【補講 対立する要素と、全体性の回復】
補講 対立する要素と、全体性の回復
河合隼雄先生著の「とりかへばや、男と女」を読んでいると、面白いことが書いてありました。
(以下引用)
いかなる元型もそれ自身はわかるはずはなく、元型的イメージを通して類推されるだけである。今元型Xがあるとしても、元型的イメージというのは自我によって把握されるものであるから、イメージの方に相当の自律性があるにしろ、自我の在り様によって、そのイメージは変わってくるはずである。そこでたましいの元型というものの存在を仮定すると、それを把握する自我が男性的である場合は、女性のイメージとしてその元型的イメージが生じ、自我が女性である場合は、男性のイメージとして生じると考えればどうであろう。つまり、アニマの元型、アニムスの元型が存在するのではなく、あるのはたましいの元型というひとつの元型で、それがイメージとして顕現してくるときに姿を変えると考えてみるのである。しかし、それらは、もっと深いところにおいては、両性具有的なイメージとなり、その中間に男女の対のイメージがあるのではないだろうか?
この考え方は非常に面白く、心くすぐられます。(我が直観機能の水面(みなも)に波紋が生じ、思考機能が働き出す想いです)
1.アニマ・アニムス
アニマ・アニムスについては、以下を参照してください。
ユング心理学辞典:アニマ・アニムス
やさしいユング心理学:第七章 ペルソナとアニマ・アニムス
図式的に考えた場合、男性的自我を持つ人にとっては、その対をなす存在として、無意識の領域に女性のイメージ=「アニマ」を仮定できます。
しかし、実際問題として、男性の中に女性イメージの元型があるかというと、実はそうではなくて、男性的自我から、無意識内にある女性的イメージ「アニマ」の方向を向いたところに(あるいは、男性的自我と女性的イメージの間に)、河合先生の言う「たましいの元型」とも呼べる存在があるのではないでしょうか?
あるいは、言い方をかえますと、男性の中に女性のイメージである「アニマ」があり、女性の中に男性のイメージである「アニムス」があるというよりは、「アニマ」「アニムス」と呼ばれるものは、実は同じであり、それは「人間そのもの」とか「人間の本質」と呼ぶに近い(人間)元型なのではないでしょうか。
したがって、
・男性的自我から、その人間の本質である元型を見た場合、それは男性的自我と対立する要素である「無意識の領域の女性的イメージ」の方向にあり、したがって、男性的自我から見れば、それは女性のイメージとして具現化される。
・また、女性的自我から、その人間の本質である元型を見た場合、それは女性的自我と対立する要素である「無意識の領域の男性的イメージ」の方向にあり、したがって、女性的自我から見れば、それは男性のイメージとして具現化される。
――そのようにいえるのではないでしょうか。
つまり、「アニマ」「アニムス」共に、実は同じ「人間そのもの」、「人間本質」の元型であり、その人が立つ位置によって、「自分とは相反する要素=自分に欠けた要素」の方向にあるため、相反する性のイメージであるアニマ・アニムスの姿として現れるということです。
(あくまで仮定ですが)
(下図参照)
そして、人間は、「自分の持つ要素」と、それとは相反する「対立する要素」とを統合したり、結合させることで、自分に欠けた要素を補い、「本来の人間」とか「人間そのもの」と呼ばれるものに、近づけるのだと思います。
またまた、言い方をかえると、完全なる人間の元型は「自分が今持っているもの」と「自分には欠けたもの」の両方を持っているので、つまり、自分の今いる位置とは相反する位置(対立する位置)の方向にあるわけで、したがって、完全なる人間に導くもの=「魂」は、今いる位置とは相反する位置(対立する位置)に、人間を導こうとするのではないでしょうか?
