさ悪さを考えてしまったり、そこにあるものを「そのまま」受け取るのではなくて、受け取る際に分けてしまいます。「これは○○なもの」と判断を下している。つまり裏を返せば、「そのまま」「未加工に」受け取るのは苦手なのです。
そして、そこでこだわりを持ってしまうと、思考型は時に「どうして?」と思ってしまったり、感情型は時に「嫌いなのに」と思ってしまって、うまく受け取れないこともあるかもしれません。(←そのおかげで助かることもあるんですが)
一方、非合理的機能の方ですが、ここでいう「非合理」とは「合理的ではない」とか「論理に合わない」という意味ではなくて、いわば「合理的判断を必要としない」とか「論理にとらわれない」という意味だと思われます。実際、「直観」「感覚」型の人は、目の前の事象を、そのまま受け取るのが得意です。
「直観」型の人は、そこから可能性を受け取ります。そこに付随する発想やインスピレーションを受け取るんですね。ある意味、無形のものを感じ、受け取るのです。
「感覚」型の人は、とにかく、そのままの形状、色彩などを詳細に受け取ります。外的にしろ、内的にしろ、そこにあるものを、そのまま受け取ります。
このように、「直観」「感覚」型の人は、あれこれ考えたり、好き嫌いを判断する前に、ともかく、そこにあるものをそのまま受け取るのが得意なようです。
但し、その分、その理由を導き出したり感情を表現することが不得意だったりするわけで、まあ、どちらがいいというものでもありません。あくまでそれぞれそういうタイプだということなんでしょう。
これらの合理的機能は互いに対立するペアをなします。「思考 対 感情」「直観 対 感覚」で、対立するペアを構成しています。それぞれは得意・不得意、成熟・未成熟のような関係にあり、一方の機能が勝っていると、対立する機能は不器用だったりします。
思考的傾向が強い人は感情が未分化・未発達であり、感情的傾向が強い人は思考が未分化・未発達です。実際、思考型の人は、考えを深めるのが得意ですが、感情を表現するのが苦手だったりしますよね。逆に、感情型の人は、感情を表現するのが得意ですが、考えを深めるのが苦手だったりします。
これは非合理的機能の方にも言え、直観的傾向が強い人は感覚が未分化・未発達で、感覚的傾向が強い人は直観が未分化・未発達です。直観型の人は、可能性を見出すのが得意ですが、そのものの形状・色彩などを覚えるのは苦手で、実際、可能性を追いかける人は目の前のことには無頓着だったりします。また、感覚型の人は、そのものの形状・色彩を受け取るのが得意ですが、そこに潜む可能性を見出すことが苦手で、そのものは大いに味わうのだけれど、それをどう使うかには無頓着だったりします。こういうことを考えると、それぞれ受け取るのを得意としながら、直観型は「その先」といったものを見る傾向にあり、感覚型は「今ここ」を見て楽しむ傾向があるのかもしれません。故に、直観型は先の可能性を見出し、感覚型はそこにある感覚を受け取るのです。
ところで、「未分化」という言葉が出てきましたが、それぞれの苦手なものはそれが無いわけではなく、分化されていない、つまり、うまいこと確立されていないだけなんですね。好んで使う機能はいつも使うだけあって洗練され確立されているわけですが、苦手な機能というのは普段から使われず、むしろ仕舞われているので、確立されていないのです。
【分化】
(1)単純なもの・等質なものが、複雑なもの・異質なものに分かれてゆくこと。
(2)生物の発生の過程で、分裂増殖する細胞がそれぞれ形態的・機能的に変化して、役割に応じた特異性が確立していく現象。生物種族のたどる形態変化にもあてはまる。
(3)〔心〕 条件づけにおいて、二つ以上の刺激の中の特定の刺激に対してだけ反応を形成すること。
【未分化】
まだ、分化していないこと。未分。
(三省堂「大辞林」より)
そして、未分化な機能というのは思ってもないような強さをもっていたりするので不思議です。先の態度の話でもそうでしたが、無意識下に隠れているものというのは、時に大きなエネルギーをもって表(意識)に現れたりします。ただ、エネルギーは大きいものの、その使い方がスマートではなく、時には幼稚で、よろしくないことになってしまいがちです。未分化なだけに、トラブルを招くこともしばしば。力というのはそれそのものに善悪の判断を下すことはできませんが、その使い方によっていかようにもなるようですね。
【余談】
「タイプの罠/〜せずにはおれない」
このように、我々人間にはよく使う機能があって、それに頼って日々を生きていたりするのですが、それぞれの機能にはぞれのれの得意とする分野があるわけだし、逆に言えば、不得意な分野もあるということになります。つまり、それぞれ活躍できる場もあれば、そうでない場もあるということですね。
そして我々がひとつの機能のみを頼る限り、どうしても限界を迎えることになります。「それだけではどうしようもない」とか、「それだけでは切り抜けられない」とか、むしろ「それに頼るおかげで困ってしまう」という事態も起こりうるわけです。
☆
自分の機能を頼るのはいいとして、でも、「そればかり」だとか「そうせずにはおれない」となると、ややこしいですよね。
例えば、思考。思考を得意とし、考えるのはいいですが、何かにつけ「考えずにはおれない」となると、ややこしいです。いちいち意味を考えたり、分類していては、しんどそうですね。例えば、あちらから何かが来るような場合、それが分類可能ならいいですが、うまく分類できないとか、また分類する必要がないようなものなら、さてどうなるでしょうか。
感情はどうでしょう。感情は感情でいいものですが、何かにつけ「好き嫌いに分けずにはおれない」となると、どうでしょうか。好き嫌いで分けるのは別に構わないと思いますが、時には「好き嫌いで分ける以上に大切なこと」もあったりするので、そういう時に好き嫌いで判断すると、困るかもしれません。
直観はどうでしょう。可能性を見出せるのはなかなかの武器ですが、何かにつけ「可能性を見出さないと気が済まない」「可能性を追いかけないと気が済まない」となると、困るかもしれません。可能性というのは先を見ることですから、足元の方に気をつけないと、とんでもないことになるかもしれません。
感覚はどうでしょう。目の前のものを細かくそのまま受け取るのも才能ですが、何かにつけ「詳細に受け取らずにはおれない」となると、しんどくなるかもしれません。何でもかんでも受け取ると、容量オーバーになるかもしれません。今やここから離れられず、先になかなか進めないかもしれませんね。
☆
こういう風に、それぞれの機能も使い道があって、使うのに適した場もあるということ。逆に、使わないでいいような場で使っていると、いちいちしんどかったり、うまくいかなくなったりもする、ということになります。
ただ、こういうのは何も悲観的になるようなことばかりではなくて、こういうところにヒントが隠されているということです。そこに改善の余地があったりするんですね。
さて、大まかな説明をしたところで、次に、実際の各機能を見ていきたいと思います。
●思考型
「その固有の法則にしたがって、与えられた表象の内容に概念的なつながりをもたらす心理機能」とユングは言います。
その固有の法則とは、世の中にある法則や体系であったり、自分の持っている法則や体系だったり。「表象」(ひょうしょう)とは「心に思い浮かべられる外的対象の像」。
つまり、感覚機能や直観機能によって受け取ったもの(知覚したもの、記憶に起因するもの、直観として受け取ったものなど)を、その法則や体系にしたがって、分類したり、組み立てたり、意味を考えたりする機能です。
それが内部にあるも(心の中に生じたもの)であっても、外部にあるもの(目に見えるカタチとしてあるもの)であっても、それを法則や体系にしたがって、概念によって捉えて処理する。頭の中で考えて処理する。そこにある、性質、共通性、本質などに注目し、それを整理したり、把握したり、あるいは組み立てたりする。
もう少し一般的にいうと、「考えること」、「知識や経験などをもとに、それを結びつけたり、組み合わせたりして、あれこれ考えること」。感覚や直観から得たものを、「知識や経験により概念化し、判断したり、推理したりして、把握すること」。
主に外的な事実に依存して思考するのが、「外向的思考」型。内界に生じるイメージに依存するのが、「内向的思考」型であるといえます。(但し、両方を持ち合わせるのが普通で、どちらに力点がおかれているかによって、分けることができるように思います)
【外向的思考】
このタイプの人は、外的な基準を取り入れ、知的な考察に基づいて行動します。自分の思考体系というよりは、一般的な、あるいは、一般にも受け入れられるような、思考体系を好みます。同じ思考でも彼らは、共有できる基準を好むのです。したがって、自分で体系や法則を作るというよりは、既にあるものに従おうとします。
故に、このタイプの価値基準・判断基準は、良い悪いは別にして、一般的です。既に確立されているものを好む、といってもいいでしょうか。それらは広くみんなで共有するものだと考えているので、独り善がりな基準には固執しません。これが外向的思考タイプの強みでもあり、同時に弱みでもあります。
誰とでも共有できる思考体系を持つことで、社会で生きるということや公の場でものを言うことがスムーズに進みやすい。いちいち説明することもあまり必要なく、理解も得られやすいかもしれませんね。ただ、それも過ぎると独創性が失われるわけで、面白みにかけたり、硬い印象を与えるかもしれません。あるいは融通が利かなくなる、ということも出てくるでしょうか。
外向的思考タイプは外的基準という「枠」を大事にし、多くのものをそこにはめ込もうとします。これはこうで、それはそうでという風に、枠にはめ込み、図式どおりにきっちりとしたい。ただし、それも過ぎると、「例外を赦さぬ態度」で、相手や自分を苦しめてしまうかもしれません。一般的な基準から外れることを赦さないとか。
彼らはこれを自分の生活にも適用しようとするので、感情というものを抑圧しがちです。感情に従いフラフラするよりは、自分の生活というものをきっちりと枠に収めたいと考えます。「これだからこうなった」「それだからそうなった」「○○だから、こうすべき」と、自分の考える図式にしたがって、きっちり納得できるように収めたいのです。
しかし、前にも述べたように、奥に仕舞ってあるものというのは、特に意識的な働きが一面的であればあるほど、ひょっこり顔を出したりします。それもけっこうなエネルギーを持って。したがって、普段感情に流されずにいる外向的思考タイプが、急に感情的になることもあります。大爆発を起こして周囲を驚かせたり、あるいは情に流されて、普段では考えられないようなことをする場合もあるかもしれません。
硬い枠と、その補償作用としての感情の未分化な発現。これによって、このタイプは自分や周囲を驚かせたり、困らせるかもしれません。
社会的なことを考えると、外向的思考タイプは問題を解決したり、明確にしたり、必要なものと不必要なものを分けたりするのを得意とするようです。外的な基準を用いるだけあって、実際的なことは得意です(←経験則にそってますから)。また前述の通り、一般的な考えを用いるので、相手に伝えやすいし、受け入れられやすい傾向もあわせ持つでしょうか。こういう傾向がうまく働くと、社会で成功を収めるかもしれません。
