【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、表紙の過去ログ 09年05月分
「社会とコンプレックス(中編)」「同(後編)」を紹介をしています。

表紙過去ログ

    <シリーズ:コンプレックス>
    2009年05月(1):「第20回 社会とコンプレックス(中編)」
    2009年05月(2):「第21回 社会とコンプレックス(後編)」
【2009年05月(1)】


◇「第20回 社会とコンプレックス(中編)/コンプレックス」◇


(第1回〜第19回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)

前回書いたように、社会的な価値観や文化的な背景、それらがコンプレックスを作り出す部分も、あるのではないかと思います。

しかし、そういう背景そのものが問題なのではありません。それを「絶対視」してしまうことが問題なのです。



「○○は素晴らしい」「○○こそ大事だ」、そういうものはあっていい。それそのものが問題だというわけではありません。ただ、それを絶対だとし過ぎて、それ以外を徹底的に排除しだそうとすると、話は別になってくる。

「○○は素晴らしい」→「それ以外は悪だ」

「○○こそ大事だ」→「それ以外は持つに値しない」

こういうのは、極端でしょ?

その内、「それ以外は殲滅させてしまえ」「殺してしまえ」、そういう風になったら、えらいことです。

でもね、案外、そういうことが、心の中で生じていたりするんですよ。互いの関係の中でも、ひとりの人間の心の中でも、ですね。



「それは絶対悪である」、そういうものが自分が生まれた社会――大きい社会もあるし、小さい社会もあるとは思いますが――で、絶対の掟や前提としてある時、しかも、それに関する何かしらの「それ」を生まれ持っている時、いったい、どうなるでしょうか?



そして、忘れられないのが、「絶対悪」みたいにされている「それ」が、意外と悪でもなんでもなかったりすることです。

例えば、その社会から一歩踏み出せば、悪でもなんでもなかったりする。そもそも、その社会の中でも、見方次第で、悪でも何でもない部分もある。いろいろ、あります。



ちょっと話を戻しますけども、「○○を持っていることは素晴らしい」という絶対の価値観がある場合、それがあまりに硬くなると、「○○を持っていないのはけしからん」、そういう風になってしまうかもしれません。

でも、何かの加減で、「○○を持っていない人」というのは、存在するかもしれない。しかも、その人にとっては、努力で○○を持つのは不可能、そういうケースもあるかもしれない。

そういう場合は、どうでしょうか? 存在してはいけないのでしょうか?



こういうのはすごく極端に書いてますけど、その極端みたいなもの近しいものは、案外、そこかしこにあるかもしれませんよ。根本を同じくするものが。

あまりに「当たり前」にされすぎて、それこそ「反射」みたいに処理されてしまっているのかもしれません。

そういうものが我々の傍にあって、苦しめたり、苦しめられたり、しているのかもしれません。

そして、すぐ近くにあるのに、見えていないとか…




(続きは下に…)





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【2009年05月(2)】


◇「第21回 社会とコンプレックス(後編)/コンプレックス」◇


社会的な価値観や文化的な背景、それらがあまりに硬化してしまい、例外を赦さなくなってくると、コンプレックスは見えないところで形成されてしまうのかもしれません。そういう部分があるでしょう。

なぜなら、人の領分ではどうこうできない、「持って生まれたもの」というものがあるからです。

考え方、能力的なもの、いろんな生まれ持ったものが、所属する社会の価値観や文化的な背景、あるいは、小さな社会である家庭のありようというものに反している場合、はみ出しているような場合、コンプレックスとは限りませんが、いろんな軋轢が生じそうです。

この時、この軋轢が意識されず、無意識に留まりながら大きなカタマリ(感情がこんがらがったようなカタマリ)を形成してしまうような場合、コンプレックスが形成されたといえるのかもしれませんね。



ところで、私は社会的な価値観や文化的背景、それそのものが悪いとは思いません。そういうのが無いのもつまりませんからね。個性のない個人、お国柄のない国、それでは寂しいでしょう。味気ない。

しかし、今まで書いてきたようなことを考えた場合、確かに、それらを重宝し、絶対視すればするほど、コンプレックスは生じてしまうのかもしれません。

(マイノリティとマジョリティの問題とかもありそうだし)

このようなものの間で、我々はいったいどうすればいいのでしょうか?