ここに、「対立する二つの要素と補償作用」、「分離と統合」、「数字の1と2と3と4」などの奥義があるように思います。
2.対立する要素と全体性
【アニマ・アニムス、男と女】
ここで、男性・女性の存在と全体性の回復を考えた場合、
・男性的自我だけでは(完全なる人間としては)足りず、その全体性を補ったり、人間の本質へと向かうためには、その対立する要素である無意識内の女性的イメージ「アニマ」との対話・対決を通して、両方の性を包含した人間本質の元型に向かい、それによって「全体性の回復」という仕事は成されるのではないでしょうか。
・女性の場合も、女性的自我だけでは(完全なる人間としては)足りず、その全体性を補ったり、人間の本質へと向かう場合には、その対立する要素である無意識内の男性的イメージ「アニムス」との対話・対決を通して、両方の性を含有する人間本質の元型に向かい、その仕事は成される。
――そう言えるのではないでしょうか。
★
但し、ここで注意することは、人間の本質(あるいは、その元型)とは、あくまで「男性的自我と女性的イメージ」や「女性的自我と男性的イメージ」の両方を包含するものなのであって、男性が女性化するのでも、女性が男性化するのでもない、ということです。
前の図を見た場合、男性的自我が、無意識内の女性的イメージと対話・対決しながら歩み寄るのが、その間にある「人間そのもの」や「完全なる人間」の元型に近づくことになるのに対し、男性が女性化するのは、単なる「反転」であって、それは人間の本質を大回りに回避し、単に立つ位置が入れ替わったに過ぎない、と言えるでしょう。(女性的自我と、男性的イメージの場合も同じです)
つまり、意識レベルでの反転が行なわれただけで、欠けたものが補われたとか、人間の本質に近づいたとは、言い難いわけです。そして、このような考え方は、実は男性・女性、アニマ・アニムスの考えのみならず、いろんなことに対して、いえそうな気がします。
【二つの態度と、四つの機能】
上で述べたような考え方は、いろんなことにもいえそうです。例えば、「内向と外向」、「思考と感情」、「直観と感覚」にもいえるのではないでしょうか。
参照:やさしいユング心理学 第2章 タイプ論
例えば、思考タイプの人の場合、自分の立っている位置は「思考的」位置であり、その対立する要素として「感情的」なものがあります。大雑把な例になりますが、思考的過ぎる人が感情的な面に欠けることは、容易に想像できるのではないでしょうか。(何も感情がないわけではないですが、感情表現が下手だったり、感情を読みとるのが苦手だったり、広い意味で感情機能が未分化だったりすると思います。もちろん、すべてがこの限りではないですが)
つまり、(大変ざっくりした言い様になりますが)思考タイプの人は、それだけでは完全とはいえず(ある意味、不完全であり)、それを補い、全体性を回復したり、人間の本質へと向かうためには、感情的な要素との対話・対決を通して、歩み寄ることが必要となるわけです。
といっても、根本的に受け容れられないものを受け容れろとか、感情タイプに反転せよ、というのではなくて、対立する要素との対話・対決を通して、そこにある「意外と良いもの」を見出し、自身に組み込むことが望まれる、というのです。
それにより、人は成長し、全体性を回復してゆき、人間の本質へと向かうことができるのではないでしょうか。
(これは、「内向と外向」、「直観と感覚」、「理性と本能」についても同じです。というか、すべての対立する要素にいえると思います)
☆
例えば、内向的思考タイプの人を考えた場合、外向的感情が対立する機能(劣等機能)となるわけですが、内向的思考タイプの人が、自身の無意識下にある外向的感情的な要素や実生活で接する外向的感情タイプの人との対話や対決を通して、その中に、「意外と良いもの」や「自分に不足していたもの」を見出し、それを自身に取り入れて、全体性を回復していくことになります。
自分と相反するタイプを認めていくのは、実際難しいですが、その中にも案外いいものはあるわけで、例えば、内向的思考タイプの人は、外向的感情タイプの人の「感情にしたがって生きているところ」や「自己反省をあまりしないところ」などが嫌いかもしれませんが、「感情の共有が得意である」とか「対人関係を円滑にする」という良い面を見出していくかもしれません。
そうしながら、外向的感情タイプの良い面を見出し、取り入れていけばいいわけです。そうしていく内に、はじめは認められなかった面、例えば、「感情にしたがって生きているところ」についても、「まあ、時には、感情的に生きてもいいではないか」という風に、思えるようになるのではないかと思います。
★
そして、今一度注意しなければならないのは、思考的な人が180度反転して感情的になったり、内向的な人が180度反転して外向的に行動するというのは、単に反転しているだけであり、全体性を回復するどころか、逆に(未分化ゆえに)破壊的になったり、適応できず大きく挫折したりと、そこには大きな危険が付きまとうということ。