この型の人が関心を寄せるのは外的事象であって、(内的な)理論とか観念ではありません。彼らは実際的な経験則を好み、それをどんな状況にも当てはめようとします。彼らは感情よりも思考を上におくので、冷たく、よそよそしく見えることもあります。(よく言えば、クールでしょうか)
外向的思考タイプが注目するのは、みんなが知っているそれ、つまり客観的な存在であり、また客観的な観念です。みんなが知るそれをみんなが知る観念で説明したり、判断したりします。これによりこのタイプは高い適応力を持つことになります。注目するものも、それに判断を下すものも、みなと共有しているものなので、コミュニケーションに困りません。彼らのやることは社会的には妥当で、実際的。ただし、それを個人に当てはめる際には、正しいけれどやりすぎ、ということにもなりかねないので注意が必要かもしれません(←前述の枠の話ですね)。
このタイプは高い知性をもつ反面、その知性が感情を抑えつける傾向を持ちます。それは獣ではないという意味では人間らしいと取れますが、人間も自然から生まれているとか、人間の中にも自然なものがあるという意味では、人間らしさに欠けるということになってしまいます。時に、このタイプは原理原則を取り、情を抑え込んでしまうのです。(まあ、その反作用で情に溺れることもあるわけですが…)
(その影)
内向的感情。
感情というのは勝手に湧いてくるもの、やって来るもので、思考のようにあれこれと組み立てるものではありません。意識を思考に使うこのタイプは、感情というものを意識するのが苦手です。というのは考えながら感情に従うのは困難だし、感情に従いながら考えるのは困難だから。本来、好き嫌いというのは考えて判断するのではなく、感情に従い判断するものでしょ? まあ、思考タイプは考えることによって好き嫌いを判断することがありますが、それは思考的な判断であって、感情的な判断ではないわけですね。一方の機能をONにしている限り、もう一方の機能はOFFになるのが常です。
じゃあ思考タイプには感情が無いのかというと、もちろんそんなことはないです。ただ、感情に従っていないとか、それを拒否しがちだとか、苦手だとか、慣れてないとか、そういうことでしょう。あるにはあるが、うまく活性化していないんですね。
で、うまく働いていないから、時に感情的な爆発を起こしたり、情緒に溺れたりすることもあります。常という意味では感情を意識するのが苦手であり、時々という意味では不器用な発現をしてしまいます。つまり未だ未分化で、うまく整備されていないんですね。感情というものが何らかの道を通ると仮定すると、感情タイプのそれが整備されていてスムーズなのに対し、思考タイプのそれは整備されておらず(そもそも使っていないので)、スムーズにはいかないのです。
あと、知識の共有には勝っている外向的思考ですが、感情の共有という意味では苦手で、同じ観念を共有しているという意識が強いためか、周りの人の感情という点では無頓着な傾向があります。また、価値基準や法則、社会道徳や規律というものに重きを置くため、人の感情というものが、自分という意味でも、相手という意味でも、軽んじられるきらいもあります。
そのためか、プライベートが軽視されることもあって、それよりは会社や組織、社会的な貢献の方が優先されることもあるでしょうか。
(補助機能としての感覚)
外向的思考+補助機能としての感覚。
このタイプは、感覚機能によって受け取った外的事実に注目し、それを思考によって処理します。つまり実際的な経験を重んじるわけです。実際の経験を元に、分類したり、説明したり、整理したりする。思考する材料にしても、思考に用いる基準にしても、外的な事実や経験を使うことを好む。
(補助機能としての直観)
外向的思考+補助機能としての直観。
このタイプは、直観機能によって受け取ったひらめきなどに注目し、それを思考によって処理します。したがって上のタイプとは違い、実際の経験というよりは、頭の中で理性に頼って考える。というのも、直観というのは「これからどうなるか」といったものを知覚する機能なので、経験云々の話にはなりにくい。
傾向:
みなで共有できるような外的基準に従う。
考えというのはみなに説明できて当たり前で、そういう面では不自由しない。
逆に、「自分だけ分かる」というものには興味がない。
外的基準を大事にするため、融通が利かないことがある。
図式や道理どおりに進まないことにストレスを感じる。
感情に無頓着で、日頃から抑圧しがち。
その補償作用としてコントロールできない感情に驚くこともある。
社会的な適応力が高い。
その反面、周りの人の感情に意識がいかなかったりする。
このタイプが窮地に陥るのは、外的基準にこだわるあまり、例外を赦せなくなった時。何が何でも枠に納めようとすると、そこからはみ出る部分が傷ついてしまうかもしれません。基準や枠も、過ぎると「囚われ」になってしまいます。
しかし、逆に言えば、それを緩めれば楽にもなれるわけで、そこにヒントが隠されているのかもしれません。
このタイプはこのタイプでいいものをたくさん持っているわけで、それに固執するあまり多くを見逃し生きるでもなし、それを棄ててしまうでもなし、ちょうどいいように折り合いをつけるのがいいんでしょうね。基本姿勢を持ちつつ、例外も認める。それでいいんではないでしょうか。
また、それに至るまでにいろいろ悩んだり、揺れるのも、そうそう悪くはないでしょう。(まあ、苦しいのは苦しいんですが…)
自分が信じる一般論的な枠、それと共に、枠の外にある(今は未知な)ものも認められると、豊かになっていくかもしれませんね。
【内向的思考】
このタイプの人も、知的考察によって行動します。但し、彼らは内的基準に従う傾向にあります。(自分の理論、自分の考え、とかですね)。彼らは概して外界の事象そのものにあまり興味を示さず、本質的には(外界の事象によってもたらされる)内的な理論や観念に関心があります。外界の事実よりは、内界の見解(=見方、考え方)に重きを置くのです。外向型が客観的なのに対し、内向型は主観的です。外向型は目の前の「そのもの」について語ろうとしますが、内向型は目の前のそれによって導き出された見解を語ろうとします。(いわば自分目線ですかね)。これが建設的に働けば、独創的になるし、否定的に働けば、独りよがりな考えや、理解不能の考えになってしまうかもしれません。
外向的思考タイプが「共有」という面に優れているのに対し、内向的思考タイプは共有が苦手か、そもそも興味がなかったりします。前者がうまく説明したり教えたりできるのに対し、後者はうまく説明できなかったり、そもそも教える気があまりなかったりする。「みんなが分かる」よりは「自分が分かる」ことのほうを優先してしまうのです。外向的思考タイプは「誰もが理解できる見解を」と主張するのに対し、内向的思考タイプは「それぞれが自らの見解を持つべきだ」と主張します。
この人にとって大事なのは、主観的な考えの無意識下にある根源的な象徴的イメージ、その発展と提示です。無意識下のイメージを読み取り、思考によって具現化することを好みます。(一般論よりも、自分のイメージや見識に重きを置くわけです)。外向的思考タイプが事実そのものを好んだり、新しい事実を発見しようとするのに対し、内向的思考タイプは各自の見解を好み、新しい見解を生み出そうとします。同じものに対しても、「こういう見方もできるのだ」みたいな。
このタイプは一人で自分の考えに没頭することを好むので、往々にして人付き合いよりも孤独を好み、そうやって知的に満足してしまうことによって、自分の考えが一般に受け入れられるかどうかには関心がない場合が多いようです。極端な例になると「自分だけが分かっていればいい」となって、人に対して発言することや人付き合いが希薄になったりします。こうして頭の中の世界は広いものの、外の世界は狭いものになりがちです。外向的思考タイプが「世の中をどうにかしよう」とするのに対し、このタイプは「自分をどうすべきか」と考えます。関わる方向が内側なんですね。
しかし、自我が「孤独を好むのだ」「自分が知っていればそれでいい」と思ったり、思い込もうとしても、無意識の方はそれをゆるさず、その無意識の補償作用によって苦しむ場合もあります。時に「何で分からないんだ」と激昂したり、ロマンチックな空想に溺れることになるかもしれません。外向型の外への関わり方はストレートですが、内向型の外への関わり方は未分化な面がある。
(その影)
外向的感情型。
外向的思考タイプでは内側の感情経路が整備されていないように、内向的思考タイプでは外に向かう感情経路が未整備です。前者は自分の感情に従うのが不得手で、後者は自分の感情を外に出すのが不得手。また、もともとが自分の見解に重きを置く性分なので、人と感情を共有しようとはあまりしない。
しかし、思考タイプに感情が無いのかというとそんなことはないわけで、感情自体はあるが道が整備されていないだけです。また、内向きの経路は比較的整備されているので、それが孤独を愛する性分とあいまって、感じやすさや傷つきやすさとして現れるかもしれません。
自分の感じは持つには持つのですが、それを外には出そうとはしない。それが内側をぐるぐる回るので、時に感情が爆発したり、時に空想にふけったりと、比較的身近だったり、内側だったりで、感情の発現――それも未分化な発現――があるかもしれません。このタイプは感情を外に出すのがスムーズには行きにくいのです。
したがって、好き、嫌い、あるいは、どちらでもない、という感情表現・感情発現がスムーズに行きません。他のタイプならすっと通るのが、スムーズには通らない。ギクシャクしてしまう。なもんで、そういう経験が蓄積されて、余計に人から離れようとすることもあるかもしれません。
また、外側に向かう感情、感情のやり取りという面では、感情移入についても、「自分に置き換える」(=主観で捉える)という意味では得意なのですが、「それをそのまま察する」(=客観的に捉える)という点では不得意かもしれません。
このように、内向的思考タイプは外に向かう感情(外向的感情)というものに対し、ある意味、目詰まりを起こしているので、そういうものに日々悩まされているかもしれません。故に、外に身を置けば置くほど疲れやすく、それが長く続くと衰弱してしまう。
こういうことからも、このタイプは人から遠ざかろうとするのです。
(補助機能としての感覚)
内向的思考+補助機能としての感覚。
このタイプは、外界にある事象によって生じた観念を感覚により受け取ります。その観念を思考によって処理し、何ものかを導き出すのです。彼らが問題にするのは外に見える外殻ではなく、その内側にある中心、イデアだったりします。
イデアとは「個々の事物をそのものたらしめている根拠である真の実在」。そのものを、そのものたらしめているもの。人間を人間たらしめているのは○○だ、みたいな。リンゴをリンゴたらしめているのは△△だ、みたいな。そういうものをこのタイプは抽出します。(上の○○や△△に当たるものは、人によって違うんでしょうけども)
(補助機能としての直観)
内向的思考+補助機能としての直観。
