【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、表紙の過去ログ 08年10月分
「第3回 修復しようとした試み」「第4回 複雑な感情」「第5回 劣等感コンプレックス」を紹介をしています。

表紙過去ログ

    2008年10月(1):「第3回 修復しようとした試み/コンプレックス」
    2008年10月(2):「第4回 複雑な感情/コンプレックス」
    2008年10月(3):「第5回 劣等感コンプレックス/コンプレックス」
【2008年10月(1)】


◇「第3回 修復しようとした試み/コンプレックス」◇


(第1回〜第2回はこちら


血栓のメカニズムについては面白い面があって、血栓というのは血管を修復しようとしてできるそうです。(といっても、私は専門家ではないので、間違っていたらすみません)



我々が擦り傷なんかを負ったとき、自然と止血が行なわれますよね。あれとよく似た作用が血管内でも行なわれるそうです。つまり、血管壁が破れた時なんかに、破れたところに血小板が集まってきて固まり、傷を塞ごうとするんですね。そして、このメカニズムは、傷を塞ぐという点においてはいいんですが、時には血流まで塞いでしまうので、困ったことになってしまうわけです。

これをコンプレックスのメカニズムに当てはめた場合、どうなるでしょうか。



コンプレックスの形成において、何かしらのショック体験があるとします。ショック体験というくらいだから、それは心に傷を作りますよね。で、生体に防御反応としての止血があるように、心にも防御反応があって、その傷を塞ごうとする、あるいは、その傷から流れる血を止めようとしているのかもしれません。

ショック体験に対する心の防御反応としては、例えば、防衛機制が挙げられるでしょうか。抑圧や同一視、反動形成や逃避、投影などがそれです。

その詳細は別に譲るとして、我々はそういった心の保護機能によって、ある程度の安定を得ているわけです。そういうものによって、傷が致命傷になることを防いでいるんですね。それを見ようとしなかったり、忘れたりして。あるいは見方を微妙に変化させて。

ただ、この防衛のメカニズムにも困った面があって、それはどうしても現実に起こっていることをぼやかしてしまうのです。「それ」を「それ」として受け取ってしまうと、心に大きなダメージを与えてしまうので、どうしても「それ」をぼやかしてしまうんですね。

で、ぼやかすのはいいのですが、やはり感情というものは存在するわけで、何らかの「それ」をぼやかすもんだから、感情は処理されない。あるいは感情があまりに大きすぎて処理できないものだから、後に回す、保留することになってしまう。もう少し血栓的な見方をするなら、傷を引き裂かないために、感情はそこに留まり、処理されるよりはそこに張り付いて傷を塞ぐことに使用される。これにより傷は開かず、致命傷にもならない代わりに、処理されない感情は残ることになる。しかも、「それ」とよく似た感情を発生させる状況というのは何度もあるわけで、その度にうまく処理されない感情は募ることになります。どんどん蓄積されてしまう。

コンプレックスの核が、似たような感情を巻き込むのだとすると、同じような状況に身を置く度に、小さな感情を巻き込み、混同し、コンプレックスは大きくなることになります。



大きな感情を伴なうような、核になる経験をする

それを正面からすべて処理することはできない。仮に処理しようとすると、深刻なダメージを受けることになる。(大きな、とげとげしい感情は心に傷をつける。そんなものを流すわけにはいかない。心がズタズタになる)

それを避けるために、その処理は後回しにされる。そうするために、人間が生まれながらに持っている防衛機制が働く。(一つに、傷を塞ぐため、一つに、これ以上傷つけないために、感情はそこに留まる)

ただ、その経験は無かったことにはならないし、深い感情にしても、それは処理されていないだけで、無意識の中に存在している

人間が生きる中で、核となる経験と似たことを再び経験することになる。それは核になる経験ほどの大きな感情を伴なうものではないにしろ、ある程度の感情は発生する。しかし、それによって核になる経験や感情を呼び起こすにはリスクがある。危機的状況を招くかもしれない。(前ほど大きくないにしても、同じような感情が流れてくる。それを流し処理しようとすると、傷を塞いでいる感情まで流すことになり、それでは傷は開くし、また他の部分まで傷つけることになる)

反応として、その時の感情は、核となる感情と同じカテゴリに整理されるのだけれど、処理されていない核となる感情と重なり、大きく心を揺さぶる。(傷は、感情をそこに留め、流さないおかげで塞がっている。そのメカニズムにより、同じような感情も流れないことになる)

その時の感情は小さなものかもしれない、しかし、同じような感情は処理されないままたくさんある。そして、一気に処理することもできない。したがって、小さな同じような感情が発生するたびに、明確に意識されないまま、大きく心だけが揺さぶられる。(以降、同じような感情は、傷を塞ぐメカニズムにより、そこに留まり、流れない。ただ蓄積される)

そのような働きに影響され、我々は時に、通常の振る舞いができなくなったり、よく分からない情動に困惑したりする。(やがてそれは意識にまで影響を与える。それは血流が滞るように、感情の流れが滞っているから)