全体性の回復、人間本質への道のりは、「対立する要素との対話・対決」という難儀な仕事を通して成されるのであって、そこから大回りして反転することではなく、また、反転が次の反転で元の位置に戻ったりと、人間本質の周りをぐるぐる回ることではないのです。
とはいえ、大回りするにも理由があって、そんな時は、自我が葛藤に堪えられない状態なのかもしれません。また、堪えられない時に勝負するのも、危ない。
【まとめ】
もう一度、「人間の本質」、「人間そのもの」、「それらの元型」を考えた場合、
・それは、人間の対立する要素の間にあり、
・但し、それは単に中間にある、ということではなく、
・その対立する要素の対話・対決により見出されていくものである、
――そう言えるのかもしれません。
☆
そして、その対立する要素の橋渡しをするのが、「魂」と呼ばれるものなのかもしれません。
・魂は、今あるものだけでは足りないことを教えたり、訴えかけたりし、
(その訴えが、ある時は病気などの症状や苦悩や困難として現れるのかもしれません)
・それが時に夢の中などで、「今無いもの=対立する要素」の姿を借り、イメージとして表れ、
・やがて、両者の橋渡しをする、
――そう言えるのかもしれません。
「今いる位置から、相反する位置にあるものと対話・対決し歩み寄るという非常に困難で厄介な仕事を通して、そこに意外と良いものや、自分に欠けていたもの、自分に必要なものを見出し、それを以前からあるものの中に取り込んでいく」
――そういうことが大切なのかもしれません。
したがって、「魂」が「自分に足りないもの」、「自分が認めたくないもの」との橋渡しをし、その姿を借りて現れれる以上、
・強く惹かれる悪しきもの(自分で悪いと思い込んでいるようなもの)、
・ひどく気にかかる認めたくないもの、
・否定してきた生き方、
・髪を鷲掴み(わしづかみ)にされるように、そちらに向かされる現実問題、
・常に突きつけられてしまう宿命のようなもの、
・逃げるに逃げ切れない、運命のようなもの、
それらの中に、光を見出すことに、大きな意味があるのかもしれません。
★
自分の位置から対立する要素の中にある「良いもの」、「自分に欠けていたもの」、「自分に必要なもの」を見出すには、その対立する要素の方向に歩み寄ったり、その中に身を置いたりして体験するしかないわけですが、その対立する要素に呑み込まれる危険もあります。
対立する要素というものは、得てして抗し難い魅力を持ち合わせますから、強く惹かれることもあろうかと思います。したがって、(今いる位置=)自我とのつながりをしっかり持っていないと、呑みこまれてしまうかもしれません。(命綱がいるわけですね)
ここに、
・今いる位置や今持っているもの、自我にこだわり過ぎると、相反するものに近づけないわけだし、
・今いる位置や今持っているもの、自我との関係が切れてしまうと、相反するものに呑み込まれてしまう、
そんなジレンマがあり、なかなか難しいものがあります。
(時には、今までのものとは関係を切り、相反するものに呑み込まれることで、後に統合される場合もありますが、そこには危険がありますし、何かを失う場合も多いようです。ただ、それが取り返しのつくものなら、それでいいわけだし、何かを犠牲にしても、新たな何かを得られれば、それはそれでいい部分もあるように思います。この辺はなかなか難しいものがありますね)
☆
繰り返しになりますが、「人間は、単に反転するのではなく、対立する要素との対話・対決・葛藤などを通して、そこにある自分に足りないものを補い、全体性を回復していく」ようです。
それは、
・「混乱」ではなくて、「落ち着いた」状態であり、
・「不自然」ではなくて、「自然」な状態であり、
・「抑圧」でも「暴走」でもなく、「解放された」状態です。
(とはいえ、その過程で、混乱や不自然、抑圧や暴走を体験するかもしれませんが…)
☆
私は常々、世の中の物事には「二面性」があると思っていますが、ということは、「世界には『二面性』という理(ことわり)があり、その両方の性質をあわせ持つという意味での、『両性具有』ということが、全体性の目標と一致する」のではないかと思います。
(ここでいう「両性具有」とは、男性・女性のみならず、あらゆる対立する要素について、のことです。したがって、半陰陽や両性愛とは異なります)
閑話休題:「数字の話」
ここで、数字の話をすると、「1」と対立する「1」である「2」なる存在になることで、「1」は、自分とは異なる相手の存在と自分の存在を知ることができ(それが知恵や知識を与えてくれるわけですが)、その対立する「1」と「1」は、自分だけでは足りず、不完全な状態であり、それを仲介する「3」という存在により、新たな「4」という存在になる――そういうことが言えるかもしれません。
(以前は、「3」が統合された状態かと思っていましたが…)
☆
こういうことを考えていると、「3」である「魂」という存在は、対立する要素の境界を飛び越える「超越機能」を有するのか、とも思ってしまいます。
