【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、表紙の過去ログ 09年09月分
シリーズ「コンプレックス」の第28回「補う他者」を紹介をしています。

表紙過去ログ

【2009年09月】


◇「第28回 補う他者/コンプレックス」◇


(第1回〜第27回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)


前回、前々回と、人間には二つの心が生じることがある、といったことを書きました。そして、その二つの心が生きる世界はひとりの人間の中、ということになります。

ひとつのまとまりを持った人間。その中に生じる、二つの心。同じ世界に生きながら同じでない存在。違う性質を持ちながら、同じ属性である存在。同じ領域に生じる、ふたつの思い。

これは人間の内部の話ですが、人間の外部の話としても通用しそうで、興味深いですね。人間の中と外。個人と社会。それぞれで、このような傾向が見えたりします。



コンプレックスに悩む状態というのは、ある見方では、自我とは別の感情が発生した状態、といえるかもしれません。カッとなったり、ドキドキしたり、訳の分からぬ感情が湧いてきたり、心に隙間が生じたり、と、いつもとは違う状態になってしまう。コントロールできない別の何かに、振り回されてしまう。

これは今まで書いてきたことを考えると、自分の中に切り離された半身(半心?)があり、その影響を受けていると例えられるでしょうか。いや、別に、別の人格があるとか、そういうことではないですよ。(そういう例も、あるかもしれませんが)

というよりは、自分の中に生きていない半面みたいなものがあって、それが「生きたい、生きたい」と主張するかのように、自我に影響を与えてくるわけですね。前回の例でいうと、自我から切り離された心が、自律性を持って主張しだすのです。あるいは、勝手に生き出す。生きようとする。



で、自我にしてみれば、そんなのは困るわけです。困る前に、心当たりがないので、驚いたり、戸惑ったりします。自分から切り離しているので、存在を知らないわけだし。

しかも、切り離すようなものだから、気軽に「ああ、そうしましょうか」と従えるものではありません。どちらかといえば、嫌っていたり、控えていたようなもの。拒否していたもの。そういうものがパッと出てきたり、動き出す。

こうなると、正体が分かってきても、困りますよね。自我にとっては、したくないことだから。あるいは、タブーとして禁じていたようなものだから。「はい、そうですか」と気軽に認めるわけでもいかない。



しかしその、困った存在が自分を助けてくれる存在になったりするのだから、世の中分からないもんです。その困った存在が――ある意味では、その困った存在だけが――自分を助け、補ってくれるのです。



人間、長く生きていると不自然になるんですよね。どうしても、不自然になります。

例えば、キッチリしようと頑張って生きていれば、キッチリしすぎて不自然になる。自由に生きようとしていれば、自由すぎて不自然になってくる。硬すぎて不自然になったり、やわらかすぎて不自然になったり。信じすぎて、疑いすぎて、頑張りすぎて、やらなすぎて、いろいろなカタチで不自然になります。

あまりに一方向に進みすぎて、逆が疎かになってしまう。バランスを欠くわけですね。片方が肥大化して、逆の片方が痩せ細るような感じです。人間というのは、目には見えない部分で、こうなってしまうものなんです。

ある意味では、ひとりの人間として確立すればするほど、バランスを欠き、どこかに空白を作ってしまうんですね。歪(いびつ)になる。こっちはしっかりやってるけど、反対のあっちは手つかず、みたいな。

そういう意味では、人間はひとつのことに頑張り、確立した代償として、どこかに欠損を作ってしまうものなのかもしれません。



そして、それを補ってくれるのが、実は、上で述べた困った存在なんですね。

その困った存在は、「ちょっと待て!」と言ってくれるんです。

やり直しのきっかけを与えてくれるですね。

自我とは切れているだけに、自我とは違うことを主張してくれる。今まで生きてなかったような部分を、生きようとしてくれる。勝手にやられるので自我にとっては堪りませんが、そういうことをしてくれるんです。

そう考えると、確かに困ったやつだけど、なかなか頼りになるともいえませんか? 勝手にとんでもないことをする存在ですが、全体のバランスというものを考えると、ちょっと待てよ、と思えてきません? しかも、切っても切れない関係な訳ですしね。



例えば、我慢して、我慢して、我慢してという生き方をした人は、もう我慢しなくてもよいわけでしょ。少し離れた人ならば、多くの人がそう思ったりする。そりゃあんた、もう我慢せんでええわ、と言いたくなる。

