【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは「ユング心理学の用語」の、「影」「投影」などについて紹介をしています。


【目次】



(1ページ目)
「元型」
「自我」
「ペルソナ」

(2ページ目)
「影」
  @「影」
  A「影」と「ペルソナ」
  B「投影」
  C「もう一つの影」

(3ページ目)
「コンプレックス」
「劣等感コンプレックス」

(4ページ目)
「アニマ・アニムス」
「トリックスター」

(5ページ目)
「個性化/個性化の過程」
「共時性」

(6ページ目)
無意識 
(2008年02月27日追加)
  個人的無意識
  普遍的無意識

【その他、療法など】
「ゲシュタルト療法」






【影】 



@「影」(shadow)


「影」は文字通り、我々に常に付いて回る問題です。
それは自分自身を映し出した姿であり、それを生んだのは自分自身です。(他人のものではありません)
振り返れば姿は見えますが、逆に、振り返らなければ姿は見えません。(ちらちら見えることはあります)
故に、自分自身より周囲の方が、影のことをよく認識している場合も多々あります。
更に、自分を映し出したものでありながら、鏡に映った姿と違って、中身は黒く、長くなったり短くなったり、大きな影の中では姿を消したり、そんなよく分からないものでもあります。

「影」は自我にとっては、不愉快な存在です。
『自分が認めたくない自身の側面』、『否定してきたもの』、『受け入れられない現実や価値観』、『社会的秩序や規範に反するもの』、『生きられなかった反面・半面』
――それらが「影」を形成します。

そんな、普段意識的には見えないようなものが、自分の比較的近いところで、存在してたりするんですね。(←ね、影みたいでしょ)

しかしながら、この自我にとって不愉快な存在を無視できるかというと、それは無理なようです。
影はいつも、自身の傍にいて、ついて離れないし、それから逃げることはかないません。見ないでおこうと思えば見ないでおけますが、存在自体が無いものになるわけではない。自身が存在する限り、影も存在するのです。
そして、影を否定することは、余計に影に活力を与えることになるようです。

「影」のエネルギー源は、『抑圧』、『逃避』、『恐怖』など。
それによって、比較的近い見えない領域に、いろんなものが放り込まれるわけですから、影は大きくなるばかりです。

例えば、社会の規範、倫理に外れるような(ある意味、本能的な)情動は、自我によって無意識下に追いやられ、「影」となります。そういうことはしてはいけないし、ある意味、思ってもならないことなので、無意識の方に、追いやられるんですね。
欲などの情動、衝動は、それ自体は生命維持に必要なものなのですが、社会規範などによって、無意識下に抑圧されやすいようです。
で、そういうものが、影を形成してゆくのです。

影は自我に囁き(ささやき)ます、「このままでいいのか?」「これがお前の本心か?」「お前には、こんな面もあるんじゃないのか?」「そもそも、それをするのは悪いことなのか?」と。影に人格を与えると、ヘンテコに思うかもしれませんが、要求自体はあるでしょう。
例えば、性欲みたいなものは自我によって否定されやすいですが、性欲自体はコントロールできないものとして、内側からむくむくと自我に迫ってくる。(何だか知らないモヤモヤしたものが、意識に影響を与えたりもするでしょ)
そんな囁きを無視すること、抑圧することは、「影」に更なる活力を与えることにつながります。狭い押入れに、更に何かを詰め込むようなもので、当たり前に反作用が出てくる。
そして、命を吹き込まれた「影」は積極的に活動し、自我にまで影響を与えてくるかもしれません。
そうしてまで、影の役割を果たそうとするんですね。そして、これがあまりに強い時には、人格を奪うことさえあるようです。

で、影の役割とは何かというと、「生きていない反面を生きさせる」こと。
今まで抑圧されたり否定されてきたことを、生き方の中に、取り込ませることです。
例えば、性欲であるならば、「お前(自我)は性欲を否定するけれど、人間にはもともとそういうものが備わっているし、それによって子孫が生まれ、社会が続いていくんじゃないか」と、饒舌にはしゃべりませんけども、そういうことを何らかの手段で、伝えようとするんですね。それは時に夢だったり、抑えきれない情動や衝動だったり、そういったもので、やらせよう、伝えようとしてくるわけです。
ただ、自我はそういうことを無視しようとしたり、抑えつけようとしたりしますから、そこに葛藤のようなものが起こって、しんどくなったり、退行したり、病気にもなるわけです。