実際、一方では境界をなくそうという動きがあります。また一方では、境界を明確にしようという動きがある。違いをなくそうという動きもあれば、違いを明確にしようという動きもある。

例えば、この「境界をなくそう」という動きは、「絶対視に対する反抗」とも取れます。何かしらを分ける線(みたいなもの)に対する反抗。そういう部分もあるのではないかと思います。

しかし、境界をなくすことで生じる、そんなものもあるのですから、境界をなくすことを絶対視することもまた、何らかの犠牲を生じさせるでしょう。

その反発として、境界を明確にする動きもまた、反発として生じるかもしれません。

とと、脱線しました。



前回、「見方次第で、悪でも何でもない場合もある」と書きました。ここにヒントが隠されているのかもしれません。

ひとりの人間というものに注目した場合、我々人間というのは、案外、悪でも何でもないことを悪だと断定し、自分で自分を生き難くしている部分があったりします。はじめから決まっている定義に疑問を持たず、それからはみ出るものに罪悪感を感じてしまい、その悪と定義したものを、見えないところに隠してしまいます。

で、よくよく考えてみると、何故そんな定義をしたのか、よく分からなかったりしてね。

そういう決め付けのようなことを、我々はしてしまう。善悪云々、理屈云々ではなくて、そうしてしまう部分がある。

でも、まあ、そうなるにも事情があるもので、事情のカタチは千差万別だとは思いますが、決め付けるには決め付けるだけの事情があるものです。

だから、そう決め付けた自分が悪いということはありませんね。(事情を無視すると、そうなりがちですが)

そもそも、人間には心の保護装置みたいなのがあって、あまりに負担のかかるものは意識に上らないようになっています。だから、誰が悪いとか、そういうのではありません。人間の仕組みの問題です。

で、これが半分。

そしてもうひとつ、これが残りの半分になりますが、社会は社会で、案外、悪でも何でもないものを悪だと断定し、ひとりの人間を生き難くしている部分があります。部分的に悪であるにしても、場合場合で悪でも何でもないことを、時に、悪だと断じてしまうのです。

別にあってもいいものにダメ出ししたり、他にいいものを持っているのにひとつを持っていないだけで軽蔑したり、そういうことをしてしまう。

また、その社会というのもいろいろあって、国家規模の場合もあれば、地域みたいな場合もあるし、会社単位、学校単位、クラス単位、そして、家族単位であることもあるでしょう。それぞれが人の集まりです。



こうなると、人間を断罪してしまう社会とはなんて悪いものなんだと思うかもしれませんが、これもちょっと考えないと、おかしなことになるかもしれません。

ちょっと横道にそれますけど、「社会」が悪者にされる場合、どうも「人間」というものの存在をあまり感じないことが多いですね。

前々から書いてきてますけど、コンプレックスのように感情と深く関わるものの場合、人との関係というのは無視できないと思っています。感情というのは、人と人との関係によって生じるから。

だから、コンプレックスの話をしている時にですね、「人が不在の社会」の話をしても、しょうがないと思うんですけどね。

いや、だからといって、社会の話などしてもしょうがない、と言っているのではないですよ。そうではなくて、社会の話をする時は、「人がいる社会」の話をせにゃならん、ということです。

遠くの、それも人の見えない社会を糾弾するのは簡単ですけどね、簡単なだけに効果はなかったりするでしょ。だって、人間不在ですからね。

だいたい、なぜコンプレックスが生じるかというと、「関係する何か」があるから生じるのだと思うのですが、人間不在の社会に、「関係する何か」はあまりなさそうです。

また、あまり関係ないから、言いやすい。そういう部分はあるでしょう。人間、関係あることは、なかなか言えません。そういう意味では、あまり関係ないことを言っているから救われているという部分は、確かにあるのです。