しかし、その中に生きる人は、それに気づかない。それが当たり前になっているので、疑問を持たない。確立された道の上を、自動で行ってしまう。誰もがそうなるんです。

その時に、「おかしいんじゃないか!」と言ってくれるのが、ある意味では、コンプレックスです。こういう時、外から言われると揉めてしまいますが、内も内、自分自身の中から、異論が出る。不自然だと、声が上がる。

で、コンプレックスに悩まされたり、振り回されたりしながら、何かしらに気づいてゆく。例えば、不自然な我慢に気づく。ああ、もう我慢せんでいいのか、と思える日が来たりする。

我慢するくらいだから、それは何らかのタブーなのかもしれません。抑えるだけの理由があるのでしょう。でも、それを最悪のカタチで発現するのを避けながら、よいカタチで発現させれば話は別ですよね。物事というのは、やり方、発現の仕方によって、随分違ってきますから。

恋心だって、文学的なものから犯罪的なものまで、いろいろあるでしょ。感情だって、人を感動させるものから、犯罪につながるものまで、いろいろあります。だから必ずしも抑え込む必要はない。罪のない範囲で、発現させればよい。

別によいカタチでなくてもいいじゃないですか。むしろ不細工なカタチであっても、罪のないカタチで引き出せば、それはそれでいいわけです。今まで我慢していたようなものは、最初はけっこうえげつないカタチで噴出することが多い面もあるし。

だいたいが、今まで書いてきたようなことを考えると、それは責められんでしょう。むしろ、自然だとさえ思える。詰まっていたところを流すんだから、ビックリするようなものも出ます。いろいろと詰まってたから。混沌としてたりするから、びっくりするような濃いものが出ても不思議じゃない。

だって、その後流れを取り戻して、自然な姿になってゆくんだから。一回詰まったものを出して、それからそれなりに流れるようになってゆく。それが自然です。違いますか?

パイプ掃除を想像してください。詰まっていた物が流れる時、ビックリするようなものが出て来たりするでしょ? で、その後に、自然な状態に戻る。流れるようになる。



そして、こういうことの引き金になってくれるのが、困った存在だというわけですね。よく言われる、トリックスター。こいつのおかげで、場は変わる。

我々は困った存在に悩み、困らない日常を望みます。でも、困らないならそのままで、我慢、我慢、我慢を続けるわけでしょ(我慢はひとつの例えですけどね)。それが、困った存在と付き合うことで、閉塞した状態がぶち破られるわけですから、何がよいことなのか分かりません。

人間の視点では困った存在。悩みだったり、苦悩だったり、不安だったり。でも、天の視点でいえば、それはよき未来のために必要な通過儀礼のようにも見える。

そう考えると、この困った存在には、確かにいろいろと困らせられるのだけれど、単に困らせるだけの存在ではないことが分かってきます。

ある意味では、彼らは独立した存在として、総体を破滅から救おうとしてくれているのです。主体が見逃しているものを、見てくれる。この、従わない困ったやつは、従わない性質を持つからこそ、違うものをちゃんと見てくれる。



本当に、腹の底から困るにしても、それを通して、キッチリした生き方をしてきた人が自由な生き方を取り入れたり、自由にしてきた人がキッチリした生き方を取り入れたり、硬すぎた人がやわらかさを、やわらかすぎた人が硬さを、そういう風に生き方を改変するのだとしたら、そこには成長があるということになる。

歪なものは丸くなり、偏ったものはバランスを取り戻す。うすうす分かっていた足りないものを、足してくれる。思いもしなかった抜け落ちていたものを、与えてくれたりする。

タブーとして頑なに禁じてきたものの中に、罪のない部分を見出し、それを自分の人生に組み込むということが、何を意味するか。

それによって減らせる負荷もあるはずです。



こういうことを考えると、コンプレックスというヤツは、我々にとって困った存在でありながら、今までなかったものを補ってくれる、あるいは、補うきっかけを作ってくれる、けっこういいヤツにも思えてきます。

そして、こういう布置が、何らかの集団の中にもあるんですね。ひとりの人間をひとつのまとまりとして捉えた時にも、こういうことがいえるし、集団をひとつのまとまりとして捉えた時も、同じようなことがいえるのです。

困ったものというのも、見ようによっては、それだけではないんですね…









(続きは「コンプレックスを持つ意味」に…)





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