こういうことがあるから、「影と対決しなければならない」とか、「影と対話しなければならない」なんて言われるわけですね。
ただ、影のようなものは、自我が否定するだけあって、否定するだけの何か(根拠)を持っているので、安易に肯定するわけにも、隷属するわけにもいきません。
例えば、性欲なら、それに溺れてしまうと、とんでもないことになったり、時に犯罪になったりもするわけで、やはり、対決のようなものは必要なわけです。

これはあかん、でも、それだけじゃない――そういった葛藤の中で、意外といい面を見出したりして、そうやって、やがて内に取り込むわけです。それが統合です。今まで否定していたものを、自分の人生の中に組み入れる。それを生きることを覚える。

善悪を含めて、それを認めてゆくのです。



最後に、影の特徴をまとめますと、

1)「影」は、『自分が認めたくない自身の側面』、『否定してきたもの』、『受け容れられない現実や価値観』、『社会的秩序や規範から反するもの』、『生きられなかった反面・半面』などからなる。

2)それらを抑圧することは、「影」に活力を与えることになる。

3)「影」が全く悪いものであるかというと、そうでもなくて、多少あるほうが人間的だったりする。

4)「影」には『克服すべき課題』と『受け入れるべき生き方や価値観』という二面性がある。

5)自身の「影」からは逃げ切れない。(なぜなら、それは自分を映し出した「影」だから)

6)「影」とすべきは『対話』や『対決』であって、『言いなりになること』ではない。

7)「影」と対話するには、「自我」の関与と、自我のそれなりの強さが要求される。

となるでしょうか。



関連記事:「やさしいユング心理学 第四章 影との戦い」

日記内の関連記事:
「影 人生の諸段階/ユング心理学概説(6)」

「影/心の地図」
「夢と影」
「ゲド戦記 影との戦い」目次(前編)
「ゲド戦記 影との戦い」目次(後編)




参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書:「影」
>ユング心理学で、人格の影の面を指す元型の一つ。
>自分が生きられなかった半面が無意識の中に残されて作られるイメージ。







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【影とペルソナ】 



A「影」と「ペルソナ」


「ペルソナ」が「社会に対して適切な態度」であるのに対し、「影」は「社会や周囲に受け入れられなかった態度や価値観」という側面を持ちます。

周囲や社会と調和するためには、当然、してはならないことがあって、そういうものは無意識下に抑圧され、「影」になります。
しかし、「影」が本質的に不要かというと、もちろんそうではなくて、社会規範やマナーには反するものの、人間の維持活動や人間らしさとして、むしろ必要だったりもする。

例えば、本能的要素の多くは社会規範から外れたりしますから、抑圧されて「影」になる傾向があります。
本能に従い行動することは、社会や周囲にとっては迷惑になることが多いからです。
社会で暮らそうと思えば、食欲や性欲をある程度制御することが要求されますし、それは当たり前のことだったりします。人間は獣のように、振舞うことはできません。目の前のものに、欲望のままかぶりつくと、えらいことになります。

が、しかし、食欲や性欲そのものが「悪」であり、「不必要」かというと、決してそうではありません。
生命を維持しようと思えば食欲は必要であるし、子孫を生み出すのにも性欲は必要です。
また、ある程度、食欲や性欲がある方が人間的だし、それがうまく働くと、魅力的にさえなる。

ここで二つの事が要求されます。

1)本能や欲といった「影」の要素に支配されてはならない。(それは「罪」や「周囲との不調和」を生みます)
2)しかし、それは人間にとって必要なものであり、全く無視することはできない。


上記の、1)は「影を克服すること」を要求し、2)は「影を受け容れること」を要求します。

こういう葛藤の中で、人は悩んだり苦しんだりもするんですね。

で、本来克服すべき部分に容易に従うと、怖ろしいことになるかもしれないし、受け容れるべきものを拒否し続けると、それはそれで困ったことになりそうです。
また、こういうことは傍から見ていると分かりやすかったりしますが、当事者となるとなかなか難しい部分があるので、安易に解決できるものでもなさそうです。