でも、経験上、誰でも少なからず感じることだとは思うのですが、関係ないところで頑張っても、効果は期待できませんよね。

人間不在の社会を云々というのは、そういうことなんです。

でも、まったく意味が無いかというと、そうでもないですよ。それは何らかの鏡だったりしますからね。

我々人間は自分や身近なことはよく見えませんが、投影ということをすることによって、ひとつには他人事としてしまうんですが、もうひとつには、その影を見ることによって何かしらを知ることもできるわけです。



で、話を戻すわけですが、個人にしろ社会にしろ、「ホントは悪でもないものを、悪として断じている面がある」「部分的には悪かもしれないが、その部分以外はそうでもないものも、全体として悪としているところがある」「出し方によっては悪になる可能性のあるものを、根源から悪として定義している面がある」、ということがあるのだと思います。

ここまでくれば、答えは出たも同然ですよね。

つまり、見方の改変や、方向転換が求められている。当たり前になりすぎているものに、疑問を持って、あらためて確かめることが望まれている。

「別の面」を見ることが、望まれている。

ハッと気づかにゃならん。

そういうところがあるわけです。

個人と、その個人が所属する、共同の集まりや、相互関係において、ですね。



これはコンプレックスについて語られたものではなく、「近代科学」や「近代自我」と「人間の心」なんかの話として出て来たものですが、ここに引用します。

これについては、相矛盾するものをいかにして自分の心に収めるかというところで、その人の「個性」が生まれるのだ、と考えている。矛盾のないシステムがモデルとして出来あがってしまったら、そこには個性などというものはなくなってしまう。ここに人間の心の不思議がある。矛盾するものを「はこのようにかかえているのです」と宣告することによって、その人の「私」つまり個性がはっきりする。

(河相隼雄「対話する家族」より)

というわけで、コンプレックスの解消においても、「相矛盾するものをいかにして自分の心に収めるか」とか「個性」とか、「私」とか、そういうものが関係してくるのだと思います。



今回は社会を問題としましたけど、その場合、社会的な価値観や背景とは「矛盾する」何かを抱えて困るわけでしょ。

でも、そこにこそ、今までの社会とは違う、「個性」が隠れているわけです。「違う」という言葉は実はちょっと違うんだけど、「それだけではないもの」が包含されているわけですね。まだ、カタチにはなってないものの。

だから、コンプレックスを生きるというのは、それを消し去る云々ではなくて――というか、消し去れないものを消し去ろうとするから苦しいんですが――なんというか、実は、何らかの個性を生み出すための、生みの苦しみの部分もあるんでしょうね。


個性を生きるって、すごくつらいんだと思います。別個のふたつを統合させるって、すごくしんどいのだと思います。また、すごく孤独でもあるでしょう。

でも、そうしてまでも生まねばならない何かがあるとすると、また、別の思いが出てきませんか?



今回は3回にわたって、社会とコンプレックスについて書いてきました。

その中で分かってきたのは、社会の価値観や文化的な背景があまりに絶対視されてしまうと、コンプレックスを生み出しやすくなってしまうこと。

そして、とはいえ、社会の価値観や文化的な背景そのものが悪いというわけではないこと。

それを絶対視してしまう姿勢が問題で、そうしてしまう人間の問題であること。

そんな社会にあって、我々は何を考え、何を選ぶのか?

コンプレックスを持ってしまった人は、どうすればいいのか?


そこには、上に書いた、「個性」というものや「矛盾するものを収めていく」ということが、関係してくるのでしょう。

また、その過程で、今まで書いてきたような、(心の)エネルギーの問題、爆発の仕方の問題、人と人の間という問題、そういうものが関わってくるのでしょう。

こういうものに定型の答えはありませんが、それ即ち「生きる」ということなんでしょうね…









(続きは09年06月の過去ログに…)





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