このタイプは、外界にある事象の中に可能性を見出し、それを直観機能によって受け取ります。その可能性を思考によって処理し、何かを導き出すんですね。彼らはより先を見つめるので、非現実に落ち込みやすいかもしれません。先の現実は今の現実ではないので、そういう難しさを持つことになります。先の現実は今は実現されておらず、よってそれは頭の中の世界にあるものなので、理解という点ではより難しくなるかもしれません。
傾向:
自分の理論、自分の考えを大切にし、それに従う。
事実よりは見解に重きを置く。(といっても事実を無視するわけではない)
考えを共有するのが苦手で、説明したり教えるのが億劫。
内的な充足を優先し、ひとりを好み、人付き合い避ける。
その反作用で、不理解さに悩んだり、人恋しさにより空想に耽ったりする。
感情を外に出すのが苦手。
このタイプが窮地に陥るのは、自分の見解に重きを置き過ぎて、人間関係や他人の見識を軽く見てしまう時。自分だけで満足してしまうと、他者との接点が失われてしまうかもしれません。
しかし、逆に言えば、そこに改善の余地があるわけで、よくなる可能性があるということになります。
自分の見解は自分の見解で大事にし、温め、そしてそれを表現したり、説明することが加わると、接点も出てきそうです。説明することで、「共有」という点も鍛えられますしね。
ここでも自分の持っているものを大切にしながら、それでいて今までにはなかったものを取り入れ、補完すればいいのです。
「自分の見識」(自分だけの見識)を外に表現する方法を得ることによって、「人と共有すること」を学んでいけるかもしれません。その過程で難しさや嫌な思いもするかもしれませんが、その先には得られるものがあるんでしょう。
●感情型
「与えられた内容について、これを受け入れるか斥けるか、一定の価値を付与する機能」とユングは言います。
思考のような知的判断ではなくて、好きか嫌いか、快いか不快か、満足か満足でないか、美しいか美しくないか、感じがいいとか悪いとか、などで判断します。感覚や直観から得たものを、上記のように、価値をつけたり、判断したりする。
思考型は考えて判断を下しますが、感情的な判断というのはそういうプロセスを伴ないません。それは、法則や基準に頼らない、主観的な価値付けです。
時に、自分の感情による分類、その傾向を見ることによって、「○○だから好き」「××だから嫌い」という風に理由付けをすることがありますが、それはあくまで結果から見えてくる傾向であって、いちいち考えて好き嫌いを判断しているのではないでしょう。それは感情による判断に、あとで理由をつけているにすぎない。感情というのはまるで自動反応のようなものであって、本来は理屈といった経路は通っていないように思います。よくよく考えると、感情的なものに理由なんてなかったりするでしょ。
【外向的感情】
このタイプには「感情というものは共有するものだ」という前提があります。感情というものは人と人との間を行き来するものであると考え、積極的に感情を表します。「楽しいわね」「これ好き」「これ嫌い」「いいと思わない?」など。
このため、外向的感情タイプはコミュニケーション能力が高いようです。感情を表現するのが得意だし、感情を受け取るのも苦にしません。また、価値基準や判断は一般的で、多くの人に受け容れられやすいようです。前述の通り、彼らにとっての感情は「共有するもの」であり、みんなで理解し合って当たり前のものなのです。逆に、個性が過ぎる感情や価値判断には奇異さを覚えるかもしれません。
このタイプは調和を得意とし、多くの人の中に入るのも苦にしません。すぐに打ち解けて、居場所を確保します。愛想がよくて、付き合いやすく、どんな場でも「適度に」生きられる。感情が共有して当たり前のもので周囲と一致するので、軋轢が生じたり、トラブルを起こすことも少なく、割合円滑に暮らすことができるようです。
(その反面、周囲と違う価値基準を持つ人には冷たいのかもしれませんが。←冷たいというか、理解できない?)
このような人は、初対面の人に対しても好印象を与えるので、生きるのが得意な人、という見方も出来るかもしれません。実際、このタイプの人が、人の間に入り、潤滑油としての仕事をすれば、物事が円滑に進むような気もします。
このタイプは(共有に価値を置くので)一人ぼっちでいることを嫌い、自己反省はあまりしない傾向があります。あれこれ考えるよりは、自分の感情を表明したり、それに賛同を得る方が気持ちがいいのかもしれません。また、友人や同僚に人気があり、親分や姐御肌(あねごはだ)の人として慕われているケースも多いようです。
ただ、あまりにも一般論的に振舞ってしまうと、「自分自身」というものを失ってしまう可能性もあります。共有も過ぎると、主体性や個性を失ってしまいます。また、人々と共有し得ないような意見を持つ人に対し、「どうしてそんなことを言うの?」と、冷たく当たってしまうこともあるかもしれません。
親しみがあり周囲の世界に適応するのが得意な外向的感情タイプですが、それは周りに合わせるのが得意ということでもあり、したがって、「自分とは何か?」といったアイデンティティの問題への関心は低いかもしれず、その宿題は残ったままになりがちかもしれません。そして、歳をとってから考えざるを得ないような状況になり、困ってしまうことも多いでしょうか。
(その影)
内向的思考型。
外向的感情タイプは、本人が思っているより信じ込みやすい傾向があります。彼らが好むのは「感情を共有すること」。そして、劣等機能(普段使われない機能)として思考がありますから、考えるのが苦手です。比較的、外部の考えや基準というのは取り入れようとしますが、自分の考え、自分の見解となると、あまり持ち合わせません。本人が持っているつもりでいても、それは非常に感情に彩られたものであったり、外部の考えをそのまま用いたものだったりします。つまり、「自分で吟味する」といったものに欠けるんですね。検証できない。
したがって、彼らの身近な外界として例えば迷信的な集団が存在したならば、それを共有し、信じ込むことになるかもしれません。非科学的なものでも、集団がそれを持つ限り、それは共有するものであり、しかもそれを吟味する見解を持たないので、容易に信じることになったりします。人付き合いという意味で有効な「共有」という機能が、時に、こういう風な事態も生んでしまうんですね。
「いちいち考えなくても適応できる」というメリットが、「深く考えることができない」というデメリットにもなってしまうのです。
中には、「いいえ、わたしは疑り深いんです」という外向的感情タイプもいらっしゃるかもしれませんが、それは考えて云々ではなく「○○は疑わしい」というものを共有してのことだったりします。(この場合は、「○○は疑わしい」ということを信じ込んでいるんですね。検証して疑っているのではありません)
しかし、抑圧されているものはいつか発現することになる、というのが人間の常です。このタイプだと、日々抑圧されている思考が急に、表に現れることになります。しかし、他のタイプ同様、いつも使われていない機能は未分化です。よって、その思考は幼児的な思考に留まります。考えているようで考えていないというか、考えきれない。そこまで慣れていないのです。開発されていない。考えきれないもんだから、「結局、そんなもんさ」と結論を急いでしまう。それは一見導き出されたようで、途中で放り出されたものだったりします。段階を踏んでいない。
この「結局、そんなもんさ」は、考えきれないと性質と、外部のものを取り入れ共有するという性質と相まって、強化されることがあります。何らかの「それ」について考えようとする場合、考えることに慣れていないので「結局、そんなもんさ」で片付けてしまいがちになったり、同時に、外部にある考えを共有しようとするので、「結局、そんなもんさ」になってしまうんですね。(それを証明するものとしては、思考タイプのように順を追って説明できなかったりします。何事も「ともかく、そうなのよ」で片付けてしまうんですね)
(補助機能としての感覚)
外向的感情+補助機能としての感覚。
このタイプは外界に(実際に)あるものを感覚によって受け取り、感情によって評価します。その美的観念は社会で共有するものであり、文化的背景に依存していたりします(その社会、その地域、その時代の美的観念に関係していたりします)。そして、美的観念といっても、それは何も芸術的なものに限らず、行動や態度も対象となります。例えば、(美しい)ボランティア活動とか。
(補助機能としての直観)
外向的感情+補助機能としての直観。
このタイプは外界にある可能性を読み取り、感情によって判断を下します。感覚を補助機能として持つタイプが実際的なものを問題とするのに対し、このタイプはむしろ実際には形の無いものを問題とします。何故なら、直観で受け取る可能性というものは「今」という意味では存在せず、「その先」にこそ具現化するものだからです。
彼らは彼らの理論によって先に進もう(時に、改革しよう)としますが、彼らの理論は感情によって判断されている。
傾向:
感情を共有するのが得意。
感情を積極的に表明し、また受け取るのも苦にしない。
よって、人の中にいるのを苦にしない。
価値基準・価値判断が一般的。(好き嫌いの判断が一般的で受け容れられやすく、共有しやすい)
逆に、個性的な感情を嫌う。
概ねどこでも適応し、調和する。
ただし、主体性や個性を失う危険もある。
考えるのが苦手で、信じやすい。
考えているつもりでも、感情に彩られた判断を下していたり、周囲の価値観を自分で吟味することなく使っていたりする。
このタイプが窮地に陥るのは、未分化な思考機能が働き、何ら思考的でない結論を導き出しながら、それを信じ込んでしまう時です。
ただ、ここに改善のポイントがあるわけで、よくなる可能性があります。
即ち、少しずつ段階を踏んで、考えることを学び、それにより自分の見解というものを身につけるのです。
もともと外界に適応するのが得意で、関係を築くのがうまい外向的感情タイプに、自分なりの見解が加われば、すごく豊かになれると思います。
【内向的感情型】
このタイプの人は非常に特殊な価値観を持っていて、大抵はそれを他人には見せません。外向的感情型のようにその感情は一般的ではなく、独自の感情体系を持っていたりします。このタイプにとって感情というのは、みんなで共有するものではなく、自分自身で持つものなのです。客観的要因ではなく、主体的要因に従っているんですね。
ユングいわく、「静かな水は深い」、この言葉を興味深く思います。
彼らはたいてい無口で、「何を考えているか分かりづらい」と思われがち、無感動で冷たいとさえ思われていたりします。しかし、それは外に見えるものとしてそうなだけで、中身までそうとは限りません。彼らも感情型なだけあって、その中にはあたたかい感情が通っているのです。それは外に対して表現されていないだけで、ユングの言う通り、深いものだったり、細やかさを持ったものだったりします。例えば、内面的には深い同情心を持ちながら、それを外には出さないので、周りの人間には分からない。しかし、長く付き合っているうちに、だんだんとそれを感じてくる。そういうこともあります。
外向的感情型の感情経路が外側に対して開かれているのに対し、内向的感情型の感情経路は内側に対して開かれています。つまり、前者が共有しようとするのに対し、後者は自分が感じるという点に特化することになる。適応という点に関しても、前者が積極的に関わることで適応するのに対し、後者では接点を限られたものにすることで適応しようとします。前者は客観性を頼りにするので共有しやすく、後者は主観というものを頼りにするので共有には難儀します。外向的感情タイプがみんなで盛り上がるような時でも、内向的感情タイプはひとり自分の感情に従います。
