【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、「表紙の過去ログ 07年12月〜08年02月分」を紹介をしています。
「勉強は手前勝手にするに限る」「強力なもの/ペンは剣よりも強し」「風と心とたましいと…」

表紙過去ログ

    2008年02月:「勉強は手前勝手にするに限る」
    2008年01月:「風と心とたましいと…」
    2007年12月:「強力なもの/ペンは剣よりも強し」
【2007年02月】


◇「勉強は手前勝手にするに限る」◇


今、いい歳になって思うのは、「勉強は手前勝手にするに限る」ということ。

大人なんてのは、足元が定まってない人ほど、あれをしろ、これをしろ、とうるさいですが、
そんなに慌てたって、人生のゴールなんてずっと先なんだから、しょうがない。

将来設計っていったって、どこまで考えてるんだかあやしいわけだし、
どこにあるんだか分からないモデルにすがって、一喜一憂しても仕方ない。

子供のため、子供のため、っていったって、
その実、足元の定まらない大人が、ちょっとでも安心するために、わけの分からない鞭(無知?)をふって、目先の成績なんだか、目先の安心なんだかを、必死で拾おうとしても仕方ない。

人情としては分かるけども、ためになるとは思えません。

だいたいが、それじゃあ、面白くないでしょう。

それはまるで、口の中に無理やり食べ物を放り込んでいるようなもので、
結果、食べることを嫌いにしているようなもんだ。

これじゃあ、勉強が嫌いになる。



人間には、知的好奇心ってものがあって、
それがいつ発現するかは人によってまちまちだけども、
また、何に対して知的好奇心を抱くかも、人それぞれだけども、
いつか、どこかの瞬間で、何かに対して、知的好奇心は抱くものだと思います。

でも、大人の方がいっつもかっちも慌ててたら、大事なときには付き合えない。

せっかく勉強しようかという時に、付き合えないならまだしも、邪魔してしまう。

これで、教育が何とか、子供のために云々とか、そういうことを平気で言ってしまうんだから、もう、○×△□#〜〜〜〜〜。



でも、知的好奇心にしたがって勉強するには、その土台がいるので、
最低限の教育ってやつは、しておいたほうがよさそうですね。

土台のない上には何も建たないわけだし、
好きなことを勉強しようにも、基礎がないと勉強できませんものね。

だから、基礎はやっぱりやっておいたほうがいい。

それを、学校教育で、ほどほどに、やって、
余った時間を、好きな勉強に使えるのが、理想ですね。

また、知的好奇心ってやつがまだ芽生えてないなら、それもいいでしょう。

野原駆け回って体力付けるのも、将来の勉強に役立つかもしれない。
それがフィールドワークの芽になる可能性だってある。

遊びにしたって、小さい頃に十分に遊ぶことで、将来、遊びに飢えることがなくなるかもしれない。
逆に、遊ぶことを極端に禁止することで、とんでもない遊びに走らせるなんてことも、ないとはいえない。



まあ、なんにせよ、知的好奇心なんてものは、放っておいてもどっかから来るわけだし、
逆にいえば、人間の都合ではどうこうできないんだから、いちいちいらうものではありませんな。

それよりは、そういうものが来た時に、付き合えるだけの準備をしておいたほうがいい。

普段から、いらんことばっかりして、テンションを下げさせて、
いざ、勉強しようかって時に、慌てるばかりで何もできないなんてのは、つまらない。

付き合えないから止めさせる、なんてのは、もっともつまらない。

そうならないためにも、是非、大人が、手前勝手に好きな勉強をして、
子供に付き合えるだけの体力をつけて欲しいと思いますけどね。


特に、「子供のため」「子供のため」とうるさい人は、
是非、一度、子供になりきって、勉強ってやつをしっかりやってほしいものです。

そうすれば、勉強の実体もつかめるんでしょ。
(目に見えない亡霊みたいな勉強を、追いかけている人も、多いんじゃない?)


そうすれば、少なからず、「生きる」ってことも、身につくと思うんだけどな…




【日記の記事】
「勉強は手前勝手にするに限る…」
「知的好奇心は、ためになるならないを超えている」





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【2008年01月】


◇「風と心とたましいと…」◇


風があると言うのを聞いて、笑う人はいるでしょうか?

風を感じると言うのを聞いて、バカにする人はいるでしょうか?


では、

心があると言うのを聞いて、笑う人はいるでしょうか?

心を感じると言うのを聞いて、バカにする人はいるでしょうか?


それでは、

魂があると言うのを聞いて、笑う人はいるでしょうか?

魂を感じると言うのを聞いて、バカにする人はいるでしょうか?



風があるのはみんな知ってます。
みんな、風を感じたことがあると思います。

では、心はどうでしょうか?