人には、今までそうしてきた生き方や信条があるので、それを壊すのは、なかなかたいへんです。しかし、影との対決は、そういうことを要求するんですね。


人間はペルソナを形成せねばならず、また同時に、その間放っておいたものにも、やがて向き合わねばならなくなるのです。
作り、壊し、また構成しと、そういうしんどいことを、せねばならないようです。

そしてそれを、成長と呼ぶ。







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【投影】 



B「投影」


人間は生きていくために、保護装置のような、防衛のメカニズムを持っているのですが、「投影」もそのひとつです。

「影」は前述の通り、自身の受け容れがたい半面であったりしますが、それに気づくことは意識に大きな負荷を与えることになります。
自分の中に、今までの生き方とは逆なものが存在していることに気づくんですから、なかなかたいへんです。ある部分でキレイなことを望んでいる人が、自分の中に汚れた部分を見つけるのですから、これは堪りません。ショックな出来事です。(○○においてキレイに生きようとしている人が、自身の中に○○に汚い部分や、○○を望む部分を見出すのですから、堪らないものがあります)
で、そのままでは意識に大きな負荷がかかってしまうので、人間には「そういうことに気づかないでおく」メカニズムが、幾つか存在します。それに気づかないことで、意識がダメージを負うのを回避するんですね。

で、「投影」とは、自身の影を他者に投影することであり、例えば、自分の中の汚い部分を他者に投影することで、心の安定を図ろうとするメカニズムです。自分の中にある「それ」は意識せず、ないことにして、普段から気にかかる「それ」を、相手のものとして認識するんですね。
まあ、図るといっても、意識的にそうするのではなくて、むしろ無意識的に、人間の深くにあるメカニズムが、自動的にそうさせるのですが…。

「(自分のことを)棚に上げる」とか、「責任転嫁する」とかがそれで、自分のしていることは不問にしながら、同じようなことをしている相手をいちいち指摘し、ことさらに責めたりします。もう、徹底的に攻撃します。
自分は自分で認められないようなことを多々しているのですが、それは自分では否定していることだったり、汚いと思うことだったり、してはならないと常々思っていることなので、それに気づくことは、心に大きな負荷を与えることになります。つまり、耐えられないわけです。
で、そんなことで自我が壊れたら困るので、そういうことを全部目の前の、自分と同じようなことをしている人に投影して、自我がダメージを負うことを回避するわけです。(あの人はいつも××する。でも、わたしが同じ××をしていることはしりません、みたいな…)

で、猛烈に怒ったり、攻撃したりするんですね。
それもそのはず、それは自分が否定してきたものだし、もともと嫌いなことだし、同時に、いつも自分でしていることでもあるのです。いつもしないまでも、潜在的に、それを持っていることだったりするんですね。
だから、無意識ながら、気になって気になって仕方ない。

で、影はその役割として、自我に「お前だってそうしてるじゃないか!」みたいに囁きかけるわけです。
いや、まあ、囁きかけはしませんが、そういう風なことを何らかの手段で伝えようとするんですね。だから、自我の方は余計に腹が立つし、でも認められないし、で、結果として、その傾向を認めやすい、同じことをしている目の前の誰かを攻撃するわけです。
(自分がいつもしている○○や、自分が潜在的に持っている○○を、相手の中に見出し、あの人はいつも○○してばかりいるとか、あの人はいちいち○○にこだわるとか、そういうことを言ってしまう)


この「投影」が集団で行われることもあります。
国家間の偏見、スケープゴート作りも、「投影」の所産でしょう。(あるいは、もっと狭い集団、地域などでも行われる場合もあるでしょう)
自分たちの背負いきれない影を、近くの集団なり個人なりに投影し、一気呵成に攻め立てているような場合もあるでしょうね。

また、自分の中の怒り、憎しみ、相手を傷つけたいという否定的な情動を、相手に投影し、結果、相手が自分に怒っているのではないか? 相手が自分を憎んでいるのではないか? 相手が自分を傷つけようとしているのではないか? などと感じてしまうことだってあるかもしれません。