このタイプは、内的にはしっかりとした価値判断をもっており、皆が嫌っているような相手にでも、自身の価値観に従って、親切に接することができます。また、多くの人が無条件に認めているようなものを疑うこともでき、みなが美しいと言っていたり、世間的には美しいことになっているようなものに対しても、「そうかな?」とか「そんなことないのに」と、思えます。世間に呑み込まれるようなことは余りありません。
ただし、それは生き難さにもつながるようです。みながそう思っていることに対しても、そうは思えないので、しんどくなる。「共有意識」や「一体感」に欠けるので、エネルギーに欠けてしまうかもしれません。それに考えを表明したところであまり理解は得られないわけで、この辺からも、どうしても態度は淡白にならざるを得ないのかもしれません。そして、「いくら正しくてもその場にそぐわないこと」というのもあったりするので、その辺が周囲との溝を深くする場合もあります。(うかつに思ったことを口にすることで周囲との間にギャップが生じたりして、その経験が態度をより淡白なものにしてしまうかもしれません)
しっかりした自分の価値観を持つということは、一方で周囲の考えに囚われず正しいことが言えたり、一般論を超えた自己犠牲の精神を発揮できたりするのに対し、もう一方では孤独というものと付き合わねばならなくなります。そして時に、「わがまま」につながることもあります。自分の(自分だけの)感情による判断をごり押ししようとすると、どうしても周囲にはわがままだと捉えられてしまうかもしれません。(だからこそ、黙る癖がつく、とも取れますが)
こういう「周囲とは合わない」という経験が、どうしてもこのタイプの外面的な態度を大人しい、あるいは静かなものとしてしまうのかもしれませんね。
前述の通り、このタイプは周囲には囚われないので、個人的な献身を行なえたりします。ただし、それは一般にいう慈善家・慈善運動家といったものとは違い、「自ら善を行う人」なのであって、「社会的な要請によって善を行う人たち」といったものではありません。それはあくまで個人的な行いであって、社会的な運動ではないのです。
ただ、人間は考えや感情をまったく共有しないではおれないので、誰かに分かってほしい、誰かと共有したい、誰かに継承したいと考えてしまうものです。結果、それは身近な、そして無垢なる存在に託されることになります。即ち、自分の子供に、その内なる情熱が向けられるのです。そして、親にとっては喜ばしい仲間ができることになり、同時に、子供は生き難さを受け継ぐことになります。
このタイプの人は、人を感化しよう、影響を与えよう、といったところが微塵も感じられません。また、他人の真の感情にちゃんと応えようという努力は殆ど見られないようです。(人は人、私は私…そういうタイプでしょうか。そして、そうならざるを得ない、という面もあるように思います)
(その影)
外向的思考型。
内向的感情タイプが大事にするのは「自分が感じるもの」。それを自分がどう感じるか。したがって、一般にどう考えられているかとか、どう捉えられているかということには頓着がありません。つまり、外向的思考とは逆なんですね。外向的思考が一般的な尺度を大事にするのに対し、内向的感情では「自分の感じ方」を大事にします。一般にはこう分類されているとか、世間ではこうなっているとか、そういうのは関係無しに、自分の感情的な判断に頼ります。
このように、このタイプは普段から思考という機能をあまり使わない。本人は自分なりの考えをしっかり持っていると思っていたりしますが、それは思考によるものではなく、感情による判断だったりします。だから説明に窮するのです。思考による考えは段階を踏んでいるのである程度説明できますが、感情による判断は段階というものがありませんから説明できません。
しかし、眠っている機能というのは急に目覚めるもので、このタイプもやがて普段使われていない思考機能が意識の面に現れたりします。ただ、それは使われていないだけあって未分化、原始的な表れになってしまう。
外向的思考=一般的な尺度に慣れていないこのタイプは、時に、メディアを盲目的に信じてしまいます。それに熟練されていないので、それをそのまま使おうとする。人間というものが時に、普段接触がないものに魅せられるような、それに似たことが生じてしまうのです。
また、コミュニケーションという点では、もともと感情の共有という点に問題を抱える上に、劣等機能としての思考を持つので、「人が何を考えているか」というのがよく分からず、考えすぎてしまったり、悲観的になったり、物事を曲解してしまったりします。故に、衰弱してしまうこともあるでしょうか。
あるいは、個人に対しては批判的で、周囲に対し、(投影と曲解に基づいた)毒を吐くことになるかもしれません。それも思考を使いきれないので、道理のある批判ではなく、あら探し的な、そして投影に根ざした、批判をしてしまうようです。
(補助機能としての感覚)
内向的感情+補助機能としての感覚。
このタイプは、感覚機能で受け取った「感じ」のようなものを、感情機能によって処理します。外向的感情が外にある事実を受け取るのに対し、このタイプは内部に生じる感じを受け取ります。故に、自分本位で主観的なんですね。外部から独立しているので影響を受けません。ただし、感情型であるため、外目には冷たく見えても、内面はむしろ暖かい。他にない同情心や憐れみを持っていたりします。したがって、社会や世間といったものには影響されない、慈悲深い人にもなり得ます。あるいは、独特の暖かさを持った芸術家にもなり得る。
(補助機能としての直観)
内向的感情+補助機能としての直観。
このタイプは、直観機能によって受け取った可能性を、感情機能によって処理します。ただし、その可能性というのは外部に対してどうこういうものではなく、内部に対して開かれています。それは自分がどうなって行くかというような、自己発展の色合いを持ちます。目の前のものをどう使うかといったものではなく、自分をどうして行くかということの方に力点が置かれるのです。それは社会的にどう発展していくかというものではなく、人間がどう発展していくかという点に使われます。
傾向:
周囲と共有する感情判断ではなく、自分独特の感情判断を持つ。
外目には控えめで無感動のように見えることもあるが、内面に深い同情や、細やかな感情があったりする。
周囲や世間には囚われない。
その分、周囲との感情調和がとれず、孤独を経験することもある。
誰にも伝えられない深い情熱を子供に向け、結果、ひとり立ちできない子を育ててしまう場合もある。
世の中の感情の渦に呑み込まれることがあまりない。
世間はどうあれ、自らの感情的価値判断に従って、人を助けることもできる。
ただし、それも過ぎると、一般的には正しいかどうかということが、不問に処されてしまう。
このタイプが窮地に陥るのは、感情を表現する手段を失った時。あまりに感情を表現できないと、他人の目が気になったり、未分化な思考機能で考え込んでしまって、衰弱してしまうこともある。
しかし、ここに改善のヒントがあって、感情を表現する手段や、感情を共有できるような仲間、表現できるような場を持てるようになると、世界は広がるかもしれません。内なる深い感情を交流できるようになるかもしれません。
(感情というのは、共有したり交流したりする、ひとつの手段でもあります)
もともと自分なりの独創的な感情を持つこのタイプが、それを外界に対し表現する手段を持つようになると、より豊かで魅力的な人になれるように思います。
また、自分独特の(感情的)価値基準と共に、一般的な価値基準も少し考慮できるようになると、周囲との折り合いもついてくるのではないでしょうか。
●感覚型
「生理的刺激を知覚に仲介する機能」
物事をそのまま受け止める。外界から何らかの刺激を受け取り、それを正確に把握する。外界から、五感などを通して、視覚的なもの・音・匂い・温暖・味などを得ていく機能。
外界からの刺激そのものに重きを置く場合は「外向的感覚型」、それを受け取った内的感覚に重きを置く場合は「内向的感覚型」、と言えるでしょうか。
外向的感覚は分かりやすいですね。目の前にあるものの、形状や触り心地、音、におい、味などを、そのまま受け取ります。こういうものは客体要因であって、みんなで共有できます。一方、内向的感覚は分かり難いかもしれません。それは当人が「どう受け取るか」であって、必ずしも共有しやすいものではありません。その人の受け取る色、形、音、におい、味など、それは独特のものを持っていたりします。よく美術の授業などで、山を赤く描いたりする子がいたりするでしょ。それは、例えば一般には緑のものとして受け取る山を、その子は赤いものとして受け取っているわけです。
感覚機能が純粋に機能する場合、そこには思考的要素や感情的要素は介入しません。それは純粋に受け取る機能であって、それが何に属するとか、何を意味するとか、好きか嫌いかなどは関係ありません。それに加えて直観も介入しませんから、それは単に伝達するものです。何かを予見するといったものはありません。何ら加工されない、材料を受け取るだけです。(「単に」とか「だけ」とか書いていますが、それは別に軽んじているわけではなくて、むしろそこがいいところなんでしょう)
ただ、感覚タイプといえども、思考も感情もあるので、何も考えないわけでもないし、何の感情的判断を下さないわけでもありません。ただ、主たる機能が感覚なので、感覚というものに重きが置かれるわけです。「それを受け取る」という点に、主眼が置かれます。
外向的感覚だと、そこにあるもの(外的事実)を知覚することが優先されます。また、内向的感覚だと、そこにあるものよりはそれによって引き起こされる自分の感覚というものに重きを置かれます。前者は誰にでも知覚できる目の前の「それ」に主眼が置かれているので、共有しやすい。後者は目の前の「それ」よりは「それ」によって生じた自分の感覚に主眼が置かれるので、共有という意味では難しい。
【外向的感覚】
このタイプの人は客観的事実に関心があります。外から得られる感覚こそすべて――という感じでしょうか。本質的に、現実的で、実際的で、細部を好み、抽象や価値や意味についてはあまり考えないようです。彼らの目標は常に「感覚を持ち、できれば楽しむこと」です。外界から得る感覚を、ともかく楽しみます。
危険なスポーツなどで積極的にスリルを求め、「享楽家」の人が多く、将来のことはあまり気にしない傾向にあります。ですから、友達として付き合うには最高の相手かもしれません。食べたり、飲んだり、遊んだりと、ともかく今を楽しむのがモットー。しかし一方で、薄っぺらで「心無い」ように思われることがあります。「アリとキリギリス」のキリギリス・タイプでしょうか。
彼らもまた、生きるのが得意な人といえるかもしれません。感覚を共有できるので、意志の疎通に事欠きません。彼らが問題にするのは、目の前の事実。それは誰にとっても目の前の事実なので、それで不理解に悩むということはないでしょう。