また、人間は、全体性を回復しようと思えば、対立する要素との境界を越えるという、非常に厄介で危険な仕事をしなければならないのかもしれません。
そして、その現れが、時には症状や現実問題として具現化されるのかもしれません。
3.全体性回復の図式
思考タイプの人を図にした場合、以下のようになります。
この図は、直観機能を補助機能に持つタイプの人のものですが、図のように、主機能である「思考」と補助機能である「直観」、更に次の機能である「感覚」、の3点を結ぶ三角形の能力を持つと仮定できます。(思考機能を頂点とする、得意な機能を持つわけです)
更に、この人が、自分の劣等機能である感情機能と対話・対決し、それを補うことができた場合、更に、「直観」、「感覚」、「感情」を結ぶ(点線で示された)三角形も補完され、この人の機能は大幅に広がります。
そして、更に、「男と女」(「男とアニマ」「女とアニムス」)、「理性と本能」、「外向と内向」など、人間の持つ対立する要素の点を書き加え、それを結んだ場合、それは全体性を現す「円」に近いものとなるでしょうか。
これは真に興味深いことです。
今自分が持っている要素を点として書き加え、今自分が持っている要素と対立するものと対話・対決することによって、それを我が身に取り入れ、先に書き加えた点と対立する点を更に書き加えることで、その人の持つ機能は、「完全な円に近づく」=「全体性を回復していく」のです。
ここに、『対立する要素』と『全体性』の神秘があるように思います。
このような考え方を、自分の人生に当てはめてみると、意外なものが見えてきたり、方向性が見えてくるかもしれません。
(今現在の苦悩や葛藤の意味や、進むべき方向性・道といったものも、見えてくるかもしれません)
といっても、それは対立する要素との対話・対決、葛藤の道であり、難しかったり、苦しかったりするのにかわりはないのですが。
4.究極のイメージ(2005年05月02日追記)
人間は無意識内に、普遍的なもの、個人的なもの、あわせて多くのイメージを持ちます。
「影」「アニマ(男性の中の女性的イメージ)」「アニムス(女性の中の男性的イメージ)」「母なるもの」「父なるもの」――それらは普遍的な意味も持ちますし、個人の経験に彩られた個人的な意味も持ちます。
それらの究極のイメージが、「自己実現」とか「個性化」の目指すイメージでしょうか。
もっとも、「自己実現」や「個性化」は、「影」や「ペルソナ」、「アニマ」「アニムス」との対話・対決によって成されると思いますから、ひとつのイメージに限定することはできないかもしれません。
しかし、あえてそれらのすべてを包含するようなイメージがあるとするなら、人は、自分自身の究極のカタチである、そのイメージに向かって生きていることになります。
そのイメージを「究極の人間」のイメージとするならば、人間は各成長段階で、そのイメージに近づけるように、自分の足りないものを補うことになります。
例えば、自分の価値観がある程度できてきたら、「自分が認めたくないもの=影」と対話・対決し、影の中からも良い面を見出し、それを取り入れ、自分に足りなかったものを補っていきます。
また、男性的自我を持つ者は、無意識内の女性的イメージである「アニマ」と、女性的自我を持つ者は、無意識内の男性的イメージである「アニムス」と、対話・対決することで、自身の対極にある面を取り入れ、「全体性」に近づいていきます。
このように、人生の各段階で、いろんなイメージとの対話・対決を通して、人間的に成長するわけですが、実は、これら複数のイメージが存在するというよりは、「究極の人間」という元型が、今無いものを補うために、その今は無い「対立する要素」の姿を借りて、具現化している――そう言えるのかもしれません。それが、ある時は「影」であり、ある時は「アニマ」「アニムス」なのではないでしょうか。
そして、我々が肉体を持ってこの世に生まれてくる以上、我々は、無意識の中に生まれ持っている「究極の人間」というイメージを、この肉体を持って、この世界で具現化することが究極の使命なのかもしれません。
そして、人間が一人ひとり異なる以上、たとえ「究極の人間」のイメージが、無意識の深遠では同じ人類共通の「元型」だとしても、それを捉える自我は一人ひとり違うわけだし、更には、生まれた環境、文化、時代が違うので、当然、一人ひとりの「究極の人間」像も、違ってくるのではないでしょうか?(それを具現化したカタチは、当然違ってきます)
我々の究極の目標は、この肉体、この自我、この自己、それらすべてを総動員して、この世の中で、今この時代に、自分だけの「究極の人間」像を具現化することなのかもしれません。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
では、また次回に…
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