【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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ここでは、読み物を書いています。
このページは、「立ち位置とか」。

読み物


『立ち位置とか』




人間、立つ位置によって、見える景色は変わるようです。



「対立する要素と、全体性の回復」でも、触れたように、男性的自我という立ち位置から、人間の本質を見た場合、それは女性的イメージの方向にあります。

人間の本質とは男性的要素も、女性的要素も包含したものと仮定できますから、それは男性的自我から見た場合、今欠けている要素である、無意識内の女性的イメージとして現れるわけです。(また、逆も然りです)

(因みに、ここでいう男性的自我・女性的自我とは、自我の性質であって、性別のことではありません)



もう少し別の例を挙げますと、例えば、政治的なスタンスを考えた場合、いわゆる、左と呼ばれる人の方から見れば、真ん中の人は、右よりの人であり、右と呼ばれる人の方から見れば、真ん中の人は、左よりの人となります。

実際、左翼的な思想を持つ人が、真ん中的なことを右翼的だと言ってみたり、逆に、右翼的な思想を持つ人が、真ん中的なことを左翼的だと言ってみたりと、何だか不毛な議論を展開している場面に出くわすこともあります。

更に、自分は左翼でも右翼でもない真ん中の人間だ、と言っている人が、案外どちらかに偏って見えることもあります。

(もっとも、何が真ん中的かは難しいところでもあります。立ち位置によって、何を真ん中とするかは変わってきますから。それぞれの立ち位置で、一般的とされることが、変化しちゃったりします)



痛ましい事件を考えても、被害者側の立ち位置にいるのと、加害者側の立ち位置にいるのでは、見える景色が、まるきり違ってきます。

テレビの前の我々は、どちらかというと被害者側の人に感情移入しがちですが、加害者、及び、加害関係者にならないとも限りません。

そういった意味で、被害者にも加害者にもならないように――心がけでどうにかできるレベルでは――そう心がけたいものです。

(もっとも、心がけや人間の力では、どうにもならない事もありますから、難しいところです)



心理学というものを考えても、学問的立場に立つ人は、学問的検証に重きを置き、(その学派にとって)例外的なことは許さないかもしれません。一方、治療的な立場に立つ人は、治療や効果に重きを置き、例外的なこともどんどん応用していくかもしれません。

(まあ、大雑把な例ですが)



社会で働いていても、技術屋の立場、製造分野の立場、品質保証の立場、営業の立場、いろいろあります。総務の立場だって、人事の立場だってあるでしょう。また、互いの立場ゆえに、揉めることもあると思います。(場面場面で、力関係が違ったりなんかして、ややこしくなる場合もあるでしょう)

技術屋にしたって、電気屋、メカ屋、ソフト屋、いろいろあります。社内のこともあれば、取引先や外注との関係もあります。(技術屋と言いながら、人間関係は大です)

それぞれの立場があって、当然見える景色も違って、守りたいもの・譲れないものも違って、意見や主張も違ってきます。なもんで、時にぶつかり合ったりします。(分かっちゃいるけど、譲れない…とか)



で、こういうものは、どちらが良いとか悪いとかではなくて、ともかく、「立ち位置」というものが違っているのだ、と言えそうです。

それに、とかく、本質から離れた価値観的な議論は、不毛な言い合い(時に、罵りあい)に終わることも度々です。

自分の立場を守るために――それは大事ですが、そればっかりになると、やっぱり揉めそうです。

自分の立ち位置もあれば、相手の立ち位置もある、自分の立場もあれば、相手の立場もある――それを忘れると、収束には向かいにくいのかもしれません。


立ち位置が違っても、本質に向かっていればいいのですが…



<本質>


上で、「立ち位置の違い」というような事について書きましたが、これがうまく働いている場合、それはアプローチの違いはあるものの、ものの「本質」というものに、向かうのかもしれません。



例えば、

・男性に生まれるにしても、女性に生まれるにしても、それが成熟していけば、「人間そのもの」というものに向かっていくと思います。人間というものが、成熟していくでしょう。
(性差を無視した、ではなくて、性差を超越した――「人間そのもの」へ、ですね。あるいは、両性を包含した?)