このように、深刻な事態にならないよう、傷を塞ごうとして働いている防衛のメカニズムが、感情の流れを阻害することにもなってしまっているわけですね。

心の中のかさぶたが見えないところで大きくなって、やがて見えるところまで影響を与えてくるのです。

まるで、血管の中の異常により、我々の目に見える身体活動が阻害されるように。

血栓が止血という意味では有用でありながら、血流に対しては害を与えてしまうように、心の中で、傷を塞ぐための有効なメカニズムが、感情の流れを阻害してしまい、何らかの閉塞状態を作ってしまうのですね。



ところで、血栓症の治療に対しては、抗凝固薬や抗血小板薬が使われるそうです。ということは、血液が固まりにくくするということです。

すると、コンプレックスにこれを当てはめる時、そのカタマリを(ゆっくり)溶かしてゆき、尚且つ、感情というものが凝固しないようにすることが望まれるのかもしれません。

こういうことがヒントになるかもしれませんね。




話が「血栓に似ている」という横道にそれましたが、次回よりまた本題に戻りたいと思います。



(下に続く…)





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【2008年10月(2)】


◇「第4回 複雑な感情/コンプレックス」◇



コンプレックスには「複雑な」という意味があります。物事がいたってシンプルなら、感情というものは滞りなく流れるのですが、複雑になってしまうとうまく流れませんよね。

「複雑な」のひとつのカタチとしては、「矛盾」というものがあるでしょうか。

例えば、「X(エックス)はよいものである」というのと「Xは悪いものである」というのは、矛盾ですよね。「Y(ワイ)はやさしい」というのと「Yは残酷だ」というのも矛盾します。「Z(ゼット)は強い」というのと「Zは弱い」というのもそうです。

しかし、世の中に存在するものって、こういう風な矛盾する両面を含んでいたりするでしょ。ある面に注目した場合、すごくやさしくて、でも、別のある面に注目した場合、すごく残酷だったりする。また、ある面ではすごく強くって、でも、別のある面ではすごく弱かったりする。一方ではよいもので、他方ではむしろ悪かったりする。そんなことはないですか?

では、人間ってどうでしょう。

あまり他人のことを言ってもしょうがないので、私の話をしましょうか。私はある部分ではなかなかやさしい人間だと思っています。慈悲深さを発揮することだってあります。でも、他方ではすごく残酷です。ひどいことも言います。ある状態では強さを発揮することもあります。でも、別の状態では、ものすごく弱かったりします。ある人が私の「いい面」を見つけてくれることもあります。しかし、別の人が「悪い面」を指摘することもあります。

このように、私は多くの矛盾を包含しています。時に、その一方をつままれて、いろいろと言われたりすることもありますが、私にしてみればその反対も持っているわけで、ちょっと複雑な気分になることもあります。ただ、万人に私のことをすべて分かってもらうわけにはいかないので、これはもう仕方のないことですよね。私だって、ある場面では自分の一面しか見せませんから。いちいち全部見せないんだから、お互い様といえばお互い様です。



でも、こういう矛盾って、あまり意識しなかったりするでしょ。だいたい、いいならいい、悪いなら悪い、やさしいならやさしい、ひどいならひどい、強いとか、弱いとか、その一方に分けたがるのも人情です。その証拠に、「あの人は○○な人だ」とか言っちゃいますもんね。

まあ、それも全面的に悪いとは思いませんが、今回問題にしている「複雑な」ってことになると、それそのものが複雑であるというのもありながら、矛盾するものを包含しているのに、それを――なんというか――不変のひとつみたいに思ってしまうのが、複雑なのかもしれません。そういう心情こそ、複雑なのかもしれませんね。

いろんな面を持っている「それ」を、○○だと思いたい。意識のすぐ下にモヤモヤがあって、そのモヤモヤの中に、何かが隠れているんだけど、それを何ともできない。ともかく、「それ」を○○だと思いたい。思わないことには、大変なことになる。

そういう複雑さを持っているのかもしれません。

となると、「それ」は矛盾するものを包含しているという点でも複雑なんですが、「それ」のことのみならず、「それ」に接する人間の心情の方も、複雑なのかもしれません。



「複雑な」のもうひとつのカタチとしては、「ごちゃごちゃした」とか「未整理な」というものもあるでしょうか。

上で述べたように、「それ」は矛盾したたくさんの要素を包含していますから、ごちゃごちゃしています。しかも、コンプレックスのこととなると意識できませんから、未整理です。ごちゃごちゃしたまま未整理で、放っておかれているわけですね。



一番初めに書いたと思いますが、コンプレックスとは意識されていないものです。意識されないからコンプレックス。意識してないということは、それを見ていないということ。それを見ていない――あるいは見ることができない――のだから、整理のしようがありません。もともと多面的で、矛盾しているものをたくさん含んでいて、しかも、それを呑み込めないだけの理由があるのですから、ごちゃごちゃしたまま未整理な状態です。