「投影」は、自我の保護という意味で、有用なメカニズムですが、同時に、いつまでたっても自身の態度を修正できないという、困った面も持ちます。
人間は、自分の態度や行動を不問にしている限り、憤ることはできても、やり直すことは難しいようです。
ただ、影の性質を考えると、自分ではなかなか見えないわけですから、投影という手段は、自分の影を認識する上において、有用な手段でもあります。

つまり、自身ではなかなか見えない背後にある影も、何かに投影されることで、認識しやすくなるんですね。
例えば、「鏡」というものを考えるなら、鏡に映っている自分の姿をちゃんと見ない限り、身繕いなんかできないわけです。鏡の中の自分の姿を、他人のものとしている限り、それを指差して笑うばかりで、身を正すなんてことはできない。

自身の影を、相手のものとして認識している限り、それは単に腹の立つものだったり、攻撃の対象だったり、軽く笑い飛ばすものだったりにすぎませんが、それを自分のものでもあると気づいた時は、話が違ってきます。
それは修正のチャンスでもあるし、正すべき点を教えてくれるヒントにもなり得る。
(ああ、自分にはこういうところがあったのか、じゃあ――みたいな)

ただ、落ち込まずにはおれない、って面もあって、自分の中に影を見出した時は、だいたい疲弊するでしょう。場合によっては、寝込むかもしれない。


影を認識することは、なかなかしんどいことですが、影を認識しない限り、それに対応できないわけですから、それを少しずつでもやる必要がどうしても生じます。自分のしていることを他者に投影している限り、何も変わりませんからね。
ですから、投影のメカニズムは、それを責任転嫁に使っている限り、自身への「保護」や「安定」、「不変」に留まりますが、それを己がものとして引き受けようとした時は、「変容」の手がかりになるのです。
ただ、それは「保護」の反面であり、「安定」の反面が生じるわけですから、苦しくもなるし、不安定にもなるんですね。

人間として成長しようとすると、どうしてもそういうことを経なければならなくなるのです。

影は自分の一部であり、自分から生じたものなのですから、それを引き受けないわけにはいかない。
はじめ、投影などの防衛のメカニズムにより、自我は守られねばなりませんが、同時に、成長した自我は、それを引き受けねばならないわけです。
幼児と大人が同じでないように、幼い自我と成長した自我は、同じでなくなる。影と対決するだけの資格を与えられたら、その仕事に取り組まねばならなくなります。


人生の前半での「倫理」「道徳」は義務的(あるときは支配的)ですが、「影」を引き受けた人はそれを越え、当たり前に、自身の機能として、「倫理観」「道徳観」を持つことができるのではないでしょうか。そして、そういうものは簡単には揺るがないでしょう。

我々はいつか、不平を漏らすだけの存在から、脱せねばならないのです。







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【もうひとつの影】 



C「もう一つの影」


Bでは「投影」について述べましたが、「投影」もそれに気づき、『自身の「影」の認識 → 態度や価値観の修正』とつながれば、かなり意味のあることだと思います。しかし、世の中には、どうしようもない影もあって、一方的に影を投影されると、困ってしまいますよね。

まあ、投影なんてものは誰でもやることだし、投影されるにしても、それ相応の理由みたいなものがあったりするんですが、投影があまりに強力な場合、理性や合理性というものはまったく不問にされ、自身の中にある否定的側面や劣等感を、事実関係などまったく関係無しに、相手のせいにし、責任転嫁する場合もあるようです。

だいたい、投影される時というのは、投影する方の影をされる方も持っていて、それを口実に投影は行なわれるわけですが、そういうものが殆どなくても、一方的に投影されるようなケースもあるようです。

投影もパターン化され、しかもその威力が強力になると、自分(自分たち)にとって不都合なことが生じる度に、「あいつが悪い」「あいつのせい」ということになります。
もう、事実関係など関係無しに、ともかく「あいつが悪い」「あいつのせい」ということになる。
それはもう、反射のように、そうなってしまうんですね。理性も合理性もなく、むしろ、一種のメカニズムのように、それが行われてしまいます。

あるいは、劣等感というものが計り知れないほど大きければ、特に何もなくても、あいつは人を馬鹿にしている、みんなを見下している、そうに違いない、となったりする。
自身の中の大きく強力な影が、手当たりしだいに投影先を見つけたり、あるいは、既に投影先がいつも決まっていたりして、ともかくそこに投影されるのです。