・政治的立場にしても、右にしても左にしても、その立場や考え方は違えど、目標とするところは「戦争反対」であったり、「平和」であったり、「国のため」であったりするようです。
(前時代には、右よりの発言は「戦争賛美」として一蹴されましたが、話をよく聞いてみると、「如何に戦争を回避するか」のための「防衛手段」だったりします)

・被害者の立場にしても、加害者の立場にしても、痛ましい事件は起こってほしくない、という気持ちは同じでしょう。

・心理学にしても、学問的立場であれ、治療者的立場であれ、その根本は同じはずです。

・会社での立場にしても、いい物を作って売りたい、という気持ちは同じでしょう。

(非常に、ざっくりとした言い方になりますが…)


つまり、立ち位置は違えども、言っていることや目指しているものは同じだったりします。別の道筋を通って、別のアプローチで、同じものを目指しているわけです。



ところが、実際問題、すべてがそうかと言うと、そうでもないようです。

・男性のため、女性のため、と言いながら、人間そのものを貶め(おとしめ)ている場合もあります。男女平等を盾に、性差を無視したり、それを「強要」するのは、どんなもんでしょうか。
(大事なのは、女性的自我を持った男性でも、男性的自我を持った女性でも、それを理由に「人間としての権利や尊厳」を貶められるいわれはない!という事です。そして、これは性差を越えた純粋なる「人間の権利」です。性差を無視するのとは違います。「男は男らしく生きなければならない」と「男は男らしく生きてはならない」は、単なる反転でしょう。「人間そのもの」という本質からは離れているわけです)

・平和のためにと言いながら、特定の勢力・思想に加担する。そんな人に、利用されている。こういうのはどうでしょうか。
(日本人は、「平和」とか「平等」と聞いただけで、無条件に賛成したり、反論できない雰囲気に呑まれがちですが、その人が何を言い、何をしようとしているか、見極めないと、大変なことになるかもしれません)
(イデオロギーの違う人を問答無用に吊るし上げ、実際、死に追いやるような人たちが、「平和」や「平等」を利用して活動している可能性だってあります。「平和」「平等」と言いながら、それは「一方のみの」、あるいは「片方に都合のいい」、そんな「平和」や「平等」かもしれません)

・痛ましい事件にしても、感情的になりすぎて、事件の本質や背景を無視してしまうと、見逃してしまうものがありそうです。(当然、当事者や身近な人は別ですが…。感情的になって、当たり前です)
(痛ましい事件を回避するには、その本質や背景を読みとることも必要です。誰か(あるいは何か)悪者を作り出すだけでは、根本的な解決にはならないようです)

・治療というものを忘れた心理学、学問的なものを無視した心理学はどうでしょうか?
(治療できない心理学なんて役に立たないわけだし、学問的なものを無視した心理学はインチキ科学になるかもしれません)
(「これさえすれば、みんな大丈夫!」とか言い出すと、あやしいかもしれませんね)

・各人の主張や立場が前に出すぎて、いい物が作れなくなった会社はどうでしょうか?
(いずれ潰れてしまいそうです)


両者の中心にある、あるいは、両者を包含した、「本質」に向かえば、いいわけですが、実際問題を見てみると、上記のように、とても「本質」に向かっているとは言えないようなケースも多々あります。

特に、片側がもう一方を、安易に蔑ろにしている場合は、その傾向は強いでしょうか。(とはいえ、片方が強くなることが、バランスを回復させるという意味で必要なときもありますから、難しいところです)


ともかく、あまりに一面的になったり、知らぬことを頭ごなしに否定したり、それ以前に聞く耳を持たなかったり、あるいは、盲目的に信じたり、自分の主張を通すためには手段を選ばなかったり、破綻した理論をいつまでも唱えたり、明らかに「都合」の上に成り立っていたり、そういうものは、とても本質に向かっているとは言えないのかもしれません。



立ち位置によって見える景色は違うわけですが、景色自体を見てなかったり、あるものを見ず、ないものを見ている場合は、危ういかもしれませんね。

しっかり、自分の立ち位置に立って、それを自覚して、また、それに支配されず、時には、相反する立ち位置にも心を馳せ、物事の本質に向かう、そういうことが大事かもしれません。


また、こういう事を、ひとりの人間の事としてみるならば、

しっかり、自我を確立し、それでいて、意識的なものだけにこだわらず、やがて、無意識的なものにも注目し、両者を包含した自己に向かう、>そういえるでしょうか。



<キモチ>


「相手の気持ちを考えましょう」というのも、非常に日本人的な美徳のひとつであるように思います。

(こういうスローガンは世界至る所にあると思いますが、日本のは、また違う趣を持っているのではないかと…。まず何を第一と考えているか、とか)



AとB、対立する二つの立場がある場合、「キモチ」というものを考えるなら、AのキモチとBのキモチがある――あるいは、AのキモチもBのキモチもある――といえるでしょうか。