同じごちゃごちゃしたものでも、それをちゃんと見ることができれば、人はそれを整理することができます。うまく呑み込めます。すぐに呑み込めなくても、しっかり咀嚼して、呑み込めるようにするでしょ。

でも、コンプレックスが生じるような場合、それができなくなります。しっかり見つめることができない。うまく呑み込めない。うまく咀嚼することができません。

だからごちゃごちゃしたままなんです。



これを先の矛盾ということと絡めて説明しますと、例えば、「本来X(エックス)は○○なものである」というようなものがあるとしましょうか。実際、世間でそう言われるだけあって、だいたい世の中のXは○○です(*1)。しかし、その人にとってのXが△△だとしましょうか。そうなると、「本来、○○であるはずのXが、そうではなくて、△△だ」ということになります。

それが誰でも冷静に、客観的にそう思えるようなものならいいんですが、そうでない場合も多々あるでしょう。で、そういう場合は、「本来、○○であるはずのXが、そうではなくて、△△だ」なんて認められません。受け容れられないんです。そんな現実は見つめられない。呑み込めない。理解するために咀嚼するなんてこともできない。

それが人間です。

そして、矛盾というものを今一度考えると、「本来、○○であるはずのXが、そうではなくて、△△だ」という一面もあって、しかし他方では「そのXは、ちゃんと○○である」といった面も持っていたりします。だからこそ複雑で、ややこしい。整理しにくいのです。



こういった傾向があるから、コンプレックスというのは厄介なのです。

それを簡単には見つめられないし、呑み込めない。意識できない。整理もできない。

そして、ごちゃごちゃしたまま絡まり合って、知らぬ間に大きくなり、何らかの流れを滞らせてしまうんですね。




(*1)
後々には、その世間のXだって、必ずしも○○ではなくて、△△な面を含んでいることが、分かったりするんですけども。




(続きは下に…)





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【2008年10月(3)】


◇「第5回 劣等感コンプレックス/コンプレックス」◇


無意識の中でごちゃごちゃしていて、整理がつかないものが、劣等感と結びついているような場合、それは劣等感コンプレックスと呼ばれます。



「あの人は○○ができます」「わたしは○○ができません」とか、「あの人は△△を持っています」「わたしは△△を持っていません」――このようなことを、何の苦もなく言えるようなら、コンプレックスは持っていないと言えます。それはちゃんと認められていて、整理されている。意識的に把握されています。時折、平気な顔して「わたし、○○がコンプレックスなの」とか言うような場合もありますが、厳密な意味では、それはコンプレックスではありません。ちゃんと意識できているし、複雑な感情が伴なっているわけでもありません。(*1)

しかし、○○と聞いただけでカッとなってしまうとか、その話題となると「○○ができるからといってたいしたことない」とか「○○は持っているけど、××は持ってないんだぜ」とか、「だいたい○○を持っているような人間は――」とか、そういうことを言ってしまうような場合は、整理されないものが奥の方にありそうですね。

あるいは、逆に、○○をできるだけで人生すべてうまくいくと思っていたり、○○を持っている人は無条件で高潔な人だと思ってしまったり、こういうのも、そこにはコンプレックスの存在があるのかもしれません。

つまり、コンプレックスがあるおかげで、正常な判断ができなくなってしまっているんですね。まるで自動反応のように、引き落としたり、粗を探したり、あるいは持ち上げたり、ともかく、それをそれとして受け取れません。

いろんなものがごっちゃになって、未整理なまま、何だか分からないような取り扱いがなされてしまいます。



ここにコンプレックスの性質が表れていますよね。即ち、「意識できない」「ごちゃごちゃしている(絡まりあっている)」「整理されない・未整理だ」「何だか分からない」とか。そして、それをそれとしてそのまま呑み込めない。認識できない。認められない。



劣等感コンプレックスのない状態を、「わたしは○○ができません」「わたしは△△を持っていません」とか、「あの人は○○ができます」「あの人は△△を持っています」とか、そういうことを無理なく言える状態だとすると、劣等感コンプレックスを持たせないようにする場というのは、どんな場なんでしょうね?




因みに、「劣等感」を辞書で引くと、以下のように書かれてあります――

自分が他より劣っているという感情。

(三省堂「大辞林」より)

シンプルですね。ただ、よく見てみると、「感情」と書かれてあります。「自分が他より劣っているという認識」ではなくて、「自分が他より劣っているという感情」なんですね。そこには情緒的な要素があるわけです。落ち込みとか、脱力感とか、反発とか、そういうものがありそうです。

そして、それらとうまく向かい合えないとか、うまく意識できないとか、こういう時は劣等感コンプレックスのある状態ということなんでしょう。無意識のほうに大きなカタマリがあって、それがいろいろと意識にも影響を与えてきます。




(*1)
平気な顔しているけど内面はかなり複雑――とかなると、話がややこしくなるのですが…









(第6回はこちら…)





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