外向的感覚タイプの関心は外的な事実にあるため、思考によって悩むとか、感情によって悩むということが、あまりありません。このタイプは目の前の状況に溶け込むので、思考云々、感情云々というのはあまり関係ないのです。したがって、場の主義主張が変われば、思考・感情に囚われず、すっと主義主張を変えることができます。何故なら、このタイプが大事にする「目の前の事実(=その場を支配する主義主張)」が既に変わっているのだから。
外向的感覚タイプが大事にするのは、「今日」であり、「今、ここ」、「目の前にあるもの」です。明日とか、昨日までとかは関係ありません。前後関係云々では無しに、今が大事なのです。逆に、明日のことで今日を汚すな、となってしまう。(明日の心配で今日の楽しさを台無しにするな、みたいな)
このような人は、事実を事実としてそのまま受け取り、経験値を上げていきます。ただ、そのままでは材料を集めているだけになるので、思考や感情という合理的機能の力を借りないと、その経験を分類したり判断したりすることができず、その機能を現実的に活かすことが難しいようです。
が、逆に、思考により分類する術を覚えれば、それをうまい具合に系統立てて整理できるわけで、学問的な仕事に活かせるかもしれません。また、感情によりそれを処理できれば、芸術的な才能に昇華できるかもしれません。
ただ、感覚のみに頼ると直観による可能性を見出せないわけで、事実のみに囚われることになり、それをどう活かすかに目がいかず、多くを失っている場合もあります。その場を楽しめても、先にうまくつながらなかったりします。「どう使うか」というのが、あまりない。
(その影)
内向的直観型。
外向的感覚タイプは、意識の多くを感覚機能に使っているので、直観という機能が無意識に眠っています。つまり、使われていない。
直観という機能は可能性を見出す機能、「その先」を予見する機能です。したがって、外向的感覚タイプは今を感じることに優れる反面、その先のことには無頓着だったりします。
普段使われず、故に洗練されることのない直観機能が現れるのは、意識が一面的になっている時や、疲弊している時。しかもそれは未分化なカタチで現れます。それも普段とは逆の方向である、内向の方向に発現される。
もともと先を予見するのが苦手で、またそれが内側に向くので、それは不吉な予感として生じたりします。これにより、本来は目の前の事実を楽しむ外向的感覚タイプが、否定的な予感や空想に囚われることにもなります。いつもは現実的なのに、急に非現実的なものに振り回されたりする。
(補助機能としての思考)
外向的感覚+補助機能としての思考。
このタイプはもともと目の前の事実を受け取るのを得意とするわけですが、それを補助機能としての思考で処理することになります。ただし、態度として外向を持つので、使われるのは一般的な基準。自分なりの見解ではなく、みなで共有できるような判断基準や価値基準ですね。したがって彼らは、誰にでも使えるように分類したり、整理したりするのが得意です。(誰にでもといっても、それを専門とする誰にでも、となるでしょうか)。独自の解釈を持たぬ代わりに、事実を今までの枠にはめ込み、分類するのを得意とします。新しいものに関しても、新しい見解を持つというよりは、新しい事実を今までの事実と比べて、検証します。
(補助機能としての感情)
外向的感覚+補助機能としての感情。
このタイプは受け取った目の前の事実を、補助機能である感情によって処理します。受け取った「それ」に感情による判断を下すんですね。例えばそれは美的判断につながり、芸術家やその歴史に詳しい専門家、評論家や愛好家を生むかもしれません。ただし、態度として外向を持つので、その方向性はその時代というものに左右されます。基準が外にあり、共有するものなので、その時代の流行(はやり)といったものに左右されやすい。
傾向:
客観的事実に関心のあるリアリスト。
目の前のものをそのまま受け取るのが得意。
感覚を楽しむため、享楽家になることもある。
感覚を共有するのが得意。
今日を楽しみ、明日や昨日は気にしない。
直観機能を使っていないので、可能性やその先を見出すのが苦手。
未分化な直観機能が活動しだすと、否定的な予感に苦しむこともある。
このタイプが窮地に陥るのは、感覚機能のみを頼り、今を楽しむことばかりに一生懸命になる時。そして、直観機能による「先につなげる」ことができない時です。
それではあまりに非生産的で、生きるという意味の半分は非常に豊かですが、半分は手つかずになる。楽しむという意味では大いに生きているのですが、社会で生活するという意味では危険を孕んでいます。社会生活にうまくつながっていかないこともあるかもしれません。
しかし、ここに改善の余地が見えるわけで、感覚で得た材料を思考や感情で処理できれば、それは立派な武器になるでしょう。また未分化な直観機能を少しずつ鍛えることができれば、今持っているものを、先につなげることもできるのではないでしょうか。
放っておいても外的な事実を感覚によって受け取るのが得意なのですから、その使い道さえ得られれば、いくらでも豊かになり得るのかもしれません。材料は既にあります。ようは使い方、使い道です。
【内向的感覚】
このタイプの人は、客観的刺激によって引き起こされた主観的感覚によって動かされます。外界から得た、光景、色、書物の一節、音、会話、匂い、味、手触り、などを鮮明に記憶している傾向が強いようです。ただしそれは、外界にある「それそのもの」を記憶しているのではなく、自分の中に生じた「それによって引き起こされた」感覚を強く記憶しているのです。
外的な事実そのものより、それを受け取った時に生じる内界の感覚に重きを置く。また、その感覚が一般とは違っていて、その人独特の受け取り方をしていたりする。同じ対象を見ながら、多くの人とは別の感覚を受け取っていたりします。
こういう意味でも、このタイプは共有というものに問題を抱え、外界との適応に悩むことになりがちかもしれません。彼らが社会で生きるとき、どうしても隷属的にならざるを得ません。多くの人がそう見えているものに従い、多くの人がそう感じているものに従わないと、共有も適応もできない。内向的感覚タイプは独特の見方をするので、他の人が見えているらしいものに従わないと、合わせられないのです。他のタイプが合わせなくても共有できるのに対し、このタイプは合わせようとしないと共有できない。しかも、それはいわば偽りの共有ですから、どうしても無理が出てしまう。もちろん、正直に見えている風景を伝えるという手もありますが、それでは奇異に見られてしまう。(受け入れられる土壌があれば別ですが)
外向的感覚が目の前の事実を問題とし、時に楽しみ、のめり込んだりするのに対し、このタイプが問題とするのは内部に起こった主体的な反応であって、よって、目の前にある事実にはあまり関心がありません。彼らは目の前にあるものよりも自分が受け取った印象に注目するので、外界との接点は薄いものとなります。
この独特の感じ方というのは、時に芸術の分野で理解されます。例えば、同じものを題材にしても、それぞれ描き出すものはまったく違っていたりします。しかもそれは考え出したものでもなければ、空想によって描いたものでもない。それはそれぞれの目、それぞれの感覚によって、実際に見たものだったりします(受け取る感覚が独特なだけで)。
「シュール」という言葉がありますが、彼らの見る風景はある意味、「(外的)現実を超越して」おり、「真の理解が不可能」なのかもしれません。少なくとも、理屈や理論に合わない。ただ、彼らには(内的)現実としてそう見えるのです。
内的な感覚が勝ちすぎる時、目の前のそれ(客体)は主体的色彩を帯びます。本来、客体があって主体的反応があるのですが、主体的反応が勝ちすぎるため、客体と主体が同化してしまう。目の前の山を内向的感覚タイプが「燃えさかる赤い山」と受け取った時、その強い印象は目の前の山(客体)を燃えさかる赤い山(主体的反応)にしてしまうのです。
しかし、万事が万事こうなるとは限らず、自分の印象を大事にしながら客体を軽く扱う(軽く扱うというよりは、あまり注目しない)場合もあるので、その時は客体と主体的な反応は分離され、後者のみが取り上げられることになります。目の前のものには関心は示さず、内部にある印象だけに関心が寄せられる。
また、このタイプは内的に見ていること、感じていることを的確に表現するのが苦手な傾向にあり、誰かに伝えたりするようなことは少ないようです。(あるいは、なかなか伝わらないことを経験的に知ってしまっている)。まあ、それもそのはずで、要するにお手本があまりないんですね。見えている風景が違うんだから、そこいらにあるものをまねするわけにもいかない。だって、彼らにとって「それ」は違うんだから。
しかし、このタイプの人が内的に見たり感じたりしている現象を伝える手段を得たとき、多くの人に感動を与えることになるかもしれません。それは多くの人にとって新鮮であり、また驚きであったりもする。しかも、それはウソでもなければ、人間が弄繰り(いじくり)回して捻出したものでもない。それは確かに、その人が見たものなのです。
このような人の内的現象は想像ではなく、内的な事実であり、現実です。彼らにはそう見え、そう感じられるのです(人には理解されにくいですが)。このタイプが洗練された表現方法を身につけた時、他のタイプも彼らが見た「それ」に気づかされるのでしょう。
(その影)
外向的直観型。
このタイプは意識の多くを内界に生じる感覚に向けています。逆に、意識を外界に向けることは少なく、しかも直観となると、なおのこと使いません。普段、感覚に力を割いているため、直観は眠ったままです。
直観とは可能性を見出す機能、「その先」を予見する機能です。この機能が殆ど使われていないので、活性化されておらず、成熟していません。したがって、この機能が働きだす時、その表れはどうしても未分化なものになります。
具体的にいうと、その予見は否定的なものにつながりやすく、不吉な予兆、否定的な態度や不信感などを、外部から読み取ることに使われてしまう。そんなマイナスの予見で、自らを追い詰めてしまいます。
また困ったことに、その直観の多くは間違っていたり根拠のないものだったりするんですが、稀に当たることがあるので、不吉な予感を信じるのを加速させてしまうこともあるようです。(例えば、百回の内の一回の的中を頼りに、多くの否定的な予見を信じ込んでしまうとか)。こうなると直観機能が建設的に働かないので、うまく先につなげるのが困難になります。
(補助機能としての思考)
内向的感覚+補助機能としての思考。
このタイプは、内界に持っている印象を、思考によって処理しようとします。しかし、思考よりは内向的感覚が勝っているので、思考はその従者や助けに留まります。つまり、内界に生じている印象を分類したり、その意味付けをするのに、思考が使われるのです。このタイプは仮に一般にある法則や基準を使うにしても、それを適応するのは一般的ではない個人の、そして独自の感覚なので、できあがった体系は独特なものとなるようです。
(補助機能としての感情)
内向的感覚+補助機能としての感情。
このタイプは、内界にある強い印象を、感情によって処理しようとします。そして、それは往々にして、独特の好みを生むことになる。実際的な機能や常識に囚われない(あるいは無視した)、奇抜なものを生むのを可能にします。それは好意的な見方をすれば「独創的」であり、そうでなければ「突飛」であったり、「非常識」だったりします。理解されれば天才になり得、そうでない時はこの上ない辛酸を舐めるかもしれません。