こういう場合、A のキモチも B のキモチも考えましょうというのが、だいたい中間的な考え方という事になりそうですが、人間、なかなか複雑にできています。

Aの立場にあって、Aのキモチを大事にしろと強く思う人にとっては、Aのキモチこそが大事であって、「A のキモチも B のキモチも考えましょう」なんてトンでもない!! という話になりがちです。

「お前はBの回し者か!」なんて言う場合もあります。あるいは、「お前は、Aのキモチなんて全然考えてない!」と言ったりもするでしょうか。
(A「だけ」のキモチを大事にしないような場合には、ですね)


逆に、Bの立場にあって、Bのキモチを大事にしろと強く思う人にとっては、Bのキモチこそが大事であって、「A のキモチも B のキモチも考えましょう」なんてトンでもない!! という話になりがちです。

同じく、「お前はAの回し者か!」なんて言う場合もありますし、あるいは、「お前は、Bのキモチなんて全然考えてない!」と言ったりするかもしれません。(B「だけ」を大事にしないと、ですね)


こうなると、AのキモチもBのキモチも考えるCさんのキモチこそ、複雑かもしれません。(ボクのキモチはどうなるの? とか思うかもしれません)



人間、面白いもので、Aという集団にいるから、Aのキモチを大事にしようと言うかというと、そうでもなくて、Aという集団にありながら、Bのキモチを大事にしろと言う人もいるし、同じく、Bという集団にありながら、Aのキモチを大事にしろと言う人もいます。

また、それが必ずしも間違っているとも思いません。

ただ、お互いが、Aのキモチを大事にしろ、Bのキモチを大事にしろ、と言うとき、場合によっては、Bを大事にするキモチは殺しておけ、Aを大事にするキモチは殺しておけ――そういう主張につながりかねない、ということも、また事実です。



まあ、それも自分に対する分にはいいかもしれません。

しかし、相手に強要する時はどうでしょうか?

相手といっても、Aに対するB、Bに対するA、という意味での相手ではありません。この場合、身近な相手、という言い回しの方がしっくりくるかもしれません。


自分のキモチを殺してでも、Aのキモチを考えろ、自分のキモチを殺してでも、Bのキモチを考えろ、そういうことは多々ありますが、確かに、自分のキモチは死んでいくのかもしれません。

そうしなければならない事も、世の中に生きていると多いですが、その度に、見えないところで、何かしらの屍(しかばね)が生産されているのかもしれません。
(何かしら(のキモチ)が死んでいるのかもしれません)


そういう意味で、「〜のキモチも考えろ」という時、それも過ぎると、「(別の)〜のキモチは殺してでも」という事につながりかねない部分があり(こういうのは日本人的かもしれません)、結果、「〜のキモチを殺してでも、〜のキモチを考えろ」という事になって、「どこかで何かが死んでいる」――そういう事になってしまうのかもしれません。



こういうのは、確かにありがちな事かもしれません。また、そういう事が必要なこともあるでしょう。

でも、その自覚があるかないかで、大きく違ってくるように思います。

(自覚がないところで何かが死んでいるとき、どうなるでしょうか?)



これは何も、人対人、集団対集団、という事だけではありません。ひとりの人間の中にも、存在する事です。

ひとりの人間の中にも、意識と無意識があり、「私」と思う「自我」もあれば、それに反する――天邪鬼(あまのじゃく)みたいな――「影」も存在します。

そして、それぞれのキモチを通わすという事は、なかなかどうして、しんどい事のようです。

(そしてまた、避けられぬ事なのかもしれません。なんせ、両方、自分の中にあるものですから)



何かの問題と対決しようとする人は、他人(ひと)の中に自分を見、自分の中に他人(ひと)を見ます。

相手と対決するという事は、自分の中にある、そういう要素と対決することでもあります。

また、自分の中の、ある要素と対決しようとする時に(その要素とは、例えば影だったり、元型的なものだったりしますが)、その要素を強く持った人や、その要素を具現化したような人と、現実問題で対決せねばならない場合も多いです。

相手と対決するようで、実は自分と対決し、自分と対決するようで、実は相手と対決したりします。
(どちらにせよ、「自分のこととして」対決せねばならないようですが…)



少々脱線しましたが、話を戻しますと、何かのキモチを大事にしようとする時は、その傍で(あるいは、裏で)、別の何か(のキモチ)が死んでいたり、蔑ろにされているのかもしれません。

まあ、そういうのは仕方ないことでもありますが、事実でもあります。


「ともかく、そうなんだ」――そういう事でしょうか。

そして、「それを踏まえて、どうするのか?」――最終的には、そうなるのかもしれません。

(手痛い現実が待っていようとも、ですね)





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