心を思考と定義する人、(物事を考えるんだから、心はある)
心を感情と定義する人、(好きや嫌い、快・不快を感じるんだから、心はある)
心を感覚と定義する人、(物事を感じるんだから、心はある)
心を直観と定義する人、(ひらめくんだから、心はある)

心をどう定義するかは、人それぞれとして、
みな、自身の中に、心を感じ、
故に、心が存在することを、多くの人が知っていると思います。

(日本人は特殊で、物にまで心を感じたりもしますけども…)



でも、魂となると、微妙ですよね。

うかつに魂なんて言うと、笑われたり、馬鹿にされたり、
胡散臭がられたり、引かれたり、
時に、怒られたり、

とんでもないことになってしまうかもしれません。



風、心、魂…

目には見えないもの。


風は測定できて、ほとんどの人が感じることができる。
数値化できて、肌で感じることができる。
即ち、意識して体験できる。
それがあると、胸を張って言える。

心は測定できないけれど、その一端をみんな感じることができる。
思考として、感情として、感覚として、直観として、
何らかのカタチで、みんな感じる。

そして、それを言葉などを通して、共有できる。
表現できて、共有できる。

魂は――

魂は測定できない。
意識して感じることも困難なようだ。

実際、何ものかも分からない。

それは無意識の領域にあるので(そのものは)意識できないと仮定でき、
意識できないので、表現することも、共有することも困難。
(仮の姿で、表現するのみ…)

敏感な人が、おぼろげに、そこにあると、感じるのみ。



それを無理やりカタチにすると、それはそれでなくなる。

強引にカタチにすると、胡散臭くなる。

それを別のそれだと言うと、嘘になる。
(それは属性や性質が似ていても、別のそれではない)

人間の意識が働きすぎると、時にインチキになる。
(人間の(利益目的の)操作が働くと、詐欺になる)



風、心、魂――

一部、同じ性質を持ち、同じで無いもの。

目には見えないもの。

風は体の外にあり、
心は体の内にあり、
魂はそのずっと奥にありそう…


風、心、魂――

言葉として知ってはいるけど、
実はよく知らない、
不思議なもの。



(我々が知るのは、その作用ぐらいか…)

(風は吹き、時に荒れ狂い、何かを運んでくる…)




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【2007年12月】


◇「強力なもの/ペンは剣よりも強し」◇


ペンは剣よりも強し――

この言葉は、イギリスの小説家、エドワード・ジョージ・ブルワー・リットンの言葉なのだそうです。



意味はというと、
「思想や文学の力は武力よりも大きな力をもつ」(「大辞泉」より)
らしいのですが、

イメージからすると、
「報道の力は、武力に勝る」
とも取れるように思います。

で、何を言いたいのかというと、
「報道の力というものは強力である」
ということ、

そして、故に、
「その強力な力を行使する時には、慎重さが必要である」
ということです。



いや、報道のみならず、強力な力というものは、それを使うときにはそれなりの配慮や注意が必要なのだと思います。
そうでないと、思わぬ、そして大きな、過失を犯してしまう。

それは車でもそう。
あまりに注意力散漫だと、人を殺してしまう。

それは電力などのエネルギーでもそう。
使い方を間違えると、大惨事になってしまう。

それは言葉や文章でもそう。
それが大きな力を有した時には、大きな被害を生んでしまうこともあります。
(風評被害とか、誤解のひとり歩きとか)



これらは、非常に便利であったり、価値のある面も有しているのですが、
それなりの――ある時には、かなりの――力を持つが故に、
あまりに注意力散漫で、配慮に欠けた使い方をすると、大惨事になることがあります。

力を持たないものは価値に欠け、力を有するものは、その力の分だけ価値を持つことになるのですが、
その力の分だけ、リスクや責任を背負うことにもなります。

ですから、あまりにそれに「慣れ」、その力のありようというものを忘れてしまうと、
大きな失敗をしてしまうようです。



いや、まあ、人間だから、どうしても失敗はしてしまうものだとは思いますが、
しかし、何度もそれを続けているとなると、それはただの過失ではなくなるのかもしれません。

無意識の確信犯のようなものでしょう。
それが起こることを経験しながら、なお、それをし続けるのです。

そうなることを経験的には知りながら、それを意識しないが故に無知であり、必ずそうなることを繰り返してしまうのです。

まあ、人間である以上、こういうことは少なからずしてしまうものなのですが、
上記の通り、扱う力が大きいと、それによって生じる結果も大きいものとなってしまいます。

それがよい結果の時は、ホクホクですが、
悪い結果となると、もうどうしようもありません。

しかし、結果というものが、選択の延長線上にある以上、
それは誰かしら・何かしらの選択によって生じているわけで、
故に、「しょうがない」では片付けられない部分も有するようです。

無意識なまま「しょうがない」で片付けると、また起こります。
あるいは、後悔するにしても、自身の選択というものをなおざりにすると、悔いることで完結してしまって、また同じことが起こるんですね。

だから、つらいながらも、時間をかけて、意識できるようにならないといけないのだと思います。


というわけで、「強さ」とは、その影響力や結果を大きくするのみにあらず、
上で書いたようなことを認められる、受け容れられるようになることなのだと思います。

(それを、時間をかけて、やり遂げることなんでしょう)
(そうすれば、おのずと、生じる結果も変化するんですから)









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