傾向:
目の前のものによって引き起こされた主観的感覚に注目する。
目の前の「そのもの」よりは、それによって生じる感覚・印象を受け取る。
みなが見ている風景を見ているというよりは、同じものを眺めながらも、別の感覚を受け取っていることが多い。
故に、共有が苦手で、外界に適応するのに困難を感じていたりする。
表現手段を持たぬことが多く、それも適応や共有を難しいものにする。
これらの理由から、世間から不可解に思われることもある。
普段直観機能を使うことがないので、直観が動き出す時、それは否定的な予見として現れやすい。
このタイプがピンチに陥るのは、内的な感覚のみに囚われ、それを表現する手段を持たない時です。内部にある独特の感覚にばかり依存するので、外界との接触が絶たれてしまいます。
しかし、ここに回復のヒントがあるわけで、その内界にある独自の感覚を、表現手段というものを通じて外界に具現化することができれば、共有の道も開かれようというものです。それは内界にある限り人目にはつかないし、共有もされませんが、外界で具現化できれば、共有もされるし、理解への道も開かれるかもしれません。
こういうのは(内向型の)どのタイプでもそうなんですが、それが内界にある限り、それは人目にはつかず、共有もされなければ理解もされません。しかし、何らかの表現手段を得て、人の目にも触れられるようになった時、そしてそれが洗練されてくると、共有も理解も得られるし、それ以上のものも得られる可能性だって出てきます。
●直観型
「これは事物そのものよりも、その背後にある可能性を知覚する機能である」
思考を働かせて推理するのではなく、インスピレーションなどを得て、直接的に結論に至る機能です。筋道を辿って云々というのではなく、結論がパッと出ます。いきなり答えに行き着く。こういうのは他のタイプにとって「?」なことですが、理屈を越えてそうなのです。
感覚というのは目の前の事実を受け取る機能ですが、直観というのはその奥にある可能性を受け取る機能です。無意識から可能性を得る機能。そのものの背後にある、無形の、その先につながる、見込みを受け取る機能。それゆえ説明できないことが多いが、爆発的な打開策を生み出すこともある。
理解を超えて結論を得るので、思考機能などが補助機能としてないと、その筋道を説明することができず、相手を納得させるのが困難な場合も多々あります。まあ、直観も感覚もあくまで受け取る機能、知覚する機能であって、判断や説明はしないし、そういうものは超越しているのですが。
感覚との違いをもう一つ挙げるとするならば、それは「見ているもの」や「見ている先」。感覚というものは(外的にしろ内的にしろ)「目の前のもの」「そこにあるもの」に注目しますが、直観というのは可能性に関わるだけあって、「もっと先」を見ようとします。
「それがどうなるか」「それをどうできるか」など、まだカタチのない未来に注目するのです。これが彼らの強味であり、弱味でもあって、先を見通す能力がありながら――あるいは、それ故に――足元に対しては弱い。今のことに関しては意外と抜けていたりします。
【外向的直観】
このタイプの人はたいてい自分の直観を用いて世間に関わろうとします。そこにある現実云々ではなく、その奥にある可能性を通して関わろうとする。「それをどうすることができるか?」「その背後に何があるのか?」「それは何につながるのか?」、そういうことを通して、外界に関わってゆきます。言葉をかえると、勘が鋭い。他のタイプが見逃すような「見込み」もひょいっと拾い上げます。
このタイプの人は、状況の中から可能性をすばやく見抜き、それが将来どう発展していくかを予測するのが得意です。「これは○○に使えるな」「これで○○ができるぞ」「これは○○につながるじゃないか」、こういう風に可能性を見出し、それによって外的現実に関わってゆこうとします。
彼らは新しい物好きで、逆に使い古されたものにはあまり興味がない(古いものに可能性を見出せば別ですが)。彼らが注目するのは可能性であり、実績ではないのです。このタイプが喜ぶのは、新しい可能性を発見した瞬間。そこに言葉にならないような喜びを感じます。ただし、後述のように判断はしない。ただただ、可能性を見出すのみ。
ただし、これだけだと「単に前に進む人」に留まってしまうかもしれません。前へ前へと進むんだけれど、成果が得られない。成果を得る前に、次の興味に進んでしまうのです。それと、可能性というのはあくまで受け取る材料なので、それを処理する機能が補助としてないとうまくいかない。即ち、思考か感情によって判断を下さないといけなくなります。進むべきかどうか、好ましいのかどうか、判断を持たないと、ただただ前に進むことになってしまう。
よって、可能性からそれ相応の成果を得るには、思考や感情といった合理的機能が必要になります。判断して決めることが必要なんですね。ただでさえ先を見ようとする機能ですから、そういうものがないと危なくて仕方ありません。
このタイプの人は改良する才能に恵まれ、逆に同じことを繰り返すことが苦手な傾向にあります。彼らは次から次へと、新しい友達、新しい趣味、新しいアイディア、にとびつきます。しかし別の可能性が見えてくると、それらをあっさり捨ててしまう困った傾向も。
よくも悪くも、直観というのは「先を見通す」機能なのです。
外向的直観タイプの興味は「今日」よりも「明日」にあります。この傾向が強まると、自分のこと、自分の身体のことさえ忘れてしまう。生理的欲求よりも「次のこと」に関心が強まるので、身体への配慮が疎かになったりします。この傾向は身近な人に対する態度としても表れることがあり、その人の存在を忘れて明日を見ているようなこともあるでしょうか。(まあ、性格なので悪気はないのですが…)
(その影)
内向的感覚型。
意識を外界にある可能性に対して使うこのタイプは、逆に、自分の内面に対する意識が薄く、しかも感覚には意識がいかない。何度か言ってきたように、意識というのはひとつのことに使うと逆のものには使えないので、この場合、感覚に関しては無意識です。したがって、このタイプは、自分の内面に関する感覚に意識が使われない。この傾向が顕著だと、疲れたとか、寒いとか、空腹だとか、それらに気づかないこともあります。自分の身体感覚に無自覚になるんですね。
ただ、そんな普段使われない機能がひとたび活性化されると、不細工な発現になります。それは普段から使われていないので、未整備で、うまく分化されていない。したがって、幼い発現になったり、こんがらがったようなものになる。
例えば、自身の感覚器官から送られてきたメッセージを誤って解釈し、心身症や心気症になったりもします。現実を過剰に受け取り、それに囚われ、悩む場合もあるようです。普段抑圧されている感覚が、脅迫症状のカタチをもって表れたりするんですね。
【心身症】
心理的要因・精神的ストレスが原因で、胃炎・胃潰瘍・狭心症その他、身体に疾患としての病的変調が現れる過程、またその現れた疾患。広義には、診断や治療に心理的因子への配慮が必要とされるすべての身体疾患を含む。
【心気症】
自分の健康状態について必要以上に心配して各種の自覚症状を訴えるとともに、訴えた自覚症状にとらわれ一層不安になる状態。ヒポコンドリー。
(三省堂「大辞林」より)
(補助機能としての思考)
外向的直観+補助機能としての思考。
このタイプは、受け取った外界の可能性を思考によって処理しようとします。ただし、第一にあるのは可能性のほうで、思考はあくまで補助。例えば、説明に使われる。それは経験によるものではなく、彼らなりの思考や論理に基づいている。何故なら、直観による可能性は経験によって導かれるものではないから。
(補助機能としての感情)
外向的直観+補助機能としての感情。
このタイプは、受け取った外界の可能性に感情によって判断を下します。例えば、その奥にある可能性に美しさを認め、尽力するとか。それによって、他のタイプなら思いつきもしないようなものを創始・創設するかもしれません。
傾向:
外界にある可能性を見出すのに長ける。
勘が鋭く、見込みを逃さない。
新しいものが好きで、古いものにあまり関心がない。
今日よりも明日。
先を見すぎるため、足元が危ない傾向。
「今」が疎かになってしまう。
意識を外界の可能性に対して使うので、内界の感覚に対しては無頓着。
自分の身体のケアなどが疎かになりがち。
身近な人を顧みないことも。
その補償作用で体内シグナルを過剰に受け取り、心気症になることもある。
このタイプが窮地に陥るのは、先の可能性に一生懸命になりすぎて、「今」が疎かになった時。いくら先によいものがあったとしても、今を生きられなければ先には行けません。あるいは、先に行けたとしても、大事なものを失ってしまうかもしれません。それが人であれ、健康であれ、ですね。
しかし、逆に、それに配慮できるようになれば、そうなるのを防げるということです。それを可能にするのが、思考や感情という補助機能でしょう。もちろん、「今ここ」というものに関しては感覚が一番有効なんですが、直観タイプが感覚を鍛えるのは、一番最後になります。それまでに思考や感情で判断を下すことを覚えた方がよさそうです。
先へ先へと急いでしまいがちな外向的直観タイプですが、考えることや感情に従うことを覚えると、ふっと立ち止まったり、向きなおすことも可能になってくるのではないでしょうか。そして、それでこそ、可能性をしっかり追えるというものです。
【内向的直観】
このタイプの人は、外界の可能性よりは、自分の中の可能性を見出そうとします。自分の中の「それがどうなるか」「どう発展していくか」に関心がある。(外的)現実を問題にする限り、それはカタチを持たず無意識ですが、このタイプはそれを受け取ることができる。まだカタチを持たない、内なる可能性を知覚できる。
しかし、それは外界との適応を困難にする面も有します。まず、このタイプの関心は内界に向いています。しかも、可能性であって、今ある現実ではない。したがって、今、外にある、みなで共有するような現実・出来事には無関心です。それよりは内的な可能性に注目し、追おうとするんですね。こうなると、みんなの中にいながら、みんなの見ているものは見ておらず、それよりは自身の中を見ていたりしますから、ズレが生じてしまいます。
しかし、そうはいってもこの社会で生きていかねばならない。そうなると、この事情を知らない人々は、彼らを不可解に思い、時に冷遇したりもするでしょうか。また、当人にしても、このズレに悩んでいたりして、できるだけ適応しようと努力し、みんなのしているような実際的なことをしようと無理を押して頑張り、結果、疲弊してしまうようなケースもあるかもしれません。
このタイプは、自身の心の中に生じたもの・生まれ出たものに関心があります。つまり、観念やイメージを、まるで現実のものであるかのように扱います。したがって内的なイメージが物質と同じ威厳を持つことになります。彼らにとって内界は現実世界と同等かそれ以上であり、まさに住むことができる世界なのです。