ただ、保護の面から考えれば、そうまでして、壊れそうな自我を守る必要があるんでしょう。


が、しかし、これをされた方は非常に困ってしまいます。なにせ、本人にその気がないのに(また、してもないのに)、そうに違いない、と決め付けられるのです。
あるいは、そういう噂を広められるかもしれません。
自分の態度に問題があれば修正すればすむことですが、こちらのしていないことを問題にされたのではどうしようもありません。
それは誤解なのだと言って通じればいいですが、「投影」する相手はなかなかそれを認めてはくれません。

これがひどくなると、投影するほうは、なんとしてでも相手の人格を貶め(おとしめ)ようとするかもしれません。自身の内的現実を、外的現実として証明しようと、奔走するかもしれない。
事実を歪曲したり、嘘をついたり、表情や所作にまで文句をつけ、非難することもあるかもしれません。仕舞いには、「何か嫌い」とか「とにかく嫌い」と言うことだってあるでしょう。何か適当な口実を見つけては、「それみたことか」と、関係ないことまで、自分の求める結論に結び付けるかもしれません。

ともかく、悪いのは相手であって、自分であっては困るのです。
そういう流れが、その人の中に、出来上がってしまうのです。

こうして、ありもしないことで非難されるのですから、投影された方はお手上げです。
その上、こちらの意見は聞き入れてもらえないのだから、どうしようもありません。

多くの場合は、投影されるほうにも「影」があり、そこを指摘され、投影されるわけですが、こういう風になると、事態はこんがらがっていきます。

しかし、こういう例は非常に稀で、投影されるほうに何の落ち度もないということは、少ないんでしょうね(というか、殆どない)。人間のやることですから、まずい点はあるわけで、そういう意味では、投影されるだけの理由が、ある程度はあるわけです。
ただ、投影も病的なほど強力になると、そうもいっておれず、何でもかんでも、そして、何が何でも、自身の影を相手に投影するといった、事態も生じるのかもしれません。

そうなると、さすがに困ってしまいますね。
こちらには相手の思うような意図はなく、そのような態度や行動もとっていないのに、手前勝手に投影され、非難されてしまう。
こちらの態度を修正しようにも、修正すべき材料がない。
仮にこちらが折れて下手(したて)に出ても、相手は納得しない。
それもそのはず、「影」は相手の中にあり、こちらにないのです。
相手が自分の影を認めない限り、際限がありません。
こちらが奴隷になってでも、相手は投影を続けるでしょう。

ただ、繰り返しますが、このような一方的なケースは少ないようです。
少なからず、影に関連する態度や行動を(知らず知らず)とっているケースのほうが多いでしょう。
ただ、こういうケースもないとはいえませんね。
病的な事例も、やはりあるのではないでしょうか。

だから、こういう事例に巻き込まれて、いらぬ非難をせぬよう、じっくり見るという行為は大事かもしれません。検証もなしに、投影に支配された主張に呑み込まれるのは、危ういかもしれませんね。
相手の言うことに耳を傾けるにしても、それが外的にも現実なのか、それとも内的な現実が強調されたものなのか、見ておくことも必要なようです。

してもないことで責められるのは、そりゃもう、つらいことですよ。
そして、やがてそれは攻め手側にも返るわけですから、不毛ですよね。

投影によって血が流れ、しかも、それが何の根拠もないものだったりしたら、救いがありません。
そういうことが出来るだけ生じないように、そばにいる人もまた、ちゃんと見るということを徹底しなければならないように思います。

(投影に呑み込まれたり、一緒になって投影しだすと、怖いですわな)

そして、こういうことが収束するには、何より時間がかかるわけですから、
例え善意でも、いらぬ行動はつつしみ、人のことはそっとしながら、しかし、自身のことは律して、じっと待たねばならないのかもしれません。



こういう時に救いになるのが、「周囲がちゃんと理解していること」なのでしょう。

相手が執拗に攻撃してきても、周囲の人がそれが事実無根や誤解であることを承知していると、幾分かは救われます。
が、投影は時に、多くの人を呑み込みますから、周囲の人まで一緒になってやる、ということもあって、その時はもう悲惨です。

だから、確認することは、すごく大事なんですよね…







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