城太郎日記 ユング心理学 スマートフォン版


気づきとは、どういうものだろう?

コンプレックスとの対決


コンプレックスは人それぞれであり、定義付けは難しいようです。

ただ、それを前提として、いくつかのパターンを見ることはできる。

今回は、そのひとつを見ていきましょう。

ただし、コンプレックスは無意識にあるものであり、意識できないというのが前提で、さらにいえば、無理やり意識しよう、あるいは、させようとすると、反発が生じるので要注意。

前にも述べましたが、「その時」というのが大事になります。

ヘタな触り方をするのは、危ない。



<ひとつのパターン>

何らかがタブーとされ、それが抑圧されている。

ただ、世間的には、それはタブーとはされていない。

むしろ、必要な時さえある。

実際は、タブーとされるのは極端な行為であって、ほどほどであるなら問題ない。


この時、タブーとされた部分は欠けた状態になります。

その欠けたものをとり戻そうとして、コンプレックスが活動しているともいえる。

人間の完全性をとり戻そうと、無意識の方から働きかけてくるわけですね。


ただ、無意識にあるもの(この場合はコンプレックス)は言葉を持たないので、説明できない。

なので、別のことで訴えかけてきます。

それが、自然と振る舞えなくなることや、時には強迫症状のようなものとして、表に現れるわけです。


コンプレックスとの対決の中で出てくるのが、前にも書いた「投影のひきもどし」です。今まで否定してきたものの中に、意外と良い点を見つけ、現実を認識する。

いわば、「それがすべてではない」ということを知るんですね。確かに、この部分はまずい。でも、別のあの部分は、むしろ良い。そして、その他についても、問題ないことが多いな〜と。

ということで、コンプレックスとの対決を通して、「多少のことをゆるす」ことを学ぶんですね。

極端なことは、確かによろしくない。避けなければならない。でも、多少のことなら問題ない。それを学び、経験していくのです。



<コンプレックスの難しさ>

コンプレックスの難しさのひとつに、実は「人との関係の中で生じている」ことが多いという点が挙げられるでしょう。

上の「何らかがタブーとされ、それが抑圧されている」という例にしても、本人が単にそうしているというだけでなく、人と人の間で、それが生じているのです。

なので、問題に悩んでいる本人がそれを知るだけではなく、本人を取り巻く人々が変容しないと何も変わらないという面がある。

一般には、「問題のある人」が「問題のない人」になるのが望まれたりするのでしょうけども、あるいは、「悩んでいる人」に「悩みがなくなる」のを望んでいるのでしょうけども、実際は、ある人を中心にした「人たち全員」が、考え方や生き方を見直すことが望まれたりするのです。

なので、この時、この「人たち」という方々に変わる気がないと、なかなか物事が進まなかったりする。前に書いた「その時」というのは、ある意味、周囲の人も自分というものに向き合う、ということも含まれるんでしょうね。


<コンプレックスの意味>

というわけで、人間を困らせ、悩ませるコンプレックスですが、そこには意味があるようです。

それによって、長年にわたり同一方向に進んでいたものに対し、進路修正がなされる。

同じ方向に進むこと、同じことばかりすること、これらはバランスの悪さや偏りを生むものなのです。

なので、時には、バランスを回復させるような修正が必要になる。

言葉を変えれば、欠けたものを補完する必要に迫られる。

で、コンプレックスは、その「きっかけ」を与えてくれる存在でもあるのです。

「その時」がきて、「それ」がなされるまで、非常に困った、悩ましい存在なのですが…。


(おしまい)




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