外向型の人たちが周囲に合わせられるのに対し、内向的直観タイプは、自身の内的な状況に合わせられます。自身の内界に生じている現実に合わせ、生きようとする。この(内的)現実は周囲と共有できないものだから、他の人は彼らを不可解に思い、時には夢みがちな人だと思ったりします。また当人は、その内的現実を表現する手段を持たないことが多い。こうして、両者の間にはどうしても溝ができてしまう。理解に至らない。
内界の可能性に目を向けることができる彼らは、よいか悪いかは別にして、現実問題を無視することができます。この傾向は予期せぬ傑作を生むかもしれないし、周囲との不調和に拍車をかけるかもしれません。いいとも悪いともいえず、ただ、そういう傾向を持つ。
このタイプが実りを残すには、自身の中にある可能性を具現化する必要があります。その表現手段を持たねばならない。それによって無意識的な内容はカタチを持つことになり、みなの知るところになります。内的なものは表現されることで人目に触れる。人目に触れなければ、評価のされようもない。逆に、人目に触れれば評価のされようもあるし、共有だってできる。理解に近づくかもしれません。
自身の内界に生きるこのタイプの人は、自分の考えを理路整然と分かりやすく説明するのが苦手です。意識の多くは可能性を知覚するために使われるので、説明にまで手が回らない。また、外界に関心がないので、それを説明によって共有しようともあまり思わない。結果、無意識の中にある可能性をただ追いかけるだけで、その可能性が持っている個人的な意味合いを往々に見落としてしまいがちです。
直観とは未来の可能性を受け取る機能。したがって、その能力が突出し過ぎていると、遠い未来の可能性を受け取ることになります。そうなると、当然、今の人には理解されません。それは遠い未来の可能性であって、今具現化されるものではないのです。よって、そのような人は生きている間は理解されることなく、後進の人によってのみ理解されることになるかもしれません。
(その影)
外向的感覚。
内向的直観タイプの意識は内界に向いていて、主に可能性を知覚することに使われます。したがって、外界にあるものを知覚するのが苦手。そこまで手が回りません。こうなると、一度(ひとたび)外向的感覚が働き出すと、慣れていないもんだから程度というものがちぐはぐになる。外界の感覚を受け取る経路が整備されていないので、過剰に受け取ってしまったり、衝動的な受け取り方をしてしまう。うまく(よい程度に)外界にあるものを知覚できない。ひどく強く受け取ってしまったり、殆ど知覚しなかったり。
(内向的直観が勝ちすぎると)このタイプは感覚が殆ど無意識的なので、常に外界の現実と接点を失う危険にさらされています。現実の細部に関して、ぼんやりしていて、空間感覚や時間感覚が乏しいので、よく約束を忘れたり、時間にルーズだったり、知らない土地でよく迷子になったりするかもしれません。現実との貧弱な関係と、内界との深い洞察があいまって、自分を「誤解された天才」と思い込むこともあるようです。
(中には約束や時間にはきっちりしている方もおられると思うのですが、他の現実感覚については難を持つかもしれません。うまく外に目がいかないとか)
(補助機能としての思考)
内向的直観+補助機能としての思考。
このタイプは内界に見出した可能性を、思考によって処理しようとします。しかし、主たる機能は直観であり、思考はあくまで補助なので、思考は直観によって受け取ったものを説明する道具だったりします。
例えば彼らは、無意識的内容を思考で説明することによって、哲学を語ったりします。
(補助機能としての感情)
内向的直観+補助機能としての感情。
このタイプは内界に見出した可能性を、感情に従って処理します。自身の中に生じる可能性に美しさを見出し、今までにない先進的な芸術を生んだり、新しい宗教運動に勤しんだりもするでしょうか。
傾向:
内界にある可能性を受け取ることができる。
無意識的な発展の可能性に注目する。
勘は働くが、それで何かしようというよりは、その勘が生んだ内的イメージを楽しむ方に興味がある。
外界の出来事にはあまり関心がない。
人に理解され難く、また自分から説明しようともあまりしない。
人から不可解に思われたり、不思議な人に思われたり。
外界にあるものを知覚するのが苦手。
現実との接点を失う危険性もある。
このタイプが危機に陥るのは、内向的直観が一面的に働き、外的現実の世界との接点が希薄になった時。またそれは、普段使わない外向的感覚がまずく働いた時に強化されるかもしれません。前者では目の前の外的現実をあまり知覚せず、後者では目の前の外的現実を過剰に受け取ってしまったりする。こうなると、社会で生きていくのがしんどくなります。
ただし、ここにヒントが隠されていて、感覚というものにゆっくり火を入れていく。保護された空間で、それに慣れてゆく。また、思考や感情を使って内にあるものを表現することを学び、それによって自分だけのものだったものを外に出し、共有できるようにする。接点を作る。そうすることによって、内的現実のみならず、外的現実においても生きてゆくことを学ぶのです。
もともと豊富な内的イメージを持つ、内向的直観タイプ。それを表現し、外の世界で具現化する方法を持てば、共有だってできるし、相互理解の道も開けるのではないでしょうか。
◇
以上のように、タイプについて書いてきたのですが、「これだ」と思った方もいれば、「よく分からない」とか「どちらともいえる」とか「概ねそうだが、この部分は違う」とか、そういう風に思われた方も多いと思います。人間、思考だけとか感情だけとか、ひとつの機能だけを持つわけではないし、まったく内向だとかまったく外向だとか、そういうこともあまりないと思います。それぞれの態度や機能を併せ持ちながら、ある機能が突出していたり、逆にある機能が眠っていたり、そういうことでしょう。
そんなわけで、100% ○○的○○タイプである、ということもないんでしょうね。
そして、それぞれの傾向というのは、肯定的にも取れるし、否定的にも取れます。その両面を含んでおり、一面的には語れません。
そんなわけで、これらの片方に目をつむることなく、この二面性を認識し、自分にとって、周囲にとって、よりよい方向に変容できれば、豊かな人生を送れるのではないでしょうか?
「それを踏まえて、どうするか?」――それが大事ですかね。今困っているとしても、変容する可能性は残されているわけだし、問題点の近くに、意外といいヒントが隠されているかもしれません。
前にも書いたと思いますが、「悩む」ということは「悩むことができる」「悩むだけの可能性がある」→「今以上によくなる可能性がある」ということだと思いますから、ちゃんと希望はあると思います。たいへんしんどい仕事ですが。
3・意識と無意識の補償作用
上では二つの態度と四つの機能について解説してきたわけですが、前に述べたように、四つの機能の内、思考と感情、直観と感覚は、対立関係にあります。つまり、思考が優位に立っている人は感情が未分化であり、感情が優位に立っている人は思考が未分化です。この関係は直観と感覚にもいえ、直観が勝っている人は感覚はあまり働かず、感覚が勝っている人は直観はあまり働きません。普段、意識が一方に使われるとき、もう一方は意識されず、あまり使われないことになります。
この際、優位に立っているほう、いつも使われる機能を、「主機能」(main function)、普段あまり使われることのない機能を、「劣等機能」(inferior function)と呼びます。
劣等というとイメージが悪いのですが、普段使われていない機能というのは、使いこまれていない分、未発達で成熟していないんですね。各機能の解説で度々出てきましたが、発現の仕方が幼稚になったり、不器用になったりしてしまいます。ま、普段から使っていないものというのは、そんなもんです。しかも、持って生まれたものとは反対に位置することになりますから、なおさらですね。
さあ、この二つの態度と四つの機能ですが、その使われ方があまりに一面的であるような場合、無意識による補償作用が生じます。平易に言うと、ぶり返しみたいなものが生じるわけです。
補償作用とは、何かが一面的に働いている時など、その反対の要素が活性化することで全体のバランスを回復する作用です。(日本的にいうと、「やじろべえ」や「起き上がり小法師(おきあがりこぼし)」のイメージですかね)
相反する要素の間を揺れるというと、辛かったり、ややこしかったりするイメージがありますが、そういう働きがあるお陰で、我々はバランスが保たれるわけです。一方のみにばかり重きが置かれると、ひっくり返るでしょ。ある程度お年を召した人なら感じると思うのですが、同じことばかりするのは危険なわけです。一方が成熟されるという利点がある反面、もう一方は手つかずであるという難点も生じるんですね。一方は豊かですが、もう一方は足りないことになってしまいます。
無意識の補償作用というのはユング心理学の奥義の一つとも言える概念だと思います。これが人間の安定を助け、後の成長にも一役買うんですね。
ただ、反対の要素が活性化してくるというのはなかなか難儀なもので、上でも散々述べてきたように、その発現の仕方は不器用で、いろんな問題を誘発することが多いです。故にそれは、一見、安定を壊すような発現になりがちなのですが、それによって学べることもまた多く、そのおかげで一面さゆえの破滅も回避できるんですね。痛みはあるんですが、その痛みによって、成長できるという部分も、確かにあることになります。痛みを通してやがて気づかされる、という表現もできるでしょうか。嫌な思いもしながら、「ああ、こういうことも必要なんだな」と、やがて思えるわけです。それによって、足りなかった部分も、補完されてゆくんですね。
「心の均衡」というと、どうしても「今までのように安定した」というイメージになりがちですが、実はその「今まで」が均衡をだんだんと壊している場合もあって、というのは、今まで通り、同じ方向に進むことによってだんだんとバランスを失っている場合も、多々あるわけです。そして、そんな時は、むしろ方向転換するほうが「均衡を回復する」ことになるんですね。
無意識の作用というのは、不慣れであるものが多いし、時に病的でさえあったりしますが、その補償作用により、人間の均衡というのは回復されようとするのです。
☆
下に、内向的思考型の人を図で表してみました。
この人は主機能が「思考」であり、「直観」が補助機能として備わっています。
この人の意識的態度は「思考」の傾向を顕著に表し、それを「直観」機能が補助します。この人は多くのものに対し思考によって判断を下すのですが、その材料を直観によって受け取ります。また、態度が内向のため、その材料は内側(内界)から受け取ることになります。
その次、第3の機能として、この人は「感覚」があります。この感覚は、思考や直観に比べて未分化です。まったく使わないわけではないですが、普段あまり使わない。
そして最後に、劣等機能として、「感情」を持ちます。この機能が普段一番使われない。故に、一番未分化です。
ひとつの経路として、人はまず主機能を頼りにし、補助機能の助けを借りて、やがて劣等機能と向き合い、それを発達させることになります。これがユング心理学における「個性化の過程」のひとつのかたちですね。そうやってまんべんなく補い、足りないものは足し、まるで円や球を形成するかのように、人格を発展させてゆくのです。
逆に言えば、最初は主機能のみが突出している、とげとげしい状態であり、故にバランスも悪いんですね。
人は主機能たる武器を持つのですが、その影の部分、未分化な劣等機能ゆえに悩むこともあります。いつも主機能を使うから、その分、劣等機能には疎か。劣等機能は使われないから未分化なままで、うまく働きません。これにより、人間は危機にも陥るのです。
しかし、逆に考えれば、劣等機能を上手に発展させることができれば、危機も乗り越えられるし、人間的にも成長できることになります。今まで気づかなかった「何か」と向き合うことで、打開策も見えてくるかもしれません。「今まで」を頼りにする限り先が見えなかった状態に、「これから」が見えてくることになります。
人間の生き方として、一つの機能のみにこだわり、それに注目し育て、それを頼りに生きてゆくという生き方があります。もちろん、これはこれで間違ってはいません。特に、人生の前半ではそうでしょう。しかし、述べてきたとおり、ひとつのことに意識を使うということは、別のものには意識を使わないということであり、ひとつのことに精一杯になるということは、別のものが疎かになるということです。したがって、当然、足りないものも出てくれば、不都合も出てくる。
更に、ここでいう「こだわる一つの機能」というのが、自分の主機能である場合もあれば、そうでない場合もあるでしょう。そこにある文化や社会背景、あるいは生育暦などにおいて、自分の主機能とは別のタイプを生きることを強いられている場合も、あるかもしれません。そういう時は、足りないものを足すというよりは、本来の自分(本来のタイプ)というものを回復せねばならない。
と、まあ、どちらにしても、今までの人生を考え直し、変容することが望まれることになります。そして、それを教えてくれるのがバランスの悪さであったり、無意識の補償作用であったりするわけですね。
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上の図では、主機能たる思考の軸に若干の傾きがあります。これが仮に直角を向いていたなら、思考は俄然優位になりますね。頂点に位置することになる。しかし、その分、直観と感覚が水平を向いてしまいます。直観と感覚は思考する材料を受け取る機能なんですが、思考が優位に立ちすぎて、この機能はあまり働かないことになってしまう。そうすると、思考により判断をいちいち下しながら、それでいてその材料はお粗末なものになってしまいます。これはバランスが悪いですね。
また、劣等機能である感情にしても、上の図以上に働かないことになってしまうでしょうか。一番底辺になる。
あるいは、主機能が直観である人の場合を考えると、直観が頂点に立つとき、思考や感情という判断を司る機能が水平を向いてしまいます。これにより、多くの可能性を次から次へと獲得しながら、それを判断する機能が働かず、せっかく得た可能性を使いこなすことができないということになってしまう。これはさみしいですよね。
このような極端な例を見ても分かるように、主機能というのは、補助機能があってこそ、有効に働くことができるのです。いくら主機能といえども、それのみが突出しているだけでは、不毛なものになりがちです。それを補うものや支えというものは、どうしても必要なんですね。
あるいは、直観型の人であれば、せっかく可能性を得たとしても、思考や感情を補助機能として持たなければ、それを「カタチあるもの」にできません。
(材料は得るんだけれども、そこに留まってしまいがちです)
☆
とはいえ、補助機能はともかく、人は劣等機能に対して価値を低く置きがちです。それは時に、偏見と言ってもいい程度のものになったりします。偏見とまではいかないまでも、その否定的な面ばかりに注目し、貶めようとしていたりするでしょう。
というのも、好きなものがあるということは嫌いなものがあるということ、得意なものがあるということは苦手なものがあるということだからです。相反するものが存在する限り、その一方を好きになればなるほど、もう一方は嫌うことになるでしょ。互いに相反する性質を持つということは、そういうことです。そして、思考と感情、直観と感覚は、それぞれ相反する性質を持っていたりするんですね。だから、片方を好きな人は、だいたいもう片方は苦手です。
例えば、思考を好む人は感情を軽んじたりしますよね。「そんなことまで感情で判断するな」と思ったりします。しかし、感情タイプには感情タイプの言い分もあって、「何でも、小難しく考えるんじゃないわよ」と、思っていたりします。
直観タイプにしたって、感覚タイプのことを「それを味わうばかりで、どう使うかは興味ないんだな」と思っているかもしれません。また、感覚タイプにしても、直観タイプのことを「使うことに熱心で、細かいところを味わったりしないんだからさ」と思っているかもしれません。
また、内向と外向にしても、外向型は内向型に対し、「どうして輪に入らんのかね」とか「オドオドして」とか「もっとハキハキしろよ」とか思ったり言ったりするかもしれないし、内向型にしても外向型を「何でも思ったことを口に出すんじゃないよ」とか「軽すぎる」とか「繊細さが足りない」とか思っているかもしれません。
これらは部分においてはその通りで、それでいて他の部分においてはその限りでないという、いわば、奇妙な矛盾を含んでいます。つまり、言いようによってどうにでもなる、とも取れます。価値観の差というのは、こういう傾向を孕んで(はらんで)ますよね。
しかし、ついでにいうと、この互いの批判は、ある状況によっては、非常に一理あったりするので、単に不毛でないところが、また奇妙な所以です。
それが単なる批判に留まる場合もあり、「気づき」を誘発することもあるという、簡単にはぶった切れない代物です。
それと、こういう事態――というのは、相反するタイプが互いに言いたいことを腹に持つこと――が生じるには訳があって、だいたい「ペア」というものは、相反する性質のものが構成する結果になりがちだからです。
また、この解釈もいろいろあって、「プラスとマイナスは引き合うものだ」という見方もできるし、「割れ鍋に綴じ蓋(われなべにとじぶた)」で収まりがいいとも取れるし、「人間は自分にないものに惹かれるものだ」という考え方もできます。
あるいは、人間の中に「成長因子」のようなものがあって、どんなカタチにせよ、「自分にないものを補う」方向に進むよう、ちょうどいいプログラミングがされているのかもしれません。前に述べたように、多様性というのは破滅を回避するひとつの非常に有効な方法です。人間にはそういう、互いが多様性を持ち、更にそれぞれがバラバラになるのではなく、一所に集まることによって、破滅を回避しようという試みが備わっているのかもしれませんね。
そして更に言えば、やがて来る日には、ひとりの人間の中に多様性を包含できるようになることが、その成長因子の悲願なのかもしれません。
ある見方をすれば、こうしてこの文章を書いている私だって、そして、この文章を読んでくださっているあなただって、それぞれの中にある、成長因子に導かれて、互いに奇特なことをしているのかもしれませんよ(笑
少し脱線すると、錬金術的な考えでは、男性と女性が融合し、雌雄同体になることが、完全なる人間に至る道――みたいな考えがあります。ユングはそれを、ひとりの人間の中で生じるものとして解釈したように思いますが、そういうのは外的な要因としても表れ、故に、相反するペアが往々にして生じるのかもしれませんね。
と、長々と書いてきましたが、これまで述べてきたように、自分の態度や機能を知ることは、
・自分の長所を伸ばす上でも(主機能を活かす上でも)、
・自分の短所を克服したり、受け容れたりする上でも(劣等機能を知り、それを鍛えたり、そこに価値を見出したりする上でも)、
有効であると思います。意識しない限り、それはおぼろげなのですが、意識することでカタチになることもあるでしょう。まあ、カタチにすることで負担に感じることも多々あるわけですが、それを負うだけの余裕ができた時は、それと向かい合うのもいいでしょう。そこにあるのは負担だけではないはずです。それに負担にしたって、それが程よいものであるなら、それは成長に欠かせない因子だったりしますからね。ま、ある意味、筋肉と同じですね。
【参照記事】(日記より)
「自然――からだ、こころ」
「身体と心…」
それと、まだまだ成長過程で未分化な劣等機能を鍛えるのは、できれば、「保護された空間」といったような場所が理想ですね。
それはつまり、多少不器用だったり、多少失敗してもいい場所、それが赦される空間のことです。逆に、不器用だったり、失敗してしまったことを、いちいちなじられたり笑われたら、やる気をなくしますよね。もう劣等機能を鍛えるのは止めよう、ということになりかねません。
そういうわけで、心赦せる仲間たちとか、あるいは家族とか、信頼できる連れ合いがいるとか、そういうものがあって、尚且つ、多少の失敗が赦されるなら、そこでゆっくり鍛えるのが理想です。ただ、現実問題としては、むしろ逆である場合もあるので、だからこそ、カウンセリングルームのような、「保護された空間」に意味が出てくるのかもしれません。
劣等機能というのは未分化なだけに、暴走したり、爆発したりしがちですが、そういうものをゆっくり目覚めさせるのがいいのかもしれません。
それが無意識である限り、それはいつ発現してくるか分からず、まるで自動反応のようなことが生じてしまうのですが、それをある程度意識しながら、だんだんと我が事として受け容れることによって、それは我が身のひとつになってゆくのだと思います。そして、そこには広い意味で成長がある。
「生きる」という意味には、「人生を送る」という意味もあれば、「持っている機能や能力が発揮される」という意味もあります。(後者は「活きる」とも書きます)。
人間の第一段階としては、生まれ持った機能を発揮させるのが、生きるということなんでしょう。そして、人生の後半においては、今まで眠っていた機能を発揮させるのが、生きるということなのかもしれません。
生きるというのは、いろいろと興味深いです。
ここに注意をひとつ・・・
これらの態度、機能は、あくまで自分の傾向を知ろうとするものです。どこかの誰かを分析して喜ぼうというものではありません。
今の世の中の病理は、「自分のことは鑑みず、他人のことを笑う(嘲笑する)」というところにあると思います。あるいは、「自分のことを見ないために、やたら滅多ら他者を批判する」ともいえるでしょうか。
これらはもちろん、誰もが通る道だとは思うのですが、そこに留まるのは悲しいですよね。それに、この種の悲しみというのは、往々にして自分に返ってきたりするものですし。
というわけで、タイプ論というのは、自分のために使ったほうがよさそうです。
自分のことを知るというのは、けっこう、つらいもんだったりします。痛い思いをすることも、あるかもしれません。
ですから、あまりに負担に感じる時は、一休みするのもありでしょう。休みなしでは、人間は持ちませんやな。
そして、負担があまりに大きすぎる時は、専門家に相談したらよいと思います。
では、また、次回に…
【関連】
タイプ論ではないですが、性格ということで――
「エニアグラムの目次」(日記より)
追記:ブログでもタイプ論のシリーズを始めました。
「タイプ論の目次│枕石漱流